2013年7月27日土曜日

暖炉のにおい(大人の火遊び3)

「お祭り人間」と言う人種がいる。ふと思い立って、「お祭り人間」を電脳網で調べたら、「お祭り男」と言うのが見つかった。ひと処に大勢集まってワイワイやるのが大好きな男、くらいの意味であろう。普段おとなしい人が、この時は人が変わって躁状態になる。輪の中心になりたがり、人の世話を焼きたがる。こういう人が私の言う、「お祭り人間」である。

私の友人に、「お祭り人間」が一人いる。ポルトガル人女性Cで、かつてバンガロー(※)と呼ばれるおんぼろ家で一緒に住んでいた。(同棲でも同衾でもない。ただの同居である)後に私は寝台虫(Bedbag)に体のあちらこちらを刺され、やむなくちゃんとした家に引っ越した。(あと釜に豪州人のJ翁が来て元私の寝室に入ったが、未だなんとも無いようだ)

※バンガロー(Bungalow)・・・・・広い西洋濡れ縁(ウッドデッキ)のある平屋
   以下蛇足^^;
  キャビン(Cabin)・・・・・・・・・・丸太造りの小屋
     コテージ(Cottage)・・・・・・・・ 小さな別荘 
     ハット(Hut)・・・・・・・・・・・・・・ 粗末な小屋
     ログハウス(Log house ?)・・・和製英語らしい
  バラック(Barracks)・・・・・・・・兵舎、仮設小屋

このバンガローに私が入居してきた時は、先に英国人男性Aと日本人女性Bがいた。家自体の日当たりが悪く、10年近く前に自殺者が出たりして、すこぶる評判の悪い所であった。中は共用部分の掃除をするものが誰もおらず、不衛生で散らかし放題であった。私は居たたまれず、掃除と片づけをした。同居人たちは有言不実行の人たちであって、私とはまったく住む世界が違う。自慢するようだが、私は無言実行が好きな人間である。

さてCのことである。日本流に言うと、二回目の成人式を少し前に迎えた年頃で、細身で長い髪には白髪が目立つ。早口だが流暢な英語を話す。Cはかつて私の職場にいたことがあり、お互いよく知った仲である。ポルトガル出身の割には、いわゆる南欧系の気質はあまり見受けられない(と、思った)。時間は正確だし、片付けや清掃をよくやる。年齢相応に落ち着いている。

Cは英国人男性Aと日本人女性Bが相次いでほかの住居に移っていった、その直後に我が家に来た。それから嵐のような日々が始まった。掃除と模様替えが始まったのである。積年の汚れ、傷み、無責任がこの家をある意味の化け物屋敷にした。英国人男性Aと日本人女性Bは代々の居住者の悪い方の典型であり、当然負うべき公の義務(と書くと硬いが、要は掃除を含む日常の仕事)を一切せず、この種の人々にありがちな「権利の要求」は人並み以上なのであった。

家のあちらこちらにモノがうっちゃられており、乱雑になっている。台所は開封された調味料や食品で埋め尽くされている。ほとんどは賞味期限が切れて久しい。私は新参のCに現状を話し、そして自分の想いを話した。彼女と意見が一致し、その場で作業が始まった。モノの取捨選択の連続である。修理したり綺麗にすれば使えるモノ、使えないので捨てるモノ、使えるがこの家では不要なモノ、これらが思った以上にあった。Cのやり方は徹底しており、これで彼女が転入する前に私がした片付けが半端なものであることが露呈した。

連日仕事を終えて帰ってくるとすぐこの作業が始まった。多くは相談ずくで、お互い独断でものを決めることは少なかった。が、自分の部屋のことは別である。Cは洋服箪笥に拘泥した。4つある寝室のうち、2つが空いている。先任者の権利として空いている部屋にある家具その他を自由にできた。Cは空いている部屋に入って、この箪笥が欲しいと言う。箪笥とそれを置くべき空間の寸法を正確に測る。これだけでは不十分。家の中を移動するには箪笥が移動する道順(?)の採寸も必要である。一人で動かせるものではないので、私が仰せに従って二人でこれを彼女の部屋に移動する。運び入れたのだから、運び出せると思うのは誤りで、後から来た他の家具が邪魔だったりして思うにまかせない。

Cは苦労の末、ある洋服箪笥を自分の部屋に運び入れ、やはり気に入らないといって、戻して別のものを運び入れたりした。金のある法人ではないので、社宅にある家具類の大方は安モンである。彼女が一旦気に入って運び入れた箪笥は空の状態で扉を開けると箪笥自体が前に倒れてきた。扉に後付と思われる鏡がついており、これを開くと重心が前に移動するのである。「重し」が必要とわかった。私は生まれて25年経つが(うそ)、こんな箪笥は見たことがない。ただ苦笑するのみである。

とにかく家の中のもので彼女の目から逃れられるものはなかった。居間の卓や椅子は尽く移動を命ぜられ、汚れという汚れは綺麗に駆逐、清掃された。手抜きというものがなかった。冷蔵庫を移動してその裏まで綺麗にした。そこは永年誰ひとり掃除をしたものはいなかったようだ。

次の冬に備えて薪の配給があった。ほとんどが針葉樹で、既に割ってある。西洋耕うん機でダンプカーの荷台みたいなものを牽引している。満載してきた薪を一気に降ろす。玄関への進入路に山積みされた。その時は私と英国人男性A、そして日本人女性Bの3人がいた。本来なら雨を避けるためと、玄関への進入路を確保するためになるべく早く、3人で平等に薪を薪小屋に積むべきであった。私は一人で半分以上をやり、あとを残した。後者2人はこれを放置してバンガローを離れた。あとから来たにも拘わらずCは嫌な顔ひとつせずにこれを片付けた。魂に格というものがあるとすれば、A、BとCの違いは明白である。(3人は共に中年の分別盛りである)そう、魂というものは見えるものなのである。

Cは家の隅々までピカピカに磨き上げ、家具を移動し、内外に花を飾ったり植えたりした。かつて人々が、あそこは悪いエネルギーが溜まっている、などと陰で言っていたおんぼろのバンガローが今は光り輝いている。

そこの薪ストーブはただの鉄の箱である。扉に硝子が付いていて炎が見えるわけでもない。それでも火を焚くのは楽しい。私がその家に入ったのは4月の中旬で、スコットランドでは肌寒い天気が続いていた。時折ストーブをつけた。悪天候の日などはあたたかい居間から窓外の雨を眺めて暮らした。さすがに5月ともなるとストーブは不要となった。

およそ10日ほど前、すなわち(2013年)7月の中旬のことであった。晩にその家で様々な国籍の10人近くの人々が集る機会があった。その時である。Cは人々が自分の家に群れ集って浮かれたためか、ストーブに火を入れようと言い出し、私たちの返事を聞く間もなくさっさと焚付を燃やし始めた。反対の声が上がるかとも思われたが、大半の人々は彼女の勢いに呑まれてしまった。盛大に焚いたわけではないが、居間は瞬く間に暑くなり、ある者は上着を脱ぎ、ある者は窓を開けた。そしてCは火が消えないように時々ストーブの扉を開けては加減を見ていた。彼女はいつも気配りを忘れなかった。そこに私は南欧のお祭り人間気質(かたぎ)を見た。

実は今回はもっと副題(大人の火遊び3)に沿った話しを書くつもりであったが、何となく話しがそれてしまった。次回4は以外に早く画面上梓(?)出来そうである。

写真は私がバンガローに転入直後に撮ったもの。私の左手の親指の先から小指の先までは20cmある。

2013年7月19日金曜日

漱石を偲ぶ

連日二十数度の気温が続いており、雨も少なく、当地スコットランドは例年にない好天続きである。朝夕はそれでもかなり気温が下がるので、長袖が必要なほどとなる。とにかく日本の高温多湿な夏とはまったく違って、適度な暑さと低い湿度は爽やかで心地よい。

先日風邪をひいて10日ほど体調を崩した。仕事も幾日か休んだ。実際の所、休まねばならないほど悪かったわけではないが、そこは社会の一員として、他との平衡を取らねばならぬ。つまり欧米人は我慢をしてまで仕事はしない。私は典型的な日本人とは言いがたい部分もあるにはあるが、大部分はそうなわけで、体調不良を押して仕事をすると、他の欧米人たちがやりづらくなるだろうと思って休んでやった^^;

休んでもすることはない。生来の怠け者との自負はあるものの、そう寝てばかりもいられない。かと言って外を歩きまわって職場の人間と鉢合わせもバツが悪い。退屈しのぎに電子頭脳網でいろいろな情報を漁る。無料で開放されている映画もある。とにかくこの電脳網上の情報量と速度にはただ驚くばかりだ。

日本では選挙でこの電脳網を使い始めるらしいが、この利便性と危険性を研究する学者はいないものだろうかと、ふと思う。他者への悪意ある侵入が盛んである。人口の多さだけが取り柄の大国と武力の強大さだけが取り柄の大国が、電脳網上の侵入合戦を繰り広げている。実際には英露も独仏も、どこの国も侵入と防戦に躍起になっている筈で、これは国家間に限らず、個人も同じだ。

日本も最近は固体燃料をつかったロケットを自由に飛ばすことができるようになった。超電子計算機もあるから核実験などをやらなくても小型核弾頭などは短期間に作れそうである。物騒な話しではあるが、両者を合わせれば大陸間弾道弾を飛ばして日本に攻撃を仕掛けてきた国に報復をする能力ができたわけだ。これで日本も当てにならない他国の核の傘から抜け出せる。ちなみにドイツなどは核兵器を持たないが、必要があれば条約でアメリカの核のボタンを押せるそうである。核抑止力に現実的ではない甘い考えを持っているのは先進諸国では日本だけである。

性善説はいいが、自説が世界に通用すると考えているのは過去の鎖国制度がもたらした最大の弊害だろう。

残念ながら虎狼群れするなかで生き残るためには、憲法9条という印籠は通用しない。助さんだって角さんだって、武術の達人だから黄門様を護れるのだ。これを理解しない人々を私は憐れむ。人というものの正体を見極めることが肝心だ。まんざら動物でもなく、かと言って神には程遠いのだ。

人の世とはひとくくりにはできない。善人もいれば悪人もいる。全員で入れ歯(善人でいれば、の誤入力^^;)悪人は寄ってこないと思うのは勝手だが、身ぐるみどころか命まで取られた後で、私は悪いことはしていません、と言っても遅いのだ。

、「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」・・・ご存知の通り、漱石の「草枕」の冒頭部分である。が、これは「人の世」の話しであって、動物界のそれではない。世界に伍して生きてゆくということは、残念ながら弱肉強食の動物の世界に晒されるということでもあるのだ。

※何が何でも力がないと生き残れないとは言わない。動物界ではウサギは長い耳と早い足、それに大きな繁殖力がある。生き残っている動物には必ずそれなりの優れた点がある。

そう言えば過日Snigel閣下が当地スコットランドの我が家においでくださった。(Snigelはアイルランド真実紀行の作者。参照ここを押す)この方、年来の友人である。日本人にとってはアイルランドについての生き字引かつ変人である。(世間から見れば紛れもなく人格温厚頭脳明晰優柔不断その他諸々の人である)彼の大好きなRyanairと言う格安航空会社の飛行機に乗ってアイルランドの首都ダブリンからグラスゴーと言う、スコットランド随一の工業都市に飛んで来た。そこから貸し自動車に乗って当地までまっすぐ来れば4~5時間の距離であるが、そこは並の人とは違う。あとから聞いた話しだが、グラスゴーから首都エジンバラまで古い鉄橋を見に行ったというのである。参照ここを押して下さい

この巨大な鉄橋は漱石が英国に留学する10年ほど前に日本人の現場監督によって建設されたものである。見たい気持ちは理解できる。私も何回かそれを見たし、一回くらいは列車で渡ったこともある。素晴らしい鉄橋である。が、大きな遠回りをしてまで見に行くだろうか。

ともあれ、彼はスコットランドのド田舎に現れた。大きな遠回りをしながら、大して疲れた様子もなく、町一番の高級ホテルのバーで旧交を暖めた。その翌々日彼は私の希望を受け入れPITLOCHRY (ピトロッホリ・・・日本語にはない発音なので、カタカナでは正確な発音は表せない。ホが擦過音になる)に出かけた。

PITLOCHRY は漱石が留学の終わり近くに訪れたスコットランドの保養地である。いつか行ってみたいと思っていたが、Snigel閣下のお陰で、あっさり希望が叶った。漱石が帯在した建物は当時は個人の持ち物であった由であるが、今はホテルとなっている。受付でその部屋が見学可能かを聞いた所、塞がっていて不可であると言う。つまり、塞がっていなければ可であるらしいのだ。部屋代は夏季は140ポンドくらいだということだ(もしかしたら日本円で14000円くらいと言ったかもしれない)。小さなホテルで、その中の最上の部屋なのだろう。元々この持ち主が漱石の友人だったそうだから、一番いい部屋に泊めるのは自然なことだったに違いない。受付の親切なおじさんの好意に甘え、庭を散歩させていただいた。以前は日本庭園まであったと言う。

私が先の右翼的発言のあとに草枕の一節を持ちだしたのは、この結論に導きたかったからである。庭はいい意匠(デザイン)とは言いがたいが、手入れが行き届いており、大木が幾本かあり、そのうちの松の根本から松ぼっくりを一個失敬してきた。この松、樹齢は大雑把に見積もっても2~3百年にはなっており、漱石も見たに違いないのだ。想像を逞しくすれば、彼は神経をやられて辛かった孤独な胸の内をこの木に寄り添って吐露したかも知れないのだ。約110年前の事だった。

いま部屋の窓際にこの松ぼっくりをおいて眺めている。これを煎じて飲んだら、私も少しは文章がうまくなるか知らん。

写真はPitlochry Dundarach Hotel 撮影日2013年7月15日