野鳥などまったく興味がなかったが、目を凝らして観察すると他にも沢山の種類の野鳥が来ている。寝起きのコガラだと思っていたらそれはヒガラだったりする。(コガラにそっくりだが頭頂部の羽毛が寝起きの子供の髪のように起っている。これがなんとも可愛い。是非野鳥図鑑で見て下さい)エナガやツリガラもいる。ネットで調べたのだ。なぜかみな「カラ一族」である。便利な世の中ではある。
2013年3月1日金曜日
野鳥食堂 追伸の追伸
コガラもなつき始めた。シジュウカラは一度だけヤマガラにつられて私の手にとまったことがあるが、以降はまったく警戒を緩めない。コガラはヤマガラよりひと回り小さい、白と灰色の体色に黒い頭で、名前通り小柄である。鳴き声も可愛い。ヤマガラを真似たのか、私の姿を室内に認めるとガラス戸の外で空中停止して餌の催促をする。
野鳥などまったく興味がなかったが、目を凝らして観察すると他にも沢山の種類の野鳥が来ている。寝起きのコガラだと思っていたらそれはヒガラだったりする。(コガラにそっくりだが頭頂部の羽毛が寝起きの子供の髪のように起っている。これがなんとも可愛い。是非野鳥図鑑で見て下さい)エナガやツリガラもいる。ネットで調べたのだ。なぜかみな「カラ一族」である。便利な世の中ではある。
野鳥などまったく興味がなかったが、目を凝らして観察すると他にも沢山の種類の野鳥が来ている。寝起きのコガラだと思っていたらそれはヒガラだったりする。(コガラにそっくりだが頭頂部の羽毛が寝起きの子供の髪のように起っている。これがなんとも可愛い。是非野鳥図鑑で見て下さい)エナガやツリガラもいる。ネットで調べたのだ。なぜかみな「カラ一族」である。便利な世の中ではある。
2013年2月21日木曜日
男の美学(なんちゃって)・・・
男の美学・・・、三流週刊誌の見出しのような副題である。私が男を代表して美学なんぞを語れるわけはない。私は自分が男であることを信じているが、他の男のことは知らない。だからこれは「私の美学」である。だから(なんちゃって)なのである。
言い訳はこれ位にして、本題である。私の言う美学とはモノの美醜を論じるばかりでなく、測ったり、感じたり、また判断する「尺度」のことである。人の尺度には生まれながらにして備わっているものと、生後学習や刷り込みによって身についたものがある。
女性が口紅を付けたがる理由はなんだろう、と考える時、ひとつには生まれつき女性は本能的に多くの男を惹きつけて、その中から優秀な種を残すに足る相方を選ぶためであろう。(余談であるが、この点女性は狙撃手である。男性は機関銃手であることが多い。あくまでも傾向である)もうひとつは、口紅会社からの刷り込みである。子供の頃から、女性は口紅をつけるものだと刷り込まれる。人の口を介して、雑誌で、電気紙芝居で、その他あらゆる時と場所で、女性は口紅をつけなければいけない、と刷り込まれる。
ひとつの可能性として、男性も本能的に口紅をつけたいのかもしれない。ただ、女性ほどは「見かけ」で異性を惹きつけようとする気はないのだろう。男性の心のなかにも「男性性」と女性性」が混在しており、その比によっては一所懸命オシャレに精を出す男性もいる。こういう男性を電気紙芝居などの広告で焚きつければ、彼らも口紅をつけ始めるは必至である。
アフリカや東南アジア、また南米などにいるいわゆる「未開部族」では、男のほうが派手な化粧や身なりをするようである。これは部族間の戦いに際して、自らを鼓舞し、相手を威嚇するのがその目的であろう。日本の若い人の一部にも前髪を伸ばして「庇(ひさし)」を作り、自動二輪車に派手な飾りをつけ、わざと大きな発動機音で運転する人々がいまだ存在する。原始の血が騒ぐのかも知れない。ただ、このガラパゴスのゾウガメ的若者は少数なので、化粧品会社は「お客」としては勘定できないだろうが、旭山動物園からは誘いが来るかもしれない。
商業主義の刷り込みによって商品を買わされる消費者の多いことよ。そして人は金儲けのためには何でもやる。電気紙芝居を見ていると、最近は栄養補助食品の広告や通信販売が異常に多い。これらの広告手法は、視聴者を脅したり、不安を煽って商品の購入を促すものがほとんどである。
かたや消費者というものは意外とお馬鹿で、広告が本日限り、ひと家族二袋限定とか、通常ひと袋5000円のところ、30分以内に電話の方に限り4999円で提供、送料無料などとやっていてコロリとやられている。売る側の広告手法は面白いほど似たり寄ったりである。あれで恥ずかしくないのだろうか?送料無料って、では誰が送料を払っているのだろうか?
私は食べることにそれほどの執着をもたないので、電気紙芝居でも食堂や料理に関する番組は見ない。残念ながら世の大勢は私とは逆である。どこそこの何がうまいとか、まったく関心がない。料理の本質は栄養である。栄養を活かし、まずくなければ上等である。うまくても栄養がなかったり、壊れていたりすれば下等な料理である。
オシャレにしろ食べ物にしろ、商業主義に踊らされて大切なお金を浪費するのは愚の骨頂である。人によってはオシャレをすることが生きることであり、うまいものを食べることが生きることだと言うであろう。しかし、私はそんなものは人生の楽しみのほんのささやかな部分でしかないと断ずるのである。
オシャレよりも健康が大事であろう。でも、健康で長生きをして何をしようというのだろう。
言い訳はこれ位にして、本題である。私の言う美学とはモノの美醜を論じるばかりでなく、測ったり、感じたり、また判断する「尺度」のことである。人の尺度には生まれながらにして備わっているものと、生後学習や刷り込みによって身についたものがある。
女性が口紅を付けたがる理由はなんだろう、と考える時、ひとつには生まれつき女性は本能的に多くの男を惹きつけて、その中から優秀な種を残すに足る相方を選ぶためであろう。(余談であるが、この点女性は狙撃手である。男性は機関銃手であることが多い。あくまでも傾向である)もうひとつは、口紅会社からの刷り込みである。子供の頃から、女性は口紅をつけるものだと刷り込まれる。人の口を介して、雑誌で、電気紙芝居で、その他あらゆる時と場所で、女性は口紅をつけなければいけない、と刷り込まれる。
ひとつの可能性として、男性も本能的に口紅をつけたいのかもしれない。ただ、女性ほどは「見かけ」で異性を惹きつけようとする気はないのだろう。男性の心のなかにも「男性性」と女性性」が混在しており、その比によっては一所懸命オシャレに精を出す男性もいる。こういう男性を電気紙芝居などの広告で焚きつければ、彼らも口紅をつけ始めるは必至である。
アフリカや東南アジア、また南米などにいるいわゆる「未開部族」では、男のほうが派手な化粧や身なりをするようである。これは部族間の戦いに際して、自らを鼓舞し、相手を威嚇するのがその目的であろう。日本の若い人の一部にも前髪を伸ばして「庇(ひさし)」を作り、自動二輪車に派手な飾りをつけ、わざと大きな発動機音で運転する人々がいまだ存在する。原始の血が騒ぐのかも知れない。ただ、このガラパゴスのゾウガメ的若者は少数なので、化粧品会社は「お客」としては勘定できないだろうが、旭山動物園からは誘いが来るかもしれない。
商業主義の刷り込みによって商品を買わされる消費者の多いことよ。そして人は金儲けのためには何でもやる。電気紙芝居を見ていると、最近は栄養補助食品の広告や通信販売が異常に多い。これらの広告手法は、視聴者を脅したり、不安を煽って商品の購入を促すものがほとんどである。
かたや消費者というものは意外とお馬鹿で、広告が本日限り、ひと家族二袋限定とか、通常ひと袋5000円のところ、30分以内に電話の方に限り4999円で提供、送料無料などとやっていてコロリとやられている。売る側の広告手法は面白いほど似たり寄ったりである。あれで恥ずかしくないのだろうか?送料無料って、では誰が送料を払っているのだろうか?
私は食べることにそれほどの執着をもたないので、電気紙芝居でも食堂や料理に関する番組は見ない。残念ながら世の大勢は私とは逆である。どこそこの何がうまいとか、まったく関心がない。料理の本質は栄養である。栄養を活かし、まずくなければ上等である。うまくても栄養がなかったり、壊れていたりすれば下等な料理である。
オシャレにしろ食べ物にしろ、商業主義に踊らされて大切なお金を浪費するのは愚の骨頂である。人によってはオシャレをすることが生きることであり、うまいものを食べることが生きることだと言うであろう。しかし、私はそんなものは人生の楽しみのほんのささやかな部分でしかないと断ずるのである。
オシャレよりも健康が大事であろう。でも、健康で長生きをして何をしようというのだろう。
2013年1月12日土曜日
お風呂の話し
寒い日が続いている。台所に立てば、小さな窓が目前にあり、外の雪景色が見える。防犯用の格子がはまっており、それに寒暖計が取り付けてある。朝などはここから外の気温を見るのが癖になっている。この冬は毎朝氷点下10℃近くまで下がっている。室内と言えば、私が家にいて薪をくべられる限りは、24時間暖房なので、寒くはない。朝方になって、寝る前にくべた薪が尽きんとするときなどは、10℃を下回ることもある。が、早起きがいたって得意な私は、暗いうちに起きてちゃんと次の薪をくべるのである。
年が明けてはや12日、なんと時の経つのが早いことか・・・。4月に渡欧の予定があり、そろそろその準備を始めねばならない。しかし、腰が重いのだ。面倒な事を先延ばしにするこの癖は、子供の時からのもので、もはや治りそうにない。
年末からダラダラとテレビを見ている。民主党政権末期から自民党政権返り咲きの番組が好きである。元来政治には知識も興味もないが、自分と言うものを考え、その自分が生まれ育った日本を考える時、天然自然に政治のことを考える。自身浅学非才の輩とは言え、盗人にも三分の理、ではなく・・・一寸の虫にも五分の魂があるのだ。
安倍首相を右翼タカ派として警戒する向きが多いが、それはあたかも自身の健康や安全を守るために一所懸命に運動をしている人に、「あんたは右翼だ、タカ派だ」と言っているようなものである。私たちは大衆情報(マスコミ)を通じて世の動きを知る。近年に至っては知識を得る手段として、電子頭脳網(ネット)があるが、どれが「事実、真実」を伝えているかは甚だ心もとない。シナや朝鮮半島の国々の情報統制を日本人は笑うが、私たちだって何を掴まされているかわからないのである。近隣の国々よりも日本のほうがより自由や本当の情報を持っていると考えるのは危ない。マスコミはみなひも付きなのだから。
私たちは群盲である。シナ人、朝鮮人、ロシア人、みな国民は群盲なのだ。危険を回避し、安全に自分自身と国家、さらに地域社会と世界を幸福と繁栄に導くには自分が盲であることの自覚から始まる。それがあってこそ慎重に杖を使うようになり、落とし穴を回避し、毒蛇を素手で掴む危険を回避することが出来る。
今回の選挙で、私が安心したのは護憲派がまったく票を伸ばせなかったことだ。現実を見据えている人たちが多数いる、と言うことである。国防は国の礎のひとつである。が、憲法9条が日本の軍隊である自衛隊をまったくの役立たずにしている。役に立たないものを膨大な予算を費やして保持しているのは税金の無駄遣いである。これが嫌なら憲法改正をして使える軍隊にするのがマトモと言うものだ。そうかと言って武力を放棄すれば近隣のハイエナが大喜びで日本を蹂躙するは必定である。
さて、あるところにお金持ちがいました。平和を愛する心優しい人で、ご近所に困っている人がいると助けてやったり相談にのってあげたりしていました。その家はお金持ちだったので、厳重な鍵や警報装置が付いていました。ある時、別の国から引っ越してきたお隣さんに、「あなたは良いことをしているのだから、泥棒などは入りっこない」と言われました。このお金持ちはそのお隣さんにも金銭的援助をしていたのでした。お金持ちは「そうだ、私は悪いことはしないから泥棒は私の家には入らない」と言って鍵もかけず、警報装置の電源も入れないようになりました。ある日、お金持ちの家に強盗が入りました。金品をことごとく奪われ、あるじは家族もろとも強盗に殺されてしまいました。後でわかったことはお金持ちに鍵をかけないように言ったのは強盗の手先だったということでした。
この話は私が今作ったものであるが、実際の世界はこの話しよりもっと現実である。憲法9条で国を護れると主張するなら、その人は留守中も就寝中も家にも車にも鍵をかけるべきではない。
(ちなみに私は外出時、戸締りをしてゆく。これ故に私を「右がかった人」と呼ぶならそれはそれで結構だが、そう私を呼ぶ人は外出時に戸締りをしてはいけない)
そう、今回はお風呂の話しである。一見話しの脈絡が途絶えたように見えるかもしれない。
私はこれでも世過(よす)ぎのために、家を空けることがある。外から帰ってきた時にはとうに薪は燃え尽きており、部屋はひどいときは摂氏6~7℃ということがある。外套をきたままストーブに火を熾す。しかし、家全体が元通り暖まるまでに半日はかかる。こんな時は何よりも手っ取り早くお風呂に入るのが一番である。
体が冷え切っている時に、いきなり湯に浸かるのは急激な血圧の高下をもたらし、時には命を危険に曝すことがあるらしい。それはさておき、我が家の湯温はいつも同じ41℃に設定してある。それなのに体が冷えている時はこれが異常に熱く感じ、思い切ってザブーンとはいかない。これは体の持つ警告機能であろう。有り難いことだ。しかし、この湯温も徐々に体を慣らしていけば確かにいつもの心地良い41℃であることを納得する。
41℃の湯船に手を浸ければ当初異常に熱く感じる。これはある種の防衛本能から来る錯覚で、徐々に体を慣らしてゆけば、適温である41℃に慣れて、すぐにこれを楽しむ事ができるようになる。愚か者は手を湯船に浸けて、これは熱いと言って水を足して入り、風邪をひいて肺炎で死ぬのである。
末筆になりましたが、皆様旧年中はこの毒弾(いい誤字ですねぇ)と偏見の多い随筆をお読み下さり、感謝の念に耐えません。厚く御礼申し上げます。不肖みっちー和尚、今年もみなさんにとって良き年でありますようお祈り申し上げます。
※写真は拙宅台所からの眺め。寒暖計は窓の外にあります。
年が明けてはや12日、なんと時の経つのが早いことか・・・。4月に渡欧の予定があり、そろそろその準備を始めねばならない。しかし、腰が重いのだ。面倒な事を先延ばしにするこの癖は、子供の時からのもので、もはや治りそうにない。
年末からダラダラとテレビを見ている。民主党政権末期から自民党政権返り咲きの番組が好きである。元来政治には知識も興味もないが、自分と言うものを考え、その自分が生まれ育った日本を考える時、天然自然に政治のことを考える。自身浅学非才の輩とは言え、盗人にも三分の理、ではなく・・・一寸の虫にも五分の魂があるのだ。
安倍首相を右翼タカ派として警戒する向きが多いが、それはあたかも自身の健康や安全を守るために一所懸命に運動をしている人に、「あんたは右翼だ、タカ派だ」と言っているようなものである。私たちは大衆情報(マスコミ)を通じて世の動きを知る。近年に至っては知識を得る手段として、電子頭脳網(ネット)があるが、どれが「事実、真実」を伝えているかは甚だ心もとない。シナや朝鮮半島の国々の情報統制を日本人は笑うが、私たちだって何を掴まされているかわからないのである。近隣の国々よりも日本のほうがより自由や本当の情報を持っていると考えるのは危ない。マスコミはみなひも付きなのだから。
私たちは群盲である。シナ人、朝鮮人、ロシア人、みな国民は群盲なのだ。危険を回避し、安全に自分自身と国家、さらに地域社会と世界を幸福と繁栄に導くには自分が盲であることの自覚から始まる。それがあってこそ慎重に杖を使うようになり、落とし穴を回避し、毒蛇を素手で掴む危険を回避することが出来る。
今回の選挙で、私が安心したのは護憲派がまったく票を伸ばせなかったことだ。現実を見据えている人たちが多数いる、と言うことである。国防は国の礎のひとつである。が、憲法9条が日本の軍隊である自衛隊をまったくの役立たずにしている。役に立たないものを膨大な予算を費やして保持しているのは税金の無駄遣いである。これが嫌なら憲法改正をして使える軍隊にするのがマトモと言うものだ。そうかと言って武力を放棄すれば近隣のハイエナが大喜びで日本を蹂躙するは必定である。
さて、あるところにお金持ちがいました。平和を愛する心優しい人で、ご近所に困っている人がいると助けてやったり相談にのってあげたりしていました。その家はお金持ちだったので、厳重な鍵や警報装置が付いていました。ある時、別の国から引っ越してきたお隣さんに、「あなたは良いことをしているのだから、泥棒などは入りっこない」と言われました。このお金持ちはそのお隣さんにも金銭的援助をしていたのでした。お金持ちは「そうだ、私は悪いことはしないから泥棒は私の家には入らない」と言って鍵もかけず、警報装置の電源も入れないようになりました。ある日、お金持ちの家に強盗が入りました。金品をことごとく奪われ、あるじは家族もろとも強盗に殺されてしまいました。後でわかったことはお金持ちに鍵をかけないように言ったのは強盗の手先だったということでした。
この話は私が今作ったものであるが、実際の世界はこの話しよりもっと現実である。憲法9条で国を護れると主張するなら、その人は留守中も就寝中も家にも車にも鍵をかけるべきではない。
(ちなみに私は外出時、戸締りをしてゆく。これ故に私を「右がかった人」と呼ぶならそれはそれで結構だが、そう私を呼ぶ人は外出時に戸締りをしてはいけない)
そう、今回はお風呂の話しである。一見話しの脈絡が途絶えたように見えるかもしれない。
私はこれでも世過(よす)ぎのために、家を空けることがある。外から帰ってきた時にはとうに薪は燃え尽きており、部屋はひどいときは摂氏6~7℃ということがある。外套をきたままストーブに火を熾す。しかし、家全体が元通り暖まるまでに半日はかかる。こんな時は何よりも手っ取り早くお風呂に入るのが一番である。
体が冷え切っている時に、いきなり湯に浸かるのは急激な血圧の高下をもたらし、時には命を危険に曝すことがあるらしい。それはさておき、我が家の湯温はいつも同じ41℃に設定してある。それなのに体が冷えている時はこれが異常に熱く感じ、思い切ってザブーンとはいかない。これは体の持つ警告機能であろう。有り難いことだ。しかし、この湯温も徐々に体を慣らしていけば確かにいつもの心地良い41℃であることを納得する。
41℃の湯船に手を浸ければ当初異常に熱く感じる。これはある種の防衛本能から来る錯覚で、徐々に体を慣らしてゆけば、適温である41℃に慣れて、すぐにこれを楽しむ事ができるようになる。愚か者は手を湯船に浸けて、これは熱いと言って水を足して入り、風邪をひいて肺炎で死ぬのである。
末筆になりましたが、皆様旧年中はこの毒弾(いい誤字ですねぇ)と偏見の多い随筆をお読み下さり、感謝の念に耐えません。厚く御礼申し上げます。不肖みっちー和尚、今年もみなさんにとって良き年でありますようお祈り申し上げます。
※写真は拙宅台所からの眺め。寒暖計は窓の外にあります。
2013年1月8日火曜日
冬の日常 6
3週間ほど前、私の留守中に知人がやって来た。帰宅して車から降りると、勝手口の把手に何やら合成樹脂の白い袋がぶら下がっているのが見えた。ああ、とうとう見かねてどなたかがお金でも置いていったか、などと思いながら中を覗くと、ラップに包まれた肉と紙片に書かれた伝言があった。
携帯電話を紛失し、訪問に際しての事前連絡ができなかった由であった。我が家は主人多忙につき、事前一ヶ月前には秘書を通じてその意図と時間を打ち合わせなければ面会は叶わない、と言うのが規則である・・・などということはない(断るまでもなく秘書などは存在せず、この離宮の主は私であるが、財政逼迫のおり、執事も家政婦も、庭師も運転手も本人が兼務している)。
普段肉はほとんど食べない。高いし料理が面倒だから、である。しかしながらせっかくいただいたイノシシの肉であるので、食べた。骨が残った。これで汁(スープ)をとって、などとは考えない。しかし、骨にまだ若干肉が残っている。久しぶりにテンにくれてやろうと思った。
その晩に私はイノシシの骨を裏庭の雪の上に放った。次の朝は異常なし。その晩ストーブに薪を追加しようと南のガラス戸を開けると、果たして骨が消えており、庭の明かりをつけてみるとそこいらじゅうに獣の足あとがあった。いつの間に来たものか、まだ宵のくちだったが。翌朝、雪上の足あとをよく見てみたが、何の足跡かさっぱりわからなかった。テンにしては大きすぎる。タヌキよりも大きいようだ。キツネだろうか、2つずつ並んで付いている。最近近くでキツネをよく見かける。しかし、素人にはわからない。
そして今朝のことである。庭のリョウブの樹間に置いた「野鳥食堂」が傾いて落ちそうになっていた。それは木に釘で固定したとかではなく、木と木の間に挟んだだけなので、風で木が揺れれば落ちたり傾いたりすることもありそうであった。が、昨晩は風など吹いていなかった。木の根元を見るとイノシシの骨を持っていった動物と同じ足跡がたくさん残っていた。これで足跡がキツネではないことがわかった。「野鳥食堂」は地上から1・9洋尺(1・9m)ほどの高さにあり、キツネに登れる枝ぶりでもない。
おそらくハクビシンであろう。「野鳥食堂」のお客の匂いをかいで木に登ったと思われる。足跡の大きさから見てテンではない。近々、以前にテンを誘った時のように(※)、イノシシの肉にテグスをつけて室内に引き込み、鈴をつけて犯人を待とうと思う。
※ 昨年1月16日に書いた 「冬の日常 2」 を御覧ください。
私は、傾いた「野鳥食堂」を立て直し(?)、中の小皿にはひまわりの種を置かず、手のひらに盛ってお客を待った。常連であるヤマガラ3羽ほどはすぐ来る。シジュウカラたちは非常に警戒心が強く、近くまでは来るが、けっして寄っては来ない。なんとコガラが初めて私の手に乗ってひまわりの種を啄んだ。彼らはみなスズメの親戚で、ほぼ同じ時間に群れて餌を食べに来る。ヤマガラが私の手から餌をとるのを見て、大丈夫とふんだものらしい。今のこの季節だからであろう、野に餌のあふれている夏には無理かもしれない。
この季節は関東で冬を越す東隣りのSさんが珍しく雪道をおして見えた。この近所で野鳥への餌やりは、Sさんが始めたものだが、私がヤマガラを手なずけたのに驚いてご自分も試したらしい。今では外にいると携帯で電話をしていても肩にとまってくると目をほそめられていた。
携帯電話を紛失し、訪問に際しての事前連絡ができなかった由であった。我が家は主人多忙につき、事前一ヶ月前には秘書を通じてその意図と時間を打ち合わせなければ面会は叶わない、と言うのが規則である・・・などということはない(断るまでもなく秘書などは存在せず、この離宮の主は私であるが、財政逼迫のおり、執事も家政婦も、庭師も運転手も本人が兼務している)。
普段肉はほとんど食べない。高いし料理が面倒だから、である。しかしながらせっかくいただいたイノシシの肉であるので、食べた。骨が残った。これで汁(スープ)をとって、などとは考えない。しかし、骨にまだ若干肉が残っている。久しぶりにテンにくれてやろうと思った。
その晩に私はイノシシの骨を裏庭の雪の上に放った。次の朝は異常なし。その晩ストーブに薪を追加しようと南のガラス戸を開けると、果たして骨が消えており、庭の明かりをつけてみるとそこいらじゅうに獣の足あとがあった。いつの間に来たものか、まだ宵のくちだったが。翌朝、雪上の足あとをよく見てみたが、何の足跡かさっぱりわからなかった。テンにしては大きすぎる。タヌキよりも大きいようだ。キツネだろうか、2つずつ並んで付いている。最近近くでキツネをよく見かける。しかし、素人にはわからない。
そして今朝のことである。庭のリョウブの樹間に置いた「野鳥食堂」が傾いて落ちそうになっていた。それは木に釘で固定したとかではなく、木と木の間に挟んだだけなので、風で木が揺れれば落ちたり傾いたりすることもありそうであった。が、昨晩は風など吹いていなかった。木の根元を見るとイノシシの骨を持っていった動物と同じ足跡がたくさん残っていた。これで足跡がキツネではないことがわかった。「野鳥食堂」は地上から1・9洋尺(1・9m)ほどの高さにあり、キツネに登れる枝ぶりでもない。
おそらくハクビシンであろう。「野鳥食堂」のお客の匂いをかいで木に登ったと思われる。足跡の大きさから見てテンではない。近々、以前にテンを誘った時のように(※)、イノシシの肉にテグスをつけて室内に引き込み、鈴をつけて犯人を待とうと思う。
※ 昨年1月16日に書いた 「冬の日常 2」 を御覧ください。
私は、傾いた「野鳥食堂」を立て直し(?)、中の小皿にはひまわりの種を置かず、手のひらに盛ってお客を待った。常連であるヤマガラ3羽ほどはすぐ来る。シジュウカラたちは非常に警戒心が強く、近くまでは来るが、けっして寄っては来ない。なんとコガラが初めて私の手に乗ってひまわりの種を啄んだ。彼らはみなスズメの親戚で、ほぼ同じ時間に群れて餌を食べに来る。ヤマガラが私の手から餌をとるのを見て、大丈夫とふんだものらしい。今のこの季節だからであろう、野に餌のあふれている夏には無理かもしれない。
この季節は関東で冬を越す東隣りのSさんが珍しく雪道をおして見えた。この近所で野鳥への餌やりは、Sさんが始めたものだが、私がヤマガラを手なずけたのに驚いてご自分も試したらしい。今では外にいると携帯で電話をしていても肩にとまってくると目をほそめられていた。
2012年12月26日水曜日
本当の・・・・
喫茶店などというものは、それこそ昭和の響きににも似た、いわば前世紀の遺物となりつつある代物である。そこでコーヒーを飲む。ネルの赤と黒の市松模様のシャツにジーンズをザクっと着こなした初老の店主らしき人が、勿体をつけてカウンターの客の前でコーヒーを入れる。この御仁の、他の客との会話を聞くともなしに聞いていると、「コーヒーを点てる」としきりに言う。点(た)てる、と言う言い方は抹茶を淹れる時以外使わないのもで、コヒーにはおかしい、と言うのが私の意見である。が、ここの店主は自分のやっていることの特別で高尚であることを、他人に訴えたいらしい。これだけなら私はこの店とその店主に思うことは何もなかったであろう。
ところがこの店主、時々「本物のコーヒーとは」と言う。これが偽学者ミッチー教授の逆鱗に触れた。聞き捨てならん。そこへなおらば成敗してくれるところである。本物のコーヒーだ?お前さん、お馬鹿タレ。本物の何々、とか本当の何々、などということはめったに使ってはならない言葉なんだぞ。なんであんたが「本物のコーヒー」を知っているんだ?見たのか?飲んだのか?いつ?どこで?誰が淹れた?で、それがなんで「本物のコーヒー」とわかった?
残念ながらこれに類することは巷に星の数ほど散らかりまくっている。そしてプラネタリウムの天井に投影された光を実物の星とでも思うように本物のコーヒーが実在すると思っている。本当の幸せ、本物の男、真実の愛云々。
世の中の人で、真剣に「本当の・・・」と言う人は多い。が、いくら真剣に言ってもそれはあやしいのである。真剣であることと、本当であることはまったく別物である。
私たちは神様が目前に現れたら、それが神様とわかるだろうか?答えは否である。あらかじめ神様を知っていないと目の前にそれが現れた時に神様と認識できないのではないだろうか?
これが人の真の生き様だ、などと指し示すことはできない。が、何も疑わずに流されて生きることは、私にはできない。
ところがこの店主、時々「本物のコーヒーとは」と言う。これが偽学者ミッチー教授の逆鱗に触れた。聞き捨てならん。そこへなおらば成敗してくれるところである。本物のコーヒーだ?お前さん、お馬鹿タレ。本物の何々、とか本当の何々、などということはめったに使ってはならない言葉なんだぞ。なんであんたが「本物のコーヒー」を知っているんだ?見たのか?飲んだのか?いつ?どこで?誰が淹れた?で、それがなんで「本物のコーヒー」とわかった?
残念ながらこれに類することは巷に星の数ほど散らかりまくっている。そしてプラネタリウムの天井に投影された光を実物の星とでも思うように本物のコーヒーが実在すると思っている。本当の幸せ、本物の男、真実の愛云々。
世の中の人で、真剣に「本当の・・・」と言う人は多い。が、いくら真剣に言ってもそれはあやしいのである。真剣であることと、本当であることはまったく別物である。
私たちは神様が目前に現れたら、それが神様とわかるだろうか?答えは否である。あらかじめ神様を知っていないと目の前にそれが現れた時に神様と認識できないのではないだろうか?
これが人の真の生き様だ、などと指し示すことはできない。が、何も疑わずに流されて生きることは、私にはできない。
2012年12月24日月曜日
iPS細胞に寄せて
今年(2012年)の流行語大賞は「ワイルドだろ」だそうな。一年の三分の一以上日本を留守にしていたので、これの意味が皆目わからない。そもそも流行というものにはとんと興味はない。電気受像機は好きでよく見るが、俳優さんたちは最近競って襟巻きをしている。これが流行らしい。私も外に出る時はバンダナやスカーフをアスコットタイ代わりに首に巻く。これは実用からである。頭のバンダナや回教徒が被る帽子を着けるのも実用からが主で、決してハゲ隠しではない。(私は毛髪が薄くなって以来毎日頭を剃っている。おまけに言うことが理屈っぽくて抹香臭いので、前世は坊主だったに違いないと思う)とにかく毛が無いと冬は寒いし夏は暑い。容易に怪我をする。帽子やバンダナは私にとっては全くの実用である。
私とて枯れたわけではないので、おしゃれはする。するが、それは実用の延長線上にあらねばならぬ、と言うのが私の考えである。だから女性のおしゃれは大嫌いである。ある旅番組で、ご当地の名物料理を食べる景色があった。器やフォークを操るその指の爪が空色に塗られていた。私はその料理に同情した。爪は実生活に差し支えないように長さを整えるべきで、色を塗って料理をまずくするとは言語道断である。
女性はまつげをおもちゃにする。一所懸命にまつげを黒く塗り、あまつさえ他から持ってきて自分のそれに付け足したりする。
面白うてやがて悲しき付けまつげ。
滑稽を通り越して悲しくさえある。某国営放送の朝の番組の女性司会者がいい年をして付けまつげをしている。これだもの女子高校生が勉強を放ってところ構わず鏡とにらめっこするわけである。
私はどうせ女性に持てないのでもう一つ。ハイヒールというやつである。馬鹿も極まれり、というのがこれである。いっそのこと竹馬にでも乗ればいいではないかと思うのである。見かけ一番実用は二番。文明堂もびっくりである。危ないし、健康に悪いことは医者に聞かなくてもわかりそうなものだが・・・。女子高校生は丈の短いスカートをはく。彼女ら知ってか知らずか、目的はひとつ。男の視線をひきつけたいのである。で、見れば怒るし、見なければもっと短くするだろうし。自然なこととは言え、サカリがつく年頃というものは大変だなと思う。
私は装飾品というものが嫌いである。指輪は例外はあるが純粋に装飾品としてのものは嫌いである。耳飾りも嫌いである。その類を身に着けてチャラチャラ歩いている人を見ても敬遠することはあっても惹きつけられることはない。そもそも装飾品をつけたからといってその人が綺麗になるということはあり得ない。人が綺麗になるのはやはりその人の「生き方」や「想い」によるものであろう。
人が流行を追いたがったり、装飾品を付けたがる訳を私は知っているつもりである。前者は「群れ」に従属して安心安定を得たいからであり、後者は群れの中でより多くの異性を惹きつけたいからに違いあるまい。種の繁栄と言う観点から見れば大変重要なことではあるが、人間という特殊な動物としてはどうか・・・。
人は精子と卵子が合体して動物としての新たな生命が活動を始める。母のお腹の中で、ひとつだった細胞が倍々と数を増やし、無脊椎動物から魚類になり、魚類から両生類や爬虫類となり、やがて哺乳類から霊長類の進化の過程をたどって、最後に人間の赤ちゃんとしてこの世に生まれ出る。栄養や酸素が体中に行き渡り、循環がうまく作用して大過なく動物としての身体は成長する。しかし、果たして心はどうであろうか。人としての心を養うのは容易ではない。心とは目に見えないものであるが、これもいつどのようにかは私には知る由もないが、ある時物理的身体に宿り、原初のこころから始まって徐々に進歩を重ね、次第に人の心になってゆくに違いない。
良くも悪くも人にも生物多様性の原理は働き、様々な人ができてくる。ひとつの見方としての話しではあるが、人はその心や魂の発達段階で自らの成長を止めてしまう場合があるようだ。裏で何が起きているのかは知らない。十分人になりきる前に成長が止まると、その人は体は人間、でも心は動物として生きるよりほかなく、これは不幸なことこの上ない。体は人間とは言っても、人間に一番近いチンパンジーとでもDNA的にはほんのわずかな違いしか無い。これで心が人の領域に達していなければ、動物としての二大本能である種の保存と、自己保存の本能にしたがって行きてゆくしか無い。「サカリ」を理性で操縦できない女性たちはしきりにスカート丈を短くしたり、目にニセまつげをつけたりするのである。男性はしきりに力こぶを見せたがるわけである。
少し大げさな表現を使って書いたが、基本はほぼ正しいと思う。そこでどうするか・・・。
私の持論は人の心もまた山中教授のiPS細胞と同じことが言えるのではないかと、と言うことである。いま鼻毛を司る細胞だったとしても心筋や脳幹細胞に生まれ変われる可能性を秘めており、それを成すか成さぬかは状況次第である。老齢に達してさえも人は赤ん坊だった頃の心の可能性を持っている。今は少しだけその柔軟性を失っているだけなのだ。でも、それは間違いなく取り戻せる。
今晩はクリスマス・イブ。ディケンズのクリスマス・キャロルのエベネーザ・スクルージだって元から暖かい心を持っていたのである。近道をしても、遠回りをしても最終的には人としての心を発現させることが大切だと思う。
私とて枯れたわけではないので、おしゃれはする。するが、それは実用の延長線上にあらねばならぬ、と言うのが私の考えである。だから女性のおしゃれは大嫌いである。ある旅番組で、ご当地の名物料理を食べる景色があった。器やフォークを操るその指の爪が空色に塗られていた。私はその料理に同情した。爪は実生活に差し支えないように長さを整えるべきで、色を塗って料理をまずくするとは言語道断である。
女性はまつげをおもちゃにする。一所懸命にまつげを黒く塗り、あまつさえ他から持ってきて自分のそれに付け足したりする。
面白うてやがて悲しき付けまつげ。
滑稽を通り越して悲しくさえある。某国営放送の朝の番組の女性司会者がいい年をして付けまつげをしている。これだもの女子高校生が勉強を放ってところ構わず鏡とにらめっこするわけである。
私はどうせ女性に持てないのでもう一つ。ハイヒールというやつである。馬鹿も極まれり、というのがこれである。いっそのこと竹馬にでも乗ればいいではないかと思うのである。見かけ一番実用は二番。文明堂もびっくりである。危ないし、健康に悪いことは医者に聞かなくてもわかりそうなものだが・・・。女子高校生は丈の短いスカートをはく。彼女ら知ってか知らずか、目的はひとつ。男の視線をひきつけたいのである。で、見れば怒るし、見なければもっと短くするだろうし。自然なこととは言え、サカリがつく年頃というものは大変だなと思う。
私は装飾品というものが嫌いである。指輪は例外はあるが純粋に装飾品としてのものは嫌いである。耳飾りも嫌いである。その類を身に着けてチャラチャラ歩いている人を見ても敬遠することはあっても惹きつけられることはない。そもそも装飾品をつけたからといってその人が綺麗になるということはあり得ない。人が綺麗になるのはやはりその人の「生き方」や「想い」によるものであろう。
人が流行を追いたがったり、装飾品を付けたがる訳を私は知っているつもりである。前者は「群れ」に従属して安心安定を得たいからであり、後者は群れの中でより多くの異性を惹きつけたいからに違いあるまい。種の繁栄と言う観点から見れば大変重要なことではあるが、人間という特殊な動物としてはどうか・・・。
人は精子と卵子が合体して動物としての新たな生命が活動を始める。母のお腹の中で、ひとつだった細胞が倍々と数を増やし、無脊椎動物から魚類になり、魚類から両生類や爬虫類となり、やがて哺乳類から霊長類の進化の過程をたどって、最後に人間の赤ちゃんとしてこの世に生まれ出る。栄養や酸素が体中に行き渡り、循環がうまく作用して大過なく動物としての身体は成長する。しかし、果たして心はどうであろうか。人としての心を養うのは容易ではない。心とは目に見えないものであるが、これもいつどのようにかは私には知る由もないが、ある時物理的身体に宿り、原初のこころから始まって徐々に進歩を重ね、次第に人の心になってゆくに違いない。
良くも悪くも人にも生物多様性の原理は働き、様々な人ができてくる。ひとつの見方としての話しではあるが、人はその心や魂の発達段階で自らの成長を止めてしまう場合があるようだ。裏で何が起きているのかは知らない。十分人になりきる前に成長が止まると、その人は体は人間、でも心は動物として生きるよりほかなく、これは不幸なことこの上ない。体は人間とは言っても、人間に一番近いチンパンジーとでもDNA的にはほんのわずかな違いしか無い。これで心が人の領域に達していなければ、動物としての二大本能である種の保存と、自己保存の本能にしたがって行きてゆくしか無い。「サカリ」を理性で操縦できない女性たちはしきりにスカート丈を短くしたり、目にニセまつげをつけたりするのである。男性はしきりに力こぶを見せたがるわけである。
少し大げさな表現を使って書いたが、基本はほぼ正しいと思う。そこでどうするか・・・。
私の持論は人の心もまた山中教授のiPS細胞と同じことが言えるのではないかと、と言うことである。いま鼻毛を司る細胞だったとしても心筋や脳幹細胞に生まれ変われる可能性を秘めており、それを成すか成さぬかは状況次第である。老齢に達してさえも人は赤ん坊だった頃の心の可能性を持っている。今は少しだけその柔軟性を失っているだけなのだ。でも、それは間違いなく取り戻せる。
今晩はクリスマス・イブ。ディケンズのクリスマス・キャロルのエベネーザ・スクルージだって元から暖かい心を持っていたのである。近道をしても、遠回りをしても最終的には人としての心を発現させることが大切だと思う。
2012年12月18日火曜日
いかに生きるか その4
欝を発症したのは3年前の今頃であった。それが果たして医学上の「鬱病」だったのか、はたまた「欝状態」だったのかはわからない。「健康な状態」と「病的な状態」と「病気の状態」はそれぞれ違うはずだ。各状態の境界は必ずしもはっきりしない。私は病院で診察の結果、担当医に鬱症状が出ています、と言われた。
当時は欧州から日本に生活の基盤を移すことに期待と不安の両方があった。欧州にいれば安定した仕事と収入はほぼ保証されていたが、私にとっては彼の国は住み心地のいいところではなかったのである。かと言って当時の日本が私にとってなお住みよいかどうかはわからなかった。苦節はあったものの10年近くも欧州で生活していたのである。
人の持つ尺度というものは絶えず揺らぐ。揺らがない人に進歩はない。苦労して獲得した尺度であっても人はそれを常に疑わなければならない。疑った結果、それが大丈夫と思っても機会を得て再度疑う。これの繰り返しが大事だと思う。信じていることのすべてが正しいなどと言う人はいないわけで、進歩向上の道を無限に歩むことを期するのであれば、確信できそうなことならなお疑う。疑って、さらに疑って、それでも疑う。そして取り敢えずはその尺度を「仮合格」とする。滑稽なことにこの合否の判定尺度が結構いい加減である。尺度を判定する尺度などあるのだろうか・・・。
例えばいま流行りの原発問題である。賛成にしろ反対にしろこれに関する情報や知識をマスコミ等から得て判断し、その是非を断言する。多くの人は、自分がどのような問題を、どのような尺度で測っているかを知らないと思う。自分の中の正誤是非が決まれば自説に有利な知識情報、そして自説強化のための理屈を並べる。そしてこれに気づく気配はない。傲慢な言い方ではあるが、私はこのような人々を羨ましくも思い、また気の毒にも思うのである。
さて、外地で生活すればその時の自分に都合の良い尺度は身に付ける。それが10年という歳月の間に積もり積もった。それがすべて普遍的且つ公正なな基準であればいいのだが、欧州(と言ってもアイルランドであるが)の尺度がそうである保証などあるわけはない。が、私は帰国後かなりのものを欧州の尺度で計っていた。日本の社会は欧米の尺度をすべて良しとし、あこがれ、盲従する。しかしながら、本能的にこれに反発する風もある。私はこれを知っていたので、用心深く「知っている筈の日本」を再観察し、軟着陸を試みたつもりであった。
が、コケた。欧米は「個」を主張し、これを重んじる。そして「理」の世界である。日本は「他」を尊重し、「情」を重んじる。どちらが正しいかという問いは「リンゴとブドウのどちらが美味しいか?」と言う問いに等しい。正誤で答えられる問題ではない。永く日本を留守にすると祖国恋しさのあまり、過剰美化に走る。それまで住んでいた国が決して住み心地のいいところではなかったから尚更である。
ある時、所用で一時帰国していた時のことである。新宿から湘南新宿線に乗った。私は一日東京で過ごし、疲れていた。座りたかったが、立席の出る混み具合でそれは望むべくもなかった。座っている、そして次の駅で降りそうな人の目星をつけてそれとなく前に立った。あろうことか池袋で私の前に座っていた人が立って降りたのである。自動的にこの席は私のものになる、と思った。不文律である。ところが私の横に立っていた中年のおばさんが自分の手提げをポンと空いた席に放り、そこを確保してしまったのである。私は文句を言うことも忘れ唖然とした。
他人の幸福な姿を見ると自身も幸福になるが、このように他人の醜さをあからさまに見せつけられると思わず自分の心も醜くなる。理性を失いそうになった。自分の利益がかかると尚更である。おばさんは醜い顔をしていた。これは(私の思い描いていた)日本人ではないと思った。この人にも両親がおり、そして子供もいるだろう。どんな育てられ方をし、どんな育て方をしているのだろうと思った。こんな人に限って子沢山で、ねずみ算式にこのおばさんの複写を日本中にばら撒かれたら日本の退歩に繋がるは必定と見たものである。
どんなところにもこんなおばさんはおり、またどんなところにも天使のような人はいるものである。この双方の比で国民性とかが決まるのだろう。(アイルランド人がいい加減というのは間違いないが、すべてそうだというわけでもないように)ただ、私の場合、帰国してこのようなことに連続して遭遇してしまった。日本とは何という窮屈で醜い世界だろうと思った。一回や二回なら神経質な私でもそれほどは気にしなかったであろう。しかし、度重なったのである。そしていつの間にか欧州移住の頃にはあったはずの精神的な柔軟性を失っていた。いま思うに、これが「鬱症状」発症の引き金になったと思う。
私は「欝」を発し、これをきっかけとして様々なことを思い、感じ、考え、人や人生というものの考えを新たにした。抽象的な言い方ではあるが、人として少しだけ大きくなれたと思う。相変わらずの明日をも知れない貧乏暮らしではあっても、金に不自由しなかった頃よりいくらかはマシな人間になったと思うのだ。
当時は欧州から日本に生活の基盤を移すことに期待と不安の両方があった。欧州にいれば安定した仕事と収入はほぼ保証されていたが、私にとっては彼の国は住み心地のいいところではなかったのである。かと言って当時の日本が私にとってなお住みよいかどうかはわからなかった。苦節はあったものの10年近くも欧州で生活していたのである。
人の持つ尺度というものは絶えず揺らぐ。揺らがない人に進歩はない。苦労して獲得した尺度であっても人はそれを常に疑わなければならない。疑った結果、それが大丈夫と思っても機会を得て再度疑う。これの繰り返しが大事だと思う。信じていることのすべてが正しいなどと言う人はいないわけで、進歩向上の道を無限に歩むことを期するのであれば、確信できそうなことならなお疑う。疑って、さらに疑って、それでも疑う。そして取り敢えずはその尺度を「仮合格」とする。滑稽なことにこの合否の判定尺度が結構いい加減である。尺度を判定する尺度などあるのだろうか・・・。
例えばいま流行りの原発問題である。賛成にしろ反対にしろこれに関する情報や知識をマスコミ等から得て判断し、その是非を断言する。多くの人は、自分がどのような問題を、どのような尺度で測っているかを知らないと思う。自分の中の正誤是非が決まれば自説に有利な知識情報、そして自説強化のための理屈を並べる。そしてこれに気づく気配はない。傲慢な言い方ではあるが、私はこのような人々を羨ましくも思い、また気の毒にも思うのである。
さて、外地で生活すればその時の自分に都合の良い尺度は身に付ける。それが10年という歳月の間に積もり積もった。それがすべて普遍的且つ公正なな基準であればいいのだが、欧州(と言ってもアイルランドであるが)の尺度がそうである保証などあるわけはない。が、私は帰国後かなりのものを欧州の尺度で計っていた。日本の社会は欧米の尺度をすべて良しとし、あこがれ、盲従する。しかしながら、本能的にこれに反発する風もある。私はこれを知っていたので、用心深く「知っている筈の日本」を再観察し、軟着陸を試みたつもりであった。
が、コケた。欧米は「個」を主張し、これを重んじる。そして「理」の世界である。日本は「他」を尊重し、「情」を重んじる。どちらが正しいかという問いは「リンゴとブドウのどちらが美味しいか?」と言う問いに等しい。正誤で答えられる問題ではない。永く日本を留守にすると祖国恋しさのあまり、過剰美化に走る。それまで住んでいた国が決して住み心地のいいところではなかったから尚更である。
ある時、所用で一時帰国していた時のことである。新宿から湘南新宿線に乗った。私は一日東京で過ごし、疲れていた。座りたかったが、立席の出る混み具合でそれは望むべくもなかった。座っている、そして次の駅で降りそうな人の目星をつけてそれとなく前に立った。あろうことか池袋で私の前に座っていた人が立って降りたのである。自動的にこの席は私のものになる、と思った。不文律である。ところが私の横に立っていた中年のおばさんが自分の手提げをポンと空いた席に放り、そこを確保してしまったのである。私は文句を言うことも忘れ唖然とした。
他人の幸福な姿を見ると自身も幸福になるが、このように他人の醜さをあからさまに見せつけられると思わず自分の心も醜くなる。理性を失いそうになった。自分の利益がかかると尚更である。おばさんは醜い顔をしていた。これは(私の思い描いていた)日本人ではないと思った。この人にも両親がおり、そして子供もいるだろう。どんな育てられ方をし、どんな育て方をしているのだろうと思った。こんな人に限って子沢山で、ねずみ算式にこのおばさんの複写を日本中にばら撒かれたら日本の退歩に繋がるは必定と見たものである。
どんなところにもこんなおばさんはおり、またどんなところにも天使のような人はいるものである。この双方の比で国民性とかが決まるのだろう。(アイルランド人がいい加減というのは間違いないが、すべてそうだというわけでもないように)ただ、私の場合、帰国してこのようなことに連続して遭遇してしまった。日本とは何という窮屈で醜い世界だろうと思った。一回や二回なら神経質な私でもそれほどは気にしなかったであろう。しかし、度重なったのである。そしていつの間にか欧州移住の頃にはあったはずの精神的な柔軟性を失っていた。いま思うに、これが「鬱症状」発症の引き金になったと思う。
私は「欝」を発し、これをきっかけとして様々なことを思い、感じ、考え、人や人生というものの考えを新たにした。抽象的な言い方ではあるが、人として少しだけ大きくなれたと思う。相変わらずの明日をも知れない貧乏暮らしではあっても、金に不自由しなかった頃よりいくらかはマシな人間になったと思うのだ。
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