2016年5月11日水曜日

みっちーのたけのこ生活

しばらく新しい記事を発表していません。ただなんとなくです。書きたいことは、浜の真砂(まさご)の数ほどあります。

最近、少し考えるところがありまして、記事を金に換えることが出来ればと思い、そのうちのいくつかを「下書き」に戻し、ブログ上の掲載を取りやめました。換金にあたっては、未発表のものでなければならない場合があるからです。ま、私なんぞの文章が金になるほど業界は甘くないのでしょうが、そこは「モノは試し」ですから。

もう少しお金があれば、熊本や大分に義援金も送れるし・・・。東北の震災時は、自分の生活水準を越えた金額を拠出したのですがねぇ・・・。(と言っても元々の水準が低いので、大した金額じゃありません^^;)

取り敢えず、掲載中止にした文章は、「確定された予言」と「マルコよ」だけです。(そんなことはないと思いますが)もし、お読みになりたい方がいらっした場合は、当方までご連絡を。個人的に文章を送付させていただきます。万が一、何らかの方法で(芥川賞とか直木賞で)金になったら、この言葉は撤回させていただきますが(へっ、へっ、へっ)。

※ たけのこ生活・・・ビンボー人が、自分の着ているものや、身の回りのものを売って、生活費に当てる、そんな生活のことです。「優先順位」ならぬ「不要順位」を考えたら、私の毒っ気のある文章が一番です。これが金になれば、一挙両得ですから。

2016年2月13日土曜日

某投稿画像

最近の記事に読者が食いつかない。もっとも随分新しい記事を書いていない。ダメもとで私が、某投稿画サイト(あなた管)に投稿した私の画像をここにお知らせしておきます。

 ヤマガラノアヤメチャン ♪

 目の前に落雷、そして雹

何でも、この手の投稿でけっこうな金額のお金が稼げるそうですが、私にはそんな器用なことは出来ません。でも、私の投稿を見たテレビの製作会社さんから番組で使わせて欲しいとの問い合わせがあり、結果全国ネットの番組で放映されました。これで、車につけた運転映像記録装置(ドライブレコーダー)の元(一万円少々)がほぼ取れました。メデタシ、メデタシ。

2015年8月22日土曜日

マルコよ

欧州最後となる四日間のドイツ滞在を終え、ハノバー空港からデンマークのコペンハーゲン空港に移動する。ここで、成田便までは5時間近くを待たねばならない。一旦コペンハーゲンの街に出てから戻ればいいのだが、乗り遅れを心配しての観光は落ち着かない。中央駅に隣接するチボリ公園やカールスバーグ美術館なら時間つぶしにはいいのだが、デンマークはユーロ圏ではないため(EUの構成国ではあるが、共通通貨のユーロには参加していない)、通貨両替が必要となる。ユーロが使える場合もあるが、つり銭などがクローネでは他での使い道がない。我が佐久の御用邸には、すでにデンマーククローネやスエーデンクローネの小銭が溜まっている。私にとってコペンハーゲンは、最近は単なる通過点に過ぎなくなっている。時間までは大人しく空港内で待つ。

どこでもそうだが、空港の中は何でも異常に高くなる。飛行機の乗客は籠の鳥で、わざわざ外に出て、安くてうまい食事にありつくことはできにくい。いやでも高いものを買わされる。欧州に出かけるために、目を皿にして格安航空券の渉猟に神経をすり減らすのに、空港内では選択の余地は少なく、高い飯を食わねばならない。

空港内の片隅に座り心地の良い椅子を見つけ、ここで文庫本などを読む。日本から4冊の続き物を持参したが、最後の一冊を読んでしまった。雑踏に目を向ければ、随分様々な人々が行き交う。

昨今飛行機は昔と違って、私のような社会の下層で、息を殺すようにして暮らしている人間にとってさえ、手の届かない移動手段ではなくなった。いつだったかは忘れたが、欧州のどこだかの空港内の雑踏で、ひとり目に涙を浮かべながら、荷造りのやり直しを試みている東欧系の若い女性を見たことがある。私は受付の列に並んで順番を待っていた。彼女は、旅行かばんを床に置いて、中身の出し入れをしていた。艶のない乱れた金髪をかき上げながら、時々すすり上げていた。あるものはかばんの中、そしてあるのものはその周囲の床の上に乱雑に置かれていた。額に入った写真やハイヒール、その他に様々な小物が目に付いた。彼女の服装やかばんから推察すれば、決して豊かな生活をしている人とは思えない。何らかの止むに止まれぬ事情があって、その空港から飛行機に乗る。家族や友人、そして恋人との別れの悲しみ、先々の生活のことなどが彼女の不安を掻き立てていたと思われる。そこに受付からの荷物の重量超過を言われたのだろう。

どれも置いてゆけない。しかし、何とかしなければ飛行機には乗れない。彼女は、彼女の人生を一所懸命に生きている。私はそのすぐそばを通りぬけた。そんな事が、あった。

長い待ち時間をやり過ごして後、私は早めに搭乗口に向かった。日本人が多い。当たり前であり、かつまた異様な光景もである。異邦人として海外に長く過ごした後(今回はたったの半月ではあるが)、同じ日本人の中に入ってゆくのは、一種の面映さがある。ここにも様々な人々がいる。季節柄団体旅行の人たちも多い。また少数ではあるが欧米人の家族連れも目立つ。

人の一生とは、新しい尺度の模索と、古い尺度の脱ぎ捨て、その連続なのだ。私は欧州に長くいた。無意識の中で、彼らの尺度に反発をしつつも、いつしかそれを少なからず受け入れてきた。それでなければ生きてゆけなかった。欧州に暮らしながら日本の尺度が抜けきらないように、日本に帰ってからは、身に着けた欧州の尺度が完全には抜けきらず、それがいわば宿痾(しゅくあ)のように日本での生活の思わぬところで顔を出す。

ついに搭乗案内が流れ、人々が立ち上がって列を作り始める。私の座席は機の後方なので、早めに乗り込みが始まる。搭乗橋から機内に入る時、いつものことながら、緊張感とも高揚感ともつかないものが、私の心に湧き上がる。

狭い混雑する通路を通り抜けて、私は戸惑を覚えた。私の席は通路側で、その隣の窓側の席には小さな男の子が座っていた。周囲に連れは見当たらない。成田までの十一時間の道連れが、この小さな男の子である。首から紐で青いケースをさげ、小さな窓から外を見ていた。頑なに顔を外に向け、私を見ようとはしない。

髪が暗い栗毛色で、頼りないほど細く柔らかく、癖のない直毛である。一番の印象は、モンゴロイドには少ない、上に反った長い睫毛であった。私は、小鳥の巣作りよろしく自分の席を心地よく整え、座って安全帯を締めた。気の利いた航空会社なら日本向けの便には、衛星を通じて印刷されたその日の日本の新聞が用意してあるが、この航空会社にはそれは望めない。それどころか英字新聞さえ用意されていないかった。無聊にまかせて少しの間、男の子を観察する。

機は成田に向けて概ね定刻の離陸となった。読む本も新聞もない私は、緊急用に持参しているスドクを開き、これに挑戦し始めた。縦横九つづつのマスを1から9までの数字で埋めてゆく。縦でも横でも同じ数字は入らない。結構な集中力を要し、頭の訓練と時間潰しには持って来いである。

子供がひとりで飛行機に乗る場合は、いろいろ制約があることと思う。おそらくこの子は、デンマーク人のお父さんが空港まで見送りに来ていたのだろう。日本から来た時、久しぶりに会ったお父さんに、最初は戸惑いながらもようやく慣れた頃、日本に帰らねばならず、見える筈のないお父さんの姿を、空港ビルのどこかに追っていたのだろうか。

私は、この小さな隣人のことで想像が膨らんでしまい、スドクには集中できなかった。途中から完全に行きづまってしまった。どこかに解決の糸口がある筈だがわからない。その時、私の頭にふとある考えが浮かんだ。

無理かとも思ったが、私は思い切って小さな道連れに話しかけてみた。

「キミ、日本語わかる?」

少年は肯きつつ、小さな声でわかると言った。その直後に私は自分の放った言葉に軽い後悔を感じた。この子はその顔つきと状況から、明らかに白人と日本人の混血であり、このことを問われるのは嫌なのではあるまいかと思ったのだ。しかし、私の思いは杞憂であった。少年は少なくとも表面上は平静だった。

※日本では混血児をハーフ(Half)と言うが、これは日本独特の通じない英語である。

「キミね、トイレに行きたいときは遠慮しないでいつでも言うんだよ。ところでおじさん、このスドク、途中でわからなくなってしまたんだけど、キミわからないかな?」

少年は肯いて、意外なほどあっさりと私の差し出したスドクとボールペンを、小さな手で受け取り、私のやりかけの問題に目を通し始めた。ものの一分も経つか経たないかのうちに少年は、私の過ちを指摘した。同じ列の上には二つと同じ数字は入らない。それが私の埋めた数字では、どうしても残った空のマスに同じ数字が入ることになり、どこかに間違いがあると、指摘されてしまった。

私は、心の中で舌を巻いた。このパズルが解るどころではなく、私の間違いを極めて短時間のうちに指摘してきたのだった。

私は、スドクを返してもらいながら引き続き彼に話しかけた。年齢は8才で、東京の小学校に通っていると言う。名前はマルコ。聖書からとった名前と思われる。大人になったら宇宙飛行士かデザイナーになりたいと言う。

客室乗務員は、当然彼のことを気にかけており、飲み物を配るときも、食事のときも何くれと声を掛ける。日本人の客室乗務員は日本語で話しかけ、(おそらく)デンマーク人の客室乗務員はデンマーク語で話しかけていた。マルコはその度に、小さな声で言葉少なに、しかしはっきりと答えていた。

※ 私は、デンマーク語はわからないが、スエーデン語は僅かながらわかる。二つの言語はかなり近いが、マルコと客室乗務員の言葉は、スエーデン語ではなかった。

話しの接ぎ穂がなくなると私は、映画を観ることにした。マルコも、前席の背もたれについているモニターを食い入るように見ており、時折タッチスクリーンや肘掛についた機器をいじっていた。

映画は、新旧取り混ぜており、私は未来の人造人間ものを観た。日本語の吹き替えはなく、仮にあったとしても切り替え方がわからなかった。みればマルコはディズニー動画を観ている。

※邦題「ブルー 初めての空へ」、原題「RIO」、日本での公開は10月で、ディズニーではないようだ。

マルコは、テーブルに置いた菓子袋に、頻繁に手を伸ばしながらブルーを観ていた。私は、今まで観ていたものに飽きて、日本の映画を観ることにした。ところが、日本語音声への切り替え方がわからない。マルコに聞くと、簡単に教えてくれた。今の子供たちがこういった機器の取り扱いに慣れていることには驚かないが、マルコが国際線の機上の画面操作に慣れていることに少し違和感を感じた。こんな小さな子供が国際線を飛び慣れているのだ。

いつの間にか私とマルコは寝入っており、私が目覚めたときに、彼との境界にある肘掛上で双方の腕が触れ合っており、私はこの子の肌のぬくもりに、一種不思議かつ複雑な気持ちにさせられた。私は、それが自分の中にある父性というものなのかと思った。子供の姿、行動、また匂いや声などは、大人の持つ母性や父性を刺激し、子供をかわいがったり保護したりしようとするのだろう。私はマルコの体温が私に伝わった時、全身が幸せに満たされたような感じがした。

マルコから私に話しかけてくることはなかったが、一回だけ例外があった。食事のときにマルコは、サラダにかけるオリーブ油のドレッシングの何かを知らず、また自分で開けることが出来なかった。彼は私に行儀良く尋ねてきた。確かに細長い包装容器の上部にミシン目が入ってはいるが、子供には簡単には破れそうになかった。私は初めてマルコのほうから言葉を掛けてきたことを嬉しく思った。ミシン目をひき破ってドレッシングをマルコに返した。

離陸後数時間した頃、マルコは思い出したように座席下のザックの中から夏休みの漢字練習帳をとりだして、これをやり始めた。体が小さいため、目と卓上の練習帳の距離が近すぎる。モニターのブルーと練習帳を半々くらいにやっている。いつの間に取り出したか、また別の菓子を食べている。漢字の書き写しは綺麗だが、ふり仮名の多くが間違っている。以降、最後の食事のとき以外は練習帳は常に卓の上にあった。練習帳の耳のところには、母親によるものと思われる日付が書かれており、それは随分前のものだった。いいんだ、マルコ。

ふと練習帳をするマルコの指の爪を見ると、どれも随分伸びている。2週間ほどは切っていないのではないだろうか。私の想像は膨らむ。

マルコのご両親は、母親が日本人で、父親がデンマーク人。私の経験上、これはおそらく当たり。マルコの伸びた爪を見ても、もしデンマークにいるのが母親なら、あそこまでは放置しないだろう。あれは、マルコの母親が日本で切り、デンマークで父親と過ごす間に伸びたものと思う。スクリーン上の飛行地図の飛行機が、シベリアの東端に差し掛かった頃、私はマルコに、もうすぐお母さんに会えるね、と問うた。彼はだまって肯いた。

手洗いに立った時、私はギャレーにいた日本人客室乗務員に、私の小さな隣人が離陸以来一回も手洗いに立たない、機会を見て彼に聞いてみてくれないか、と頼んだ。彼女はこれを了承し、後刻うまく処理してくれた。私は子供を持たないので、8才の子が7~8時間もの間に一回も手洗いに行かないことを普通なのか、そうではないのかわからなかった。

マルコはあまり眠らない子だった。かなりの時間をブルーに費やしていた。おそらく彼は、それを繰り返し何度も観ていたに違いない。私が、まどろみから覚めて隣を見ると、彼は眠っていた。頭を私のほうに傾け、心持口を開けていた。目を閉じていると、睫毛の長さが際立った。私は、騒音防止に効果のあるヘッドフォンで、ジャズを聴きながら寝ていた。マルコはビクッと体を震わせて目覚め、視線を泳がせながら、ここはどこ?ここはどこ?と繰り返しつぶやいた。不安げな様子だった。私はヘッドフォンを外し、ここは飛行機の中だよ。もうすぐお母さんに会えるよ。何も心配は要らない、と彼の耳に囁いた。

私は、マルコのご両親は離婚したのだろうと思った。



2015年8月11日火曜日

ダブリン再訪

ダブリンにいる。オコンネル通りを中心にリフィー川を挟んで、街の南北をそぞろ歩きに歩いてみる。アイルランドは、史上空前の経済興隆から転落して久しいが、ここへ来てまたそれがいくらか上向いてきているようだ。

私は、まったくの経済音痴だが、街を歩いてこれを肌で感じている。もっとも、それは八月と言う観光期で、欧州各国はもとより、世界中から人が押し寄せているからかも知れないのだが。

店に入れば、国籍の推測ができない店員さんたちが、流暢ではあるが訛のある英語で客の応対をしている。この国の名門大学トリニティーカレッジ周辺は、新しい路面電車の敷設工事でごったがいしている。空を見上げれば、建築用のクレーンが、かつてほどではないにしろ、再度そびえるようになっている。

ちょうど一週間前にここの空港に降立ったが、その時は曇りで八月と言うのに肌寒かった。異常に暑い日本から来たので、ここの気候だけは私を裏切らないと思った。先日街を歩いていて気がつくと、半袖で歩いているのは私くらいなもので、ほとんどの人たちは長袖を着て歩いているのだった。相変わらず雨もよく降るが、不思議と湿度は上がらず、きわめて快適である。これではこの国の人に、二酸化炭素の地球温暖化に対する影響をいくら説いても、説得力に欠けるだろうと思う。

街は、中心から郊外に至るまで満遍なくゴミだらけで、これは私がここで暮らしていた時と変わらない。道路も空き地も、川も運河もゴミだらけである。もったいないと思う。絵葉書などで見れば、ダブリンと言う街は、それは愛らしく美しい街なのだが・・・。

人類は、石炭や石油と言うものを燃料として空気を汚したように、これを原料にして造った合成樹脂なるもので、自然を傷めつている。これらが自然に帰るためには、地球の持つ浄化作用に依存せざるを得ないが、他のものと違って地に帰るには何万年も掛かるであろう。地に帰る速度より、生産、そし廃棄蓄積される速度のほうが何百倍も早いので、環境は急速に悪化する。この現象が近代、特に戦後の世界の目覚しい経済成長と人口爆発に比例して絶え間なく続いている。

海にも陸地にも空にも、自然界には無かった物、そして自然に帰るのには時間の掛かるものが溢れかえっている。あるものは目に見え、そしてあるものは目には見えない。しかし、それらは確実にこの地球上に住む生命の住環境を危機におとしめている。

人類は、神様から授かった知恵の使い方を知らない。それには使ってよい方向と、悪い方向があることを知らない。


      オコンネル通りを望む。郵便局前の喫茶店にて。ジェームス・ジョイスの銅像が見える。
                 (写真中の時刻は日本時間)





2015年7月22日水曜日

暖炉のにおい みっちー船乗りになる

教授は自分を救世主と考えていたフシがある。彼の名前を電子頭脳網で検索すれば、彼に関する記事が沢山見つかる。その中に、彼の残したブログがあるが、彼の筆名はChrist ○×△とあるから間違いない。しかし、現実はただのコズルイお騒がせ老人だったのだ。

村の中で、山砂を採る事は環境破壊につながる、と言って集会を開き、村中から総すかんを食らったり、自分の亡くなった妻を庭に土葬してお役所に叱られたり、また大麻栽培をして警察に引っぱられたりしていた。私には、郡の福祉事務所を騙してお金をせしめていると、告白した。

彼は、ヒッピーだったらしい。ヒッピーなどと言う言葉は、いまや死語であるが、1960年代から70年代に世界のそこここで流行った一種の文化である。「縛り」を嫌い、自由に生きたかったのだろう。ケンブリッジ出と言う肩書きは、彼がヒッピーであるにもかかわらず、アイルランドでは大学の教授職を得るには十分立派な肩書きだったに違いない。

彼は、「自分は世界を救う独自の哲学や宗教を持っている」と思っていた。隣人のみならず、ほぼ村人全員から狂人扱いされていた彼であるが、その彼にも僅かではあるが共感者がいた。それは、アメリカから来た若い金鉱掘りだったり、人生に疲れたフランスの舞台女優だったりした。(時を同じくして、日本から流れて来た風来坊もいたのだが・・・しかし、彼は共感者ではなかった)

その中に、いかにも、と言わんばかりのウエールズ人夫婦がいた。彼らは居候ではなく、毎年夏になると教授の家に遊びに来る、とのことだった。夫人はごく普通の下層英国婦人だが、服装がやはりそれとなくヒッピーだった。夫は、いつも半ズボンとサンダル履きであった。背は低かったが、ガッチリした体型で髭を生やしており、赤ら顔で、私たち日本人が知っているウエールズ人代表のC・W・ニコル氏を連想させた。

夫君は朝起きると歯ブラシをくわえ、裸足で庭に出る。腰に手をあてて辺りを睥睨(へいげい)し、芝の上にガラガラペーッ、とうがいした水を吐き出す。ちょっとだけ隅に行ってそこで立ちションをするのである。何の衒いもなく、自然なので誰も文句は言わない。

夫婦は、時として教授となにやら世界の現状と未来について意見交換をしている。暖炉の前に据えたオンボロで汚いソファに陣取り、毛脛をぼりぼり掻きながらも、自分たちが放った大言壮語に臆する風は見えなかった。時としてウエールズ人は、イングランド人と仲が悪いのだが、彼らにはそのような様子は窺えなかった。同じヒッピーではあるが、ケンブリッジ出の元大学教授と言うことで、家主に尊敬の意を表すこともあった。

ある時、このウエールズ人が私に船乗りにならないか、と問うてきた。突然のことで面食らったが、話しの内容はこうである。

彼らには、お金持ちの親戚があり、数年前に亡くなった。遺産の一部を彼らも引き継いだが、それは木製の大きな帆船だった。以来、二人でお客をウエールズから地中海を経由してギリシャまで乗せ、これを生業としてきた。が、歳をとって操船と客の面倒を見るのがきつくなってきた。高い給料は払えないが、手伝ってはくれまいか・・・。

何の因果か、私はユーラシア大陸の東に浮かぶ小さな島国に生まれ、一万洋里(Km)も離れた西の端にある、さらに小さな島国で暮らしていた。数々の流転を重ねてとうとう船乗りになるか・・・。

詳しくは忘れたが、その帆船、すべて木でできており、船室が2~3あり、他に食堂やら居間やらがある結構大きな船である。変わっているのは、帆船と言っても普通は、緊急時や接岸離岸などの細かい操船が必要なときに使う原動機が付いているものだが、これには搭載していない、とのことだった。そうは言っても、調理や無線、そして照明やその他の機器類に電気は必要と思われる。だが、私はこの点については聞くのを忘れた。

帆船には憧れがある。動力船は常に原動機の音や振動がするが、帆船は航行中でも波と帆柱の軋(きし)る音、それ以外はしない(と思う。乗ったことがない)。自然の力を利用し、ただで旅行できるなど、なんとすばらしいではないか。仮に、船体、人、そして水や食料など全部で数トンに達するとして、この重量物をウエールズからギリシャまでただで運べるのである。

私は、船に関しては、まったくの無知である。想像するに帆船といえども現代のものは、自動航行装置やら、自動位置感知装置(GPS)やら、無線装置、もしかしたら電波探知機、(略して電探。レーダー)まであるかもしれない。このような最先端の設備や装置を排除し、昔ながらの六分儀や磁石を使っての船旅は、まったくや面白いものに違いない。

操船やら修理などは追々覚えてゆけば問題ない。大西洋からアフリカ北端と欧州南端の間にあるジブラルタル海峡を抜けて、地中海に入ると、海の色が変わる。そこで見る朝日や夕日はとてつもなく美しいという。彼らはそれを淡々と語って私を誘う。私といえば、静かに彼らの話を聞いていた。地中海で見上げる星空はどんなに美しいことだろうか。幸い私は、船酔いには強い。内心これは面白いことになってきた、と思った。

日本での仕事を辞め、好き放題に生きることを決心し、つてのあった欧州に来た。それが藁しべ長者の藁のように次につながってゆく、我が人生の面白さよ。

ある時、教授の家に若い男が遊びに来た。教授の娘の誰かに会いに来たものだったかもしれない。私に、大型牽引免許を持っているならいい仕事がある、といってくれた。私は、なぜか欧州では大型免許も、大型牽引免許も、大型二種免許も(以下省略)持っている。話しを聞いてみると、アイルランドからフランスを経由して、スペインまで大型牽引車(トレーラー)を運転して荷物を運ぶ仕事がある、と言う。面白そうな話だったが、別の人が、フランスとスペインの国境に跨るピレネー山脈には今でも山賊が出る。時に運転手が殺されて積荷が奪われるのだ、と言った。その人の話しは眉唾(まゆつば)で聞いていたのだが、私はかなりの方向音痴で、英語はともかくフランス語やスペイン語はからっきしだめなので、この話しは断ってしまった。

いい話し、面白い話しには裏がある。私は、船酔いはしないが、泳ぎが得意ではない。長い船旅では、必ずや泳がなければならない状況が出てくるだろう。たとえば錨(いかり)が海底の岩に引っかかってあがって来ないとか、客が溺れたとか、金の斧を落としたとか、である。

子供の頃、膝まであるやなしやの水深で溺れかかったことがる。北海道の山奥の川で、前後の状況は忘れたが、おそらく川を渡ろうとして、石に付いた苔で滑って転んだのだと思う。平気を装っていたが、かなりの恐怖であった。これは私の心理的外傷になっているのは間違いない。もうひとつ。「水の中には得体の知れない何かがいる」と言うまんざら妄想とも言えない思いがある。これは小さいときに読んだベルヌの小説の影響かもしれない。スピルバーグのジョーズも私のこの思いに拍車をかけたろう。

私は、夫君に地中海に鮫はいるかと尋ねた。彼はいない、と即答した。たまたまその後に得た情報によると、地中海にも数は少ないが、鮫はいるらしい。しかも、ホオジロザメやシュモクザメと言った超一流の危険種もいるらしい。最初から言われていればそれほどでもないものを、後になって隠し事が暴露されるといっそう怖くなるものである。

私はこの面白い話しを断ったのであるが、もしあの時断らなければ、今頃は、「最近体力が落ちて、操船や接客が億劫になった。キミ、ウエールズからギリシャまでの帆船に乗る仕事をやる気はないかね?大丈夫、地中海に鮫はいないよ」、などと言って若い人を探していたかもしれない。ふとそんなことを思った。

追伸
久しぶりに「暖炉のにおい」を書きました。発表した記事が、今回で100回になりました。2011年2月に「さても人間とは」で始まり、4年6ヶ月で100回です。おめでとう100回記念、と言うことでお祝いを受付中です。 書きかけの発表していない記事もかなりあります。また、未完の記事を完成させて発表している場合もありますので、よければ読んでみて下さい。

男の美学(なんちゃって)・・・2013年2月に発表しましたが、引っ込めました。書き直して再度発表してます。よかったらどうぞ。

「暖炉のにおい」はまだまだ大きな隠しネタがあります。

コメントは別に禁止しているわけではありませんのでお気軽に。

暇つぶしであれ、偶然であれ私の拙い記事をお読みいただき、御礼申し上げます。また、読者諸氏の限りない進歩向上をお祈りいたします。          筆者 みっちー










2015年7月19日日曜日

夏来たりなば

お陰様をもって、野鳥貸家編(シリーズ)はちょこっと好調である。庭に野鳥用の巣箱をかけて、その観察記録モドキである。こんなものは、多くの若いお母さんが、自分の赤ん坊がかわいくて仕方なく、これを不特定多数の人と共有したくて、一所懸命に電子日誌や顔本(?^^;)に掲載するのと大差ない。楽しいのは自分だけ、と思うのだが。

それにしても、野鳥たちは春に営巣開始して抱卵、子育て、巣離れ、ちょっとだけ餌のとり方などを雛たちに教える。この間おそらく一ヶ月少々であろう。その後の約十一ヶ月は何をしているのだろうと、疑問に思った。

野鳥たちは、成鳥になってその寿命が尽きるまで上記の生活を繰り返す。生物だから、子孫を残す行動は当然だが、それに費やされる時間は、大雑把に鳥は人生(鳥生?)の十分の一ちょっと。人間は、四分の一ほど(平均寿命80歳とし、子育てに二十年とした)。人間の場合、成長期はともかく、子供が手を離れた、それ以降の時間って何なのだろう、とふと考えた。

人が幸、不幸を語って泣き笑いをするのは、宇宙の構造を知らないからだろうと思う。私は、人が生身の体をまとっている間は、この宇宙の構造はわからないようになっているのだと思う。だからこの世から幸も不幸も、泣きも笑いも決してなくならないだろう。

親鸞が語ったと言われる「善人尚往生とぐいわんや悪人をや」の意味するところ、私の解釈は一般とは別である。ただ、そう思うだけで、もちろん確固たる証はない。今よりも科学、哲学、そして宗教の研究が進歩し、それらの補完関係が進めば、凡夫たる私たちにも人生の意味とかがわかるようなるのではないか、と思いたいのである。幸不幸、泣き笑いは無くならなくても、これらを糧としてその質自体は向上するだろう、と思いたいのである。

食って、寝て、子供育てて終わるならサルでもできる。金儲けがうまくても、真摯に生きるのでなくては、人生がもったいない。幸福で楽しくても、進歩がなければ・・・。

空き家になった野鳥貸家を眺めてこんなことを考える。台風一過、午後から暑くなりそうだ。私は、暑さには強いようだ。だが、嫌いだ。金があれば南米チリと北米アラスカに家を買い、一年中冬を満喫していたい。

夏来たりなば冬遠からじ。しばしのがまんじゃ。早く薪ストーブに火を入れたい。


2015年6月27日土曜日

野鳥貸家 殺意 !

今、野鳥貸家別館でシジュウカラのつがいが営巣している。本館では、あの育児放棄事件以来、借り手がいない。折角中を掃除して玄関下が大きく開閉できるように、蝶番をつけたのに、である。(もっとも、この蝶番の目的は私が雛の様子を見るためのものであるが・・・)

五月から六月にかけては、植物の成長が一気に早まり、貸家も木々の葉に隠れて店子たちの行動が見づらくなっていた。私は、別館の営巣開始には気がつかなかった。冬場に頻繁に素泊まりのお客がいたことは知っていた。春先にシジュウカラのつがいが出入りするのも見た。しかし、それは長続きはしなかったので、この「物件」には彼らにとって、何か不都合があるのかもしれないと考えていた。

別館も、その完成後に若干の手直しをした。夏にかけての営巣では、室内が暑くなるだろうと思って、壁や床にドリルで空気穴をあけた。これがいけなかったのだろうか。店子には内緒だが、元々合板やブリキの切れ端で造った貸家であり、大工さんの腕前もおぼつかないやっつけ仕事で完成させた物件である。いたるところに自然の「換気口」は開いており、追加工事で穴をあけて、かえって雨水でも入るようになったのだろうか。

いまシジュウカラのつがいは、かなり頻繁に別館に出入りをしている。芋虫や蜘蛛のような虫をくわえて飛んで来る。近くの木の枝にとまり、近くを見回してそれから玄関に入ってゆく。私は、これを双眼鏡で観察しているのだが、この夫婦、やつれている。羽毛のツヤが悪い。これは昨年のつがいも同じだった。子育ては大変なのだろう。

この時期、シジュウカラは我が家の西洋濡れ縁にあるヒマワリは食べに来ない。目下の所、ヤマガラが唯一の客である。昨年は、この時期にはヤマガラも来なくなっていた。試しに手のひらにヒマワリのタネをおいて待っていたら、ヤマガラがこれをついばんで行く。相変わらず人懐っこい。ヒガラ、コガラは冬までは来ないだろう。スズメも来ない。彼らが来ると私は見つけ次第追っ払うから、近所中のスズメの間では回覧板が回っているらしい。

数年前、欧州から日本に居を戻したとき、日本ではスズメの数が減っている、と聴いた覚えがある。(いま電子頭脳網で検索したら、スズメの数が「激減」とある)しかし、我が家の地域は人里離れた別荘地であるにもかかわらず、スズメの数は多いようだ。日本全国から雀たちがここに引っ越してきているのか、と思うほど多い。

彼らは(スズメのこと)、おきている間中さえずり続けるので、うるさいことこの上ない。我が野鳥食堂では礼儀は守らないし、食い逃げはするし、すこぶる評判が悪い(^^;)。一番良くないのは、貸家で営巣中のシジュウカラに対する激しいイジメである。貸家に不法侵入を企てる。それが適わないと、徒党を組んで玄関前に陣取り、シジュウカラ夫婦を恫喝する。気がつくたびに私は、スズメをレーザーポインターで追い払う。しかし、最近これに動じないスズメがいる。

どなたかシジュウカラを怖がらせずに、スズメだけを追い払う方法をご存じないだろうか。一時、BB弾なるものを発射するおもちゃの銃を買おうと思ったくらいである。BB弾は人間にとってはドッジボール程度の大きさに匹敵するだろうか。しかし、スズメにとってはその威力は破壊的だろう。そのようなものは使えない。米をまいておいて、つっかえ棒とザルで捕獲してどこか遠くに離してしまおうか。

いま複数のスズメが、またしても別館の前に集まってシジュウカラ父さんとシジュウカラ母さんをいじめている。子供たちは、巣の中にいれば安全だろうが、巣立ちの時は危ないだろうな・・・こうなったら・・・(←これ、ゴルゴ13の吹き出しと同じ意味)


         写真は、別館で親鳥が給餌後、ひな鳥のフンをくわえて巣外に運び出すところ




                                春先の本館 スズメがしきりにちょっかいを出す。