2012年3月19日月曜日

あいつは民主主義者だ !

今から数十年後の20××年の話しである。

2018年に民主主義日本は滅びた。百数十年前にはるばる西洋から輸入した民主主義という政治形態(資本主義という経済の形態とほぼ表裏一体)が小田原評定の常態化を助長して、隣国の軍事的脅威に対抗出来なかったのだ。政治家は自分の政策のみが正しいと個々の主張して譲らず、かと言って万が一の責任は取りたくない。勇ましいのは選挙の時のみで、会議では優柔不断に徹していた。防衛のためのミサイルの数を345にするか346にするかを決めるのに3年を費やし、その間に世界でも有数の極貧乞食国家から核兵器による恫喝を受けて食糧援助をせざるを得なくなった。さらに、同じ隣国で、10倍もの人口を持つ共産帝国主義国家にも横車を押されて南の領土を武力で取られてしまった。そしてその国は、沖縄県は彼の国の固有の領土だといって「返還」要求を始めた。

盟友国家であったはずのアメリカは「アメリカは自ら助くるもののみを助く」と言って、自助努力をしない日本を見限った。沖縄から軍隊を引き上げた。

かねてより沖縄に送り込まれていた共産帝国主義のスパイは日本人に迫害を受けている、助けて欲しい、と筋書き通りに本国に要請した。本国はこれを受けて「コレハ大変アルヨ、ワガ人民ガ迫害ヲ受ケテイルアルネ。助ケニ行カネバネバ」と軍事作戦を展開し始めた。

平和憲法が、憲法9条があれば日本は平和を守れると夢想していた人たちは恥ずかしさのあまり、顔の整形手術を受けて暮らさねばならなくなった。

いまさら日本国民はその平和ボケの政治形態に疑問をいだき、その欠点の研究を開始した。研究の形態も民主主義なのでその結果を得るのに3年かかった。結果は民主主義は政策決定に時間ががかかり、かと言ってその方向が必ずしも正しくはない、ということだけであった。しかし、沖縄はとうに隣国のものとなっており、そこに暮らす日本人はチベット人のように迫害を受けていた。


やがて押しが強く、明晰な頭脳をもった若い政治家が現れ、独自の理論を展開して周囲を席巻していった。既存の政党は自党の延命を、そして政治家は自らの失業を恐れてこの政治家に迎合した。やがてこの政治家は独裁政治体制を完成させて次から次と起こる国家の危機に対応し、難局を乗り切った。彼の発言には誰も異を唱えなくなった。彼の取った決断は正しく、何より早かった。日本に脅威を与えていた国家群もこの決断速度に追随できず、軍事でも外交でも経済でも次々と敗退していった。沖縄はそこを奪回するために再び戦場となって多くの人が死傷した。

学校では民主主義は決断に時間のかかる悪い政治形態だと教えるようになった。巷では人々が集まって何かを決めようとすると
「あいつらは民主主義者だ!」
と言って白い目で見られるようになった。おわり

独裁主義の何が悪い。かつて独裁主義で繁栄した国はあまたあるではないか。民主主義ならみんなで間違った方向に歩んでもそれで悔いはないのだろうか・・・。

日本は人類史上初めての民主主義のために滅びた国家となろうとしている。かつて小田原は秀吉に攻められて評定(会議)を開き、時間ばかりかかって結論を出せないまま敗れた。この故事に習うことをせず、滅びるぞ、滅びるぞ、ほーら滅びた、と言う具合になりそうである。

実は、必要なのは民主主義を排除することではない。今いかにその弊害をなくす、あるいは少なくするかを考える大切な時期に来ていると思う。政治家が悪いという。官僚が悪いという。では、民衆だけはまともなのか。

私を「右翼」だと思う人がいるかも知れない。思われてもいいが、それは違う。げんに私は今の天皇制(※)には反対する者である。右も左も興味なし。私は歩き続ける人である^^

(※)今の天皇制は反対だが、昭和天皇、今上天皇はじめ一個の人間として尊敬する人々は皇室の中にもいる。これは別問題である。

2012年3月13日火曜日

業務連絡 ^^; (暖炉のにおい、第一巻公開忘れお詫び)

大好評(世界中で6人の読者)「暖炉のにおい」シリーズですが、若干加筆訂正をしたあと、<公開>をポチッとするのを忘れてました。一番最初の「暖炉のにおい」です。途中からお読みになったかたは中途半端な感じがしたことでしょう。お詫びします。
http://michioscud.blogspot.com/2011/07/blog-post_13.html ←これをクリックすると加筆訂正後の文章に飛べます。

拙文はヨーロッパやアメリカ、ロシア、東南アジアなどでもお読みいただいております。おそらくは各国で頑張っておられる日本人の方々と推察します。みなさんのご健闘並びにご活躍をお祈りするとともに、この場をお借りして講読の御礼を申し上げます。
(なんか田舎の町長の挨拶になってしまった・・・)

2012年2月20日月曜日

暖炉のにおい 6

季節は秋であった。

もともとアイルランドの気候は温暖と言われている。その分、季節の境目がはっきりしない。夏といっても日本のそれのように、ジリジリと日差しが照りつけてうだるように暑くなる、などということはない。簡単に言えば0℃から20℃くらいの間で気温は移り変わる。その変わる速度が極めて緩慢である。だらだらと変わる。考えてみれば東京などは仮に0℃から35℃の間を約半年で変わるのだから、アイルランドの気候が温暖と言われるのは納得が行く。そんなわけで、秋といっても、夏なのか秋なのか冬なのかははっきりしない。ただ、暦の上では秋であったのだ。

いま地図でダブリンの緯度を見た。日本近辺で言えばおおよそ樺太の北端辺りである。(ちなみに東京はアフリカ大陸の北端と同じ緯度である)秋は冬至に向かって急速に昼の時間が短くなる。午後も三時ころになると日差しは既に心細くなる。そんな時に私が教授の令嬢ケイトと待ち合わせをしたのはテンプルバーの菜食主義食堂であった。猥雑に居酒屋や宿屋、そして土産物屋が並ぶ一角にその安食堂はあった。

時間ギリギリに入ってテーブルにつくと、待っていたかのように小柄な女性が小さな子供を連れて私の席によってきた。人品は・・・卑しい。着古した外套を着て、手には指先が出る手袋をしている。鼻と耳にピアスをしている。そばかす顔である。毛糸の帽子から出ている髪は金髪であったが、ここ数週間はブラシが入った様子がないように思われた。

「あ、あんた、み、みちお?」

早口で吃音である。微笑んだのだろうが、その外観を見て相当がっかりしていた私には彼女が「ニヤッ」と笑ったように見えた。瞬時にあらゆる想像が私の頭を駆け巡る。この風体、顔の表情、話し方・・・そして手をつないで隣にいる7~8歳の少女。心持ち鷲鼻で、金髪の巻き毛を短くしている。この子の着ているものも全体的にかなりくたびれている。物怖じをする様子は見えない。

「そう、ぼくはみちお、じゃ、キミはケイトだね?」
「アタイがケイト、こっちはエミリー」

型通りの挨拶をし、ここはぼくが馳走するから好きなモノを注文して下さい、と言うと目の前の淑女たちは遠慮する風もなくニンマリとして献立表を見始めた。エミリーは早速アップルパイと言い、ケイトと私はニラの雑炊を注文した。私は食堂で献立を選ぶのが嫌いである。面倒である。この癖は欧米では甚だ宜しくない。が、私は不都合のない限り私のやり方を通す。ひできすやSnigelなどと外食をする際、私のやり方を知っている彼らは「真似すんなよ」と先に釘をさして意地悪を言う。私が九割くらいは前に注文した人と同じ料理を頼むからだ。なに、彼らだって子どもじみたことを言っているのである。食い物のことをああだこうだ言うのは女子供だけでたくさんである(問題発言か・・・^^;)。

エミリーの注文が先に来た。彼女はカウンターからガラスのコップを持って来、いきなり茶さじでアップルパイの上に載っているホイップクリームをそれに移し始めた。ホイップクリームは嫌いなのだそうだ。私は呆気に取られてこのさまを眺めていた。日本ではこんなことはしない。少なくとも同じ状況であれば多少それが嫌いでも我慢して食べるところである。当時私は海外の暮らしはまだ短く、日本の尺度で全てを測っていたのである。

※ 尺度論をいつか展開するつもりである。これは人にとってかなり重要な柱ともなるべきものである。尺度はどこから来たか、それは一本か二本か、地域性の高いものであるか、或いは万国共通なものか、一時的なものか、或いは普遍的なものか。また、その使用については自覚的に使っているか、無自覚に使っているか、その他諸々である。

エミリーは私の視線など気にせず作業を続ける。極端に言えばテーブルの上に頭と二本の手を出して作業に没頭している。私の頭には先ほどから下世話な想像が往来している。ケイトの容姿、立ち居振る舞いからすると、エミリーはケイトの父無し子に違いないと断定するに至った。放蕩が過ぎて教授に見放され、ダブリンで暮らしているのだろう。さもなくば名門大学の教授の令嬢たるものがそんな格好をして幼い子を連れているわけがない。

自分で言うのもおかしいが、当時の私は貧弱な古い一本の尺度を日本から持ってきて使用していた。ケイトはどう見ても昔流行ったヒッピーそのものであり、そのヒッピーが連れているのは自動的に「父無し子」なのであった。傲慢を承知で言えば、私の目からは彼女らは距離を置くべき人たちのように思えたのである。

2012年2月12日日曜日

冬の日常 4

佐久の冷え込みはきつい。今のところ、今冬の我が家の最低気温はせいぜい-10℃である。それほど寒いわけではない。が、数日の例外を除いては毎日日中でさえ零下の気温なので、何週間も前に降った雪が融けずにそのまま残っている。手抜きをして造った薪小屋はさすがに心細く、つっかい棒を増やした。なに、潰れたとて損害にはならないが、こんな山の中でも定住者はおり、中には毎日のように散歩か偵察かをしに来る人々がいる。まさか泥棒の下見でもないだろうが、わざわざ車で遠回りをして往来する人々もいる。いくらボロ小屋といえども、潰れればやはりみっともないし厄介である。仕方ないので雪下ろしをした。下からレイキで届く範囲の雪を降ろしたが、真ん中あたりに多少残ってしまい、それがために屋根の中ほどだけが下がってしまっている。一計を案じた。屋根の下に長さ2.5mほどの頑丈な角材を渡して真ん中を車のジャッキで持ち上げた。雪の量でその部分は上下し、動くのでいつこの構造が崩壊するかはわからない。前回ほどの雪が降らなければ大丈夫だろうと思う。

そんなことをしていたら、浦和の友人Kを訪ねてドイツからTが来た。Tは私とも旧知なので、ふたりともわが領地を訪問したいとて、滞在ビザを申請してきた。彼女らは二日間の滞在予定であるが、私は冬季は除雪の仕事があり、常駐日と言って雪が降らなくても4日に一回は除雪詰所に待機していなければならない。降れば降ったで呼び出されて除雪に行かねばならない。うまく常駐日を代わってもらって彼女らを迎える準備をしていたら、ヨーロッパ大寒波の影響でTは(オランダの)スキポール空港で雪に閉じ込められ、結局一日遅れで日本に到着した。ユーラシア大陸を挟んで、ともに雪のために右往左往したわけである。

KとTに会うのはヨーロッパ以来7ヶ月ぶりである。佐久インターを降りたところにお土産屋兼食堂があるので、そこで待ち合わせた。名物の釜飯を食い、お土産見物をした。Tは時差ボケをするような遠国への旅は初めてだそうで、まして東洋の国などは珍しくてしょうがない。土産品の前にある試食品を食べてみせると、まねて片っ端から食べ始めた。オイオイと思っても止めようもなく、また止める口実もない事に気がついた。ままよ・・・。

※ Tは翌日イオンに行った折りも、目ざとくパンの試食品を見つけて、売り場で悪びれることもなく2回の「試食」をした。この試食用のパンはサイズが大きく、いたく彼女のお気に召したようだった。彼女は典型的な白人顔で金髪長身、よく目立つ。私は他人のふりをしていたが・・・。

当初私はTをもてなすことを口実として、めったに食べない(食べられない?!)すき焼きをKに提案したのだが、立ち寄ったスーパーでTが厳格な菜食主義者であることが判明、これを断念した。欧米では私達日本人が思っている以上に菜食主義者が多い。しかし、菜食主義といっても、卵やチーズは食べる、或いはたまに魚は食べると言ったふうで、ベーガン(Vegan)と呼ばれる厳格な菜食主義者は珍しい。よりによってTがこれとは神様も無粋なことをなさる。

結局肉の代わりにガンモドキを入れ、生卵はなし。何とも名前のつけようのない「すき焼き」とは相成った。しかしながら、料理はかなり美味く、Tに「コレハナントイウ料理デアルカ」との問に、Kと私はお互いに目で命名権を譲りあったのである。

翌朝寒気をついて朝食後の散歩に出た。空全体に低い雲が垂れこめており、彼女らに浅間山やら八ヶ岳の雪化粧した姿を見せることは叶わなかった。私たちはとりとめもない話しをしながら歩き続け、冷たく新鮮な空気を讃えてこれを深呼吸した。

思いがけない長い散歩の後、家に帰ってお茶の時間とする。歩幅を広くとって速く歩くならいいが、のんびりと歩いたので体が冷えた。薪ストーブのそばに椅子を寄せてお茶を飲む。

昼飯は信州名物そばの予定である。ガイジンが好もうと好むまいと蕎麦は信州の名物である。佐久平駅のソバに行列のできるそば屋さんがある。11時半開店で、少し遅れたが運良く席はすぐとれた。座敷である。私がザルを頼むと二人も続いた。と言ってもTは何もわからない。薬味の説明をし、早速「ズルズル」と蕎麦をすする。Tにはあらかじめ日本では麺は音を立てて食べるものであることを説明する。

次は日本酒の酒蔵見学である。前日予約を入れておいた。が、まだ少し早い。家電量販店で時間つぶし。Tはドイツから持って来たPCの電池が切れかかっており、変圧器と海外用プラグの必要に迫られていた。日本で売っている多くのものは、日本の家電を海外で使えるようにするためのものであり、海外の家電を日本で使えるようにするものは少ない。私は電気音痴である。仮にプラグの形状が合ったとしても、100vを200vにできるのだろうか。私が厠(かわや)に行っている間にKは店員さんに聞いていたが、現物がないと答えられないと言う。もっともである。退散。

酒蔵はこの辺では大手で、甘酒から日本酒、焼酎まで作っているらしい。製造工程を見学し最後には何種類もの酒、焼酎を試飲させてくれた。いくら下戸でも私も飲みたかった(運転手だった・・・・)。

翌日は時差ボケが出たTの起きるのが遅く、のんびりとした朝となった。それでも近くの温泉に行った。私はカラスの行水なので、さっさと上がって長椅子で居眠りをした。温泉についてKがTにどのように説明したかは知らない。しかしながら、日本の温泉は海外にも知られた文化であり、Tにはいい経験になったことと思う。

あとひと月は寒いだろうな、と思いつつ薪の残りを心配する。来季は大丈夫にしても再来季の分を今年中に準備しないといけない。チェーンソーも修理しないといけない。今夜もオリオン座の左に冬の大三角形がはっきり見えている。外気温-7℃。

2012年1月24日火曜日

冬の日常 3

雪国の山中に暮らすことについて思い出すのはソーロー(Henry David Thoreau)の「森の生活(原題Walden:or, the Life in the Wood)」という本である。随分前に読んだ本で、ほとんど何も覚えていないが、著者がアメリカのどこだかの森の中に丸太小屋を建てて2年以上を一人で暮らした話しであった。150年位前の話しである。ペリーが浦賀に来て野蛮な砲艦外交を始めた頃、ソーローは山中にひとり暮らして自らの思想を練っていた。

本当は私もソーローと同じように北海道の山中に広大な土地を買い、そこに家を建てて住みたかった。が、自らの分を考え、妥協したのが今の生活である。否、妥協というにはあまりにも軟弱な選択ではあった。しかし、これくらいが自分の限界であることは知っていたつもりである。

人の生まれて世にある間は、自分を問い、人生を問うことが一大事業である。私には何もない。この年になっても確固たる独自の思想もないし、動物のように生きる体力も知恵もない。ソーローのように社会と隔絶しては生きていけないのは明らかである。

ともあれ、自らの動物身体は養わねばならず、今日もひとり飯を炊き、薪を運ぶのである。

先日(2012年1月19日から数日の間)、日本の多くの地域で大雪が降った。当然長野にも降った。私は冬期間は高速道路の除雪の仕事をしており、家にいなかった。珍しく重機での除雪を命じられて、その大きな玩具に夢中になっていた。しかし、心配事があった。私は昨秋、母屋に接してガレージを建てたのだが、依頼業者が、強度計算などは知らない、素人にうぶ毛がはえた程度の人たちであった。私は臍を噛んだがもう遅い。屋根の強度に大雪は極めて剣呑だったのである。

結果から言うと何も起こらなかった。家のガレージは無事だった。除雪詰所からの帰り道、私は車を運転しながら、頭の中で雪の重みで潰れた我が家のガレージを想像していた。悪いことが起こりそうな時には悪い想像をする。これは私の魔除けのおまじなであると同時に、それが実際におきた時の衝撃をやわらげるための予行演習みたいなものなのである。家を出る時に見たそのままの形で、ガレージはあった。私が大きな玩具で仕事とも遊びともつかないことをしていた軽井沢の辺りは積雪が30cmは優にあった。その時の状況で、軽井沢の天気と私の家が属する八ヶ岳山系の天気が同じとは限らない。近くはあっても双方別の山系に属するからである。さてこれが、吉と出るか凶と出るかであった。

帰路国道は既にきれいに除雪されており、路面は乾いていた。しかし、主要道をはずれて、我が御用邸に近づくにつれて雪は深くなり、除雪の跡は見られるものの、道路には雪が残って圧雪状態になっていた。降雪直後とはきれいなものである。世界が生まれ変わったように見える。木々は雪を纏ってあたかも彼らだけで華やかな宴を開いているようにも見える。

ガレージはあった。何と、屋根の雪が滑って全部下に落ちていた。ほっとするが、この辺りも軽井沢とほぼ同じ積雪量だった。30cmはある。道路からガレージまでは10m程の緩い登りである。私のダイハツランドローバーは入れるだろうか。道路と我が領地の境界には除雪でできた40cmほどの堤ができている。生来怠け者の私は除雪なしで勢いをつけて前線突破を試みる。が、どうにもならない。あきらめて必要な分だけ除雪をする。

3日の留守で、家の中は冷え切っていた。すぐに薪ストーブに火を入れる。ガンガン燃やしてもその熱はいたずらに煙突から逃げてゆくだけなので、温度計を見ながら適度に空気穴の調整をする。家中が元の暖かさに戻るには半日はかかる。明るいうちに薪小屋から薪を持って来て居間のガラス戸のすぐ外に置いておく。夜は結構冷え込みがきついので、薪を取りに外に出るのは控えたい。

薪小屋は庭のほぼ中央にある。家を建てる時に出た雑木を玉切ってマサカリで割った。それを積み重ねていたら母屋近くに移動するのが面倒になり、そのまま簡易の屋根を掛けた。非常に見目麗しくない薪小屋である。有り合わせの材料でひと冬持てばいいと建てたのである。それが積雪で危なくなっている。屋根の中ほどの合板がしなって、今にも倒壊しそうである。仕方が無いので、一番しなったところに薪を重ねてつっかえ棒の代わりにした。

この文章は失敗である。ソーローなんぞ持ちださなければ良かった。彼の時代から150年も経っているのに、私の生活と私のつくった薪小屋はどうだ。比較にならないではないか・・・・。

※ご幼少の頃から筆者は重機が大好きであった。

2012年1月16日月曜日

冬の日常 2

今朝フクロウを見た。それは散歩途中の電信柱にとまっていた。

ここは里からは車で十数分ほど山を登ったところにある。小さな尾根の頂上をならして別荘地にしたところである。里に下りるには南に行く道と北に行く道の両方が使えて便利である。さらに東京に行くにも中部横断道の入り口までは十数分である。一般道なら軽井沢経由の国道18号、もしくは国道254号、そして清里を経由して行く中央道もさほど不便ではない。高速バスなどは東京行きが一日に二十五、六往復あるし、新幹線なら一時間と少しで東京駅である。

我が居城を構えるにあっては、那須や郡山もその候補地であったが、休日の交通混雑や災害がおきた時のことを考えて佐久にしたのである。浅間山はA級の活火山であり、そのことを内外の友人たちに話すと大丈夫かと、一応の心配はしてくれるが、なにその噴煙のほとんどは東京方面にゆくのである。僻み(ひがみ)根性の旺盛な私としては、浅間山が本格的に噴火すれば軽井沢は危ないと思う。そもそも軽井沢は季節によって街中や幹線道路の混み具合は相当なものである。名はあっても実のある場所ではないのである。

父が鉱山技師であったため、私は父の赴任先の北海道の山の中で生まれた。13才の時に秋田に移り、青年期前半を雪国で過ごした。そのせいであろう、我が日本の居城は雪国であらねばならぬと決めていた。長く過ごした東京の夏にも辟易していたが東京からあまり離れるのはいやだった。それが故に佐久は妥協点としてはかなりいい条件だったのである。

佐久は雪が適度に降る。綺麗だな、と思える程度に降る。車はやはり四輪駆動車が必要だが、それは里からの帰り道は曲がりくねった雪の坂道を登らねばならないからである。除雪に往生することはない。それどころか雪の降った朝などは周囲の景色のみならず、そこここある動物の足跡が楽しみなのだ。

ここの普段の生活で見かける動物と言えば、タヌキ、キツネ、ネコ、コイ(佐久の名物^^)、イノシシ、シカ、カモシカ、カマイタチ(カマは苦し紛れです)、ハクビシン、テンなど。ウサギなども多いがマッコウクジラは見たことがない。このうちシカとタヌキは目撃頻度が極めて高い。

雪が降ると動物の足跡がはっきりと残る。私の家の庭は現在造園の真最中で、ようやく地形をならし終えたところである。今のところほぼ平らなので雪が降ると動物たちのお散歩経路になる。今年はウサギが多い。お隣のSさんは留守中に庭のスティックブロッコリーを根元から食われたと言って苦笑いをしておられた。

二年前の冬のことである。庭にどんなお客さんが来るのかを知りたくて一計を案じた。すなわち簡単な罠を仕掛けたのである。罠といってもその動物を害したり捕らえたりするためのものではない。長さ30cmほどの細めの木片に割れ目を入れてそこにイワシを挟み庭先に置く。イワシは簡単にはとれないようにきつめに挟む。この木片の端にテグスを結わえ、ガラス戸をわずかに開けて居間に引き入れる。室内のテグスの端には鈴を着ける。来客は夜半過ぎだろうとテレビを見ていたら、チリンと鈴が鳴ってテグスが引っ張られた。。意外にも早々のお出ましだった。お客様はテン様であった。



その後何回仕掛けてもその度にお客は現れた。上の写真は一昨年の5月に撮影したもので、ガラス戸越しにフラッシュを焚いて撮影したので、室内のパイプ椅子が写り込んでいる。

昨冬のある日、私の一番短い散歩順路を散策していて見たのがフクロウだった。後ろでバサッと音がしたので振り返ると20mほど先の林の木の枝にフクロウがネズミらしきものをくわえてとまっており、こちらを振り向いた。「みたな・・・」と言わんばかりに飛び去っていった。ホー、ホーという声は度々聞いていたが、まさか実物が姿を現すとは思わなかった。

今朝見たフクロウは、昨年のものと同じである可能性が高い。大きかった。羽を広げればおそらく1m超はあったかも知れない。最初トンビかとも思ったが、頭が大きくまるい。それは私の進行方向にいたので、私が近づくとまもなく森の中に飛び去った。また会おうね、と心のなかでつぶやいた。

2012年1月14日土曜日

冬の日常

我が家は浅間山の噴火口と蓼科山の頂上を結んだ線上の真ん中よりやや蓼科山側にある。どちらかと言うと蓼科山のある八ヶ岳山系である。標高は約1000m。里と言えば佐久の街であるが、そこでも標高は700mは下るまい。天気は軽井沢の浅間山系と佐久の里と八ヶ岳系に分けていいかも知れない。我が家は八ヶ岳系であり、この近辺で雨雪が降っていても、里ではまったく降っていないことがある。その逆は少ないようだ。

ここに我が居城のひとつをかまえる時、長野市の知人が言った。佐久は雪は少ないが冷えが厳しいと。雪についてはどうも真田さんのいた上田あたりが境で、それより南側、つまり小諸や佐久などはあまり降らない。台所の窓の外の格子に寒暖計をつけた。流しに立つたびにこの寒暖計で外の気温を見るのが癖になった。昨冬の私が見た限りの最低気温はマイナス19℃であった。ところが雪の量ときたらたかだか15cmくらいである。寒いから消えずにこれが根雪となる。風向きや日当たりで、ところによっては地面や路面がむき出しになっている。その程度である。

先日、スイスから友人Pが来日した。彼の相方が日本人女性Hで、俗に言う遠距離何とかである。私は双方を知っているので、吉祥寺のHの家に招かれた。車で行っても駐める場所がない。新幹線は上野や東京まで連れて行かれる。そこで初めて高速バスを使った。我が家から佐久総合病院までは十数分の距離で、ここからも池袋や新宿、立川行のバスがあるが、運行本数が多いのは佐久インターを出たところのバス停である。車もタダで駐められる。新幹線に比べると格安で時間も大きくは変わらない。JRバスも選択肢に入れれば一時間に2~3本の運行本数であろう。

その日の早朝、6時35分佐久インター南のバス停から乗り、池袋には定刻の9時20分に着いた。三人でスカイツリーに驚き、浅草寺でおみくじを引き(私は凶だった^^♪)、お台場などを見て回り、旧交を温めた。翌朝Pに納豆を食べさせた。意外ににすんなりと食べられてしまってがっかりした。P曰く、フランスにはもっと臭いチーズがあり、それと比べれば納豆などは何ほどのことは無しと。次は塩辛を食わそうと作戦を練る。
※ Pはスイス在住のフランス人

翌朝、みんなで深大寺に向かった。お正月の喧騒も終わりに近く、寺にとっての※かきいれ時は終わりに近く、それほどの混みようは無かった。佐久から来た私は東京の寒さを甘く見ており、薄着でふるえながらのお参りであったが、遅まきながら日本の正月をチョーヒサシブリに味わった気分であった。
※境内の其処此処に賽銭箱があり、おみくじ売場を合わせれば十ヶ所以上になるであろう。

私には東京に出た折には訪ねたい人がもう一人、と言うよりもう一家族おり、Hに車で送ってもらって彼らとは桜上水で別れた。

桜上水の知人Tさんもそこに3年前に家を建て、それは私とほぼ同時期である。度々家族連れで拙宅を訪れて下さっていたが、私の方は根っからの出不精で、長く失礼をしていた。相変わらずの歓待を受け、夕方に辞去したのだが、京王線が人身事故で不通になっていた。佐久に帰る新宿からの最終のバスには間に合わないこととなり、Tさんのご好意に甘えてこちらにも一泊ということになった。

東京二日目はよく晴れており、池袋から待つこともなくバスに乗り、私は再び車上の人となった。関東平野のはるか北に群馬や長野の雪を被った山並みが見える。たった2日であるが、懐かしい気がした。おかしなものである。

私の家は良く冷えていた。ここまで冷えると家全体が温まるまでに半日以上はゆうにかかる。外套を着たままで薪ストーブに火を入れる。庭は日中の暖かさが幸いしてかなり雪がなくなっている。昨年の春に植えた芝がところどころ見えはじめている。

久しぶりの外出のせいもあって疲れを感じ、その晩はかなり早く寝た。寝室も冷え切っていたので、久しぶりに湯たんぽを入れた。夜半トイレに起きたついでにストーブにくべる薪をとるために居間のガラス戸を開けて驚いた。外の薪に5cmほどの雪が積もっていた。暗闇の中で庭がまた新雪に覆われていた。朝早く散歩に出ようと思った。ウサギやタヌキ、テンなどの足跡を見ながら誰もいない早朝の散歩を思いながら私は再び暖かい布団に戻った。