2012年9月20日木曜日

コマドリの恩返し

昨年の初秋のことである。庭の四阿(あずまや)で、小鳥にやるつもりでパンくずやりんごを噛み砕いたものを窓枠に置いた。期せずして一羽のコマドリがやって来、私からわずか1洋尺(1m)ほどのところでそれを啄(ついば)み始めた。雀と同じくらいの大きさだが、やや華奢に思える。喉から胸にかけてきれいな鉄さび色をしている。スコットランドでのことなので、日本のコマドリとは少し違うかも知れない。そもそも私は日本のコマドリを観察する機会に恵まれていないから、日欧の種の違いを語る資格などないのだが、そんなことはどうでもいい。違うのは体色だけではないらしい。

翌日、同じ時間にまた件の四阿を訪れ、試しに細かくしたパンくずを指先に乗せてコマドリを待った。どこかで私を見張ってでもいたかのように、程なくそれは現れた。じっと辛抱強く手を動かさずにいると、近づいて来て指先のパンくずを啄んだ。野鳥が人の手からエサをとるなど、私の人生経験ではかつて無かったことである。矛盾ではあるけれども、期待しながらも期待していなかった、と言えば解っていただけるだろうか?次に私はエサを広げた手のひらの真ん中に置き、それを待った。やはり程なくコマドリはやってきた。逡巡しているようではある。しきりに首をかしげ、私の顔とエサを交互に見ている。が、首を伸ばすだけではエサに届かないことを知り、チョンと手のひらに乗り、パンくずを啄んだ。

コマドリはすぐに飛んでいってしまったが、私は大げさに言えば夢を見ているような気持ちだった。私は自分を今まで何の取り柄もない、鈍感な人間だと思っていたが、動物と話すことが出来るようだ。ついに私は他の人が持っていない、自分だけの能力を見つけたと思った。

手のひらに残るコマドリの、細くて冷たい足の感触を思い出しながら、私は部屋に帰った。急いで電子頭脳網でコマドリを検索し、その結果に少なからずがっかりした。欧州コマドリは警戒心がうすい、とある。人懐っこいと言うのは感情移入した表現であり、警戒心がうすいと言うのは客観的な表現である。どっちにしても一羽のコマドリが私の手のひらに乗って来たのは事実であり、私がその小さな生命を愛おしく思ったのも事実である。

あれからほぼ一年経った一昨日(2012年9月16日)、私は約束があって住まいであるこの建物の玄関で人を待っていた。ここは第二次大戦中に英国軍の病院として建てられたもので、その後西洋旅館に改装され、さらに今の財団に買い取られた。玄関といっても二面が硝子で囲われており、広くて明るい。これがあとで起こる事件の原因だと思われるのだが。

( 横線で消した部分はあとで修正するかも知れません。英国軍の病院として使われていたことは事実のようですが、建物自体がそれよりかなり古いらしいのです。私は知人からの話をもとにこの建物のことを書いたのですが、ここをよく知る読者の方からもっと古いと指摘を受けました。どっちが正しいか、面倒だからこのままにするか・・・)

私は玄関の内側から外を眺めていた。ここ2~3週間ですっかり秋になった。朝晩の空気はめっきり冷たくなり、そして湿り気を帯びてきた。欧州の秋冬は日本のそれとは大きく異なり、寒くてもジメジメしがちである。あと10日もすれば私はこの地を離れ、アイルランドで1週間ほど過ごしたあと日本に帰る予定である。ここに来たのが5月の終わり、それからの過ぎ来し方に想いを馳せていた。

ゴン、と音がした。その前に私は、野鳥のつがいが玄関の外でしきりに飛び戯れているのを見ており、それが故に音の何であるかをすぐに察した。ここの玄関は中も白く塗られており、頗る明るい。古めかしい窓縁などがなければ人間でもうっかり硝子に頭をぶつけそうである。Aと言うドイツ人女性が何も知らずに玄関の硝子の扉を開けて出ていった。続いて私も外の様子を見るために彼女に続いて外に出た。私は何かを感じ、足元を見ると小さな鳥がうずくまっている。動く気配がない。私がそばにしゃがんでも相変わらずじっとしたままである。私はそっと小鳥に左手をかぶせ、右手で掬うように持ち上げて目の高さに持ってき、それを観察した。二、三回冷たい脚をもぞもぞさせたがおとなしくしている。小さな目は開いているものの真っ黒で、表情がないように見えた。私が感情移入してみるからあろうか、脳震盪で朦朧としているようなのだ。それがコマドリであることは足元を見た時にわかっていた。胸の周りがきれいな鉄さびいろで、頭や胴体が灰色がかった鶯色である。

気の毒にもすぐ近くに別のコマドリがいて、気が触れたように飛び回っている。先ほどまで幸せの絶頂にいた相方であろう。思いもよらない展開に玄関脇の植え込みの間を心配げに行き来している。
私は口を開ければ理屈を言うので、他からは理屈っぽい人間と思われているかもしれないが、どうしてもののあわれとか、情というものを人一倍ちゃんと理解するのである。心のなかで元気な相方には出来るだけのことはしてあげるからと言い、目を回して私の手の中にいる方には怖がらないでもいいよ、安心しておいでと、つぶやくのである。

玄関を入ってすぐ左側にある扉を開けると広々とした休憩室である。窓際の長椅子に米国人のJ が座って新聞を読んでいる。自分自身を「切れる人間」と思っており、周囲の評判の芳しくない人物である。誰にでも断定的にモノをいい、譲らない。無視して横切ろうとすると、こういう時に限ってどうした、聞いてくる。あまり関わりたくない人間のひとりであるが、こちらは両手が塞がっている。手を緩めればコマドリが暴れだすかもしれない。仕方なく事情を話して小さなダンボール箱、新聞(毛布代わり)、それとジャムの瓶にお湯を入れたものの準備を依頼する。新聞とジャムの瓶は要らないと言われ、さっそくこのあんぽんたんにモノを頼んだことを後悔する。いくらあんぽんたんでもコマドリの体温を保たなければならないことは察しがついたと見え、彼は暖房用放熱器のそばに箱を置いた。私はコマドリをその箱に入れ軽く蓋をした。あんぽんたんは蓋が簡単に開かないように上に重し代わりの小さな本を乗せた。

私は後のことをあんぽんたんに頼み、再び玄関へ行った。受付の方から数人の男女が来た。その中の小柄な女性が私に寄ってきて自分を覚えているかと聞く。私が以前務めていた部署に体験的に働きに来ていた英国人女性だった。顔は覚えているものの、名前までは思い出せない。ここには様々な人々が様々な国々からやって来て研修を受ける。毎週のように人が入れ替わる。降参して名前を尋ねると、エリザベスだと言う。確かに覚えがある。お互い抱擁なんぞをして旧交を温める。そしてたった今起きた事件の事を話すと彼女は顔色を変え、そのコマドリはどこにいるかと聞く。エリザベスは神通力を送って小鳥の回復を助けると言う。彼女を休憩室に連れてゆき、ダンボール箱を示す。コマドリを驚かせたくないので、箱に触れないで施術(?)をして欲しい旨を依頼する。

エリザベスはダンボール箱に向かって床に膝を付き、両手をかざした。時々手の位置を変える。そこには小さな人だかりができつつあった。周囲は半ば呆気に囚われたのと好奇心で静まり返っている。それは数分で終わった。人々は解散し、散っていった。エリザベスも出かけ、私は約束した迎えが来ず、さらに20分ほどを玄関で過ごした。

一度コマドリの様子を見ようと休憩室に入ってゆくと、米国人あんぽんたんは、それを少し前に外に放ったと言う。とても元気に空に舞っていったと言う。私は素直にこのあんぽんたんとエリザベスの協力に感謝し、そしてコマドリの元気になったことを喜んだ。

次の日の明け方のことである。眠りが浅くなった頃、微かに高貴な香水のような香りが私の鼻孔をくすぐり、今まで聞いたこともないようなきれいな鳥の声を聞いた。そして人の気配に寝返りをうって驚いた。私の隣にはいつの間にか絶世の美女が添い寝をしていた。寝ぼけた頭で思った。「これは昨日窮地を救ってあげたコマドリに違いない」と。わたしはニッコリと微笑んで「You didn`t have to...(そんなことしなくてもいいのに)」と言った。終わり

(最後の5行は筆者の妄想でした。断るまでもないか・・・)




2012年9月17日月曜日

いかに生きるか その3

人が他の動物より複雑なのは(と思われるのは)、その心に動物的側面と人間的側面を持つからである。心とは既に人間的側面なのかもしれないが、他の動物に心があるかどうかは簡単にはわからない。単に言葉の定義で決められるかもしれないし、それはあくまで人間中心のモノの見方だと言われればそれももっともである。

犬猫がまるで人の話や情を理解し、あたかも彼らにも心があるように見えることが多々ある。仮にそれを心と呼んだとしても一向に差支えはない。犬がクンクンと鼻を鳴らしているのを見て多くの人はそれは飼い主がいなくて寂しいからだと判断する。ただ別の見方もできることを忘れてはいけない。犬はクンクンと鼻を鳴らすことによって安全とエサが手に入ることを学習したかも知れないのだ。猫は野生を多少抑えることで人間から楽々エサをもらえることを何千年かけて学習したかも知れない。このように考えると犬猫には心などはないと言えるかもしれない。あったとしても人のそれと比べれば取るに足らない単純なものと言えそうである。人の心はそれだけ複雑で測りがたいものなのだろう。

一匹のサルを観察するとする。このサルは何をするだろうか。エサを食う。寝る。遊ぶ。他のサルと喧嘩をする。交尾をする。子育てをする。ざっとこんなものであろう。遊び以外は全部自己保存と子孫繁栄のための行為である。何のことはない、人と大差はないようだ。が、これらの行為に於いて人は限りなくサルに近い人と、限りなく神様(?)に近い人のいることに気づく。行為の制御においてである。

繰り返すがサルと人間の遺伝子の違いはわずかに数パーセントである。肉体的違いは殆ど無いに等しい。やはり人を人たらしめているものは、その心(精神、頭脳と言った物理的側面以外の部分)にあると言える。

自己保存と子孫繁栄を人生の目標として生きる人は、これは何も人間である必要はないわけで、サルでも良かったのだ。人の「生」の難しいところは動物の身体をまとい、これを養い且つ繁栄させるに必要な能力の制御にある。簡単に言えば「人は動物本能をコントロールして生きねばならない」ということである。今の世界の状況を鑑みるに、地球温暖化、地域紛争、核問題、食料問題などあげればきりがないが、これらは元々はすべて人の動物本能の無制御から来るものだと言えるのではないだろうか。動物本能の無制御とはすなわち「自己中心」状態である。一人ひとりの自己中心はわずかでも地上には2012年現在で既に70億人を突破している。一人が一日にたった一個の空き缶を路上や野山に捨てただけで、一日に70億缶がこの地球上にゴミとして放置されるわけである。

私は太った人が嫌いである。(病気で太っているのは仕方がない)太っている人は人のぶんまで食べるから太るのである。動物本能を制御できないのは人として上等とは言えない。地上に飢えで死ぬ人がいる限り、食べ過ぎてはいけない。特に宗教を語る人は、太ってはいけない。人のぶんまで食べたいなら宗教を語ってはいけない。かつて偉大な宗教者で「デブ」はいたためしがない(見てきたようなこと言う)。太っているということはそれだけでその人が「制御」ができていないことを示している。太っているその人は自己中心であることを体で表現しているのであり、綺麗事を言っても説得力はないであろう。

この「食欲制御」の例えは取るに足らないことに聞こえるかもしれないが、70億集まればこれがもとで戦争が起きる。世界の陸と言わず海と言わず単なる食料供給の場として開拓し、一見人には役に立たない動植物を駆逐して結果的には自らの首を絞めるのである。多くの人はこの今の行いが明日の自分の首を絞めることをわかっていながらたらふく食べるのである。

利己心とはそれが小さなものでも、70億集まれば世界を破滅に追いやることを忘れてはならない。電気のことも、車のことも、水のことも、すべて70億倍にして考えてもらいたい。他でも書いたが( 確定された予言 http://michioscud.blogspot.co.uk/2012/05/blog-post.html )、私たちはこの地球がガタガタになったからといって他の惑星に引っ越すわけにはいかない。ここでしか生きられない。


「いかに生きるか 」編がこれで終わったと思うあなたはみっちーという人間を理解していない^^;
これでは人間は半端なダメな存在としか言わずに終わってしまう。そんなわけはない。では、人間のすばらしさとは・・・・乞うご期待 !


2012年9月12日水曜日

君はだれですか?

君はだれですか?そして私は・・・・誰でしょう?

新聞を読む。近頃領土問題が紙面を賑わしている。どこそこは歴史的にも国際法上もまったく疑う余地なく我が国の領土である、ともっともな説が掲載されている。相手国の新聞にも自国の領土であることを、これこれが根拠だと主張していることだろう。そしてほとんどの場合、国民はおらが新聞記事を鵜呑みにするであろう。

滑稽なのはお隣のK国やC国である。言論の自由がないのはわかりきっているのに、人々は新聞記事を鵜呑みのしてそれをそのまま自説にしてデモに出かける。政府にとってこれほど御しやすい国民はないであろう。政府はデモを見て民意を汲んだように見せかけ、相手国に強気に出る。

我が日本は・・・これも怪しい。言論報道の自由があると国民が思っているから、逆に危ない。すべてのマスコミは「ひも付き」である。誰でも、どこの国のものでも金さえ出せばこの「ひも」になれる。前述2カ国は言論報道統制がアカラサマだからこれに乗せらる者はあんぽんたんだけであるが、日本のような国のマスコミは危ない。あんぽんたんより賢い人々をも騙す。深く、永く、確実に騙す。

朝刊を読んだK国のあんぽんたんが街に出てたまたま日本人と出会う。けしからんと日本人に文句を言うであろう。その日本人がたまたまあんぽんたん以上の人であってもこの文句を聞いて苦々しく思うだろう。彼(彼女)もまた朝日本の新聞を読んで、それを素直に自説として大切に脳みそに保存してあるからである。

K国の人間も、C国の人間も、そして日本人もみな自説が正しいからこれを主張するのではない。いまだ人は動物的本能をもち、それを制御出来ない。その行いや説の善悪でことを判断するのではなく、自分を守る、自分の家族を守る、この本能に従うのである。その延長で自国のマスコミを支持しこれを自説とする。マスコミ(つまり政府やマスコミに付いているヒモ)は人が未だ持つ動物本能をを巧みに利用して国民を操る。

領土問題も宗教も同じである。原発問題も同じである。多くは同じ構造なのだ。先に好き嫌いや善悪があり、これに後から理屈をつける。あるいは人には先に脳みそに入ってきたものを尺度にして次に来たものを測るという習性がある。例えば原発問題。たまたま新聞で原発問題の記事を読み、それが反対論だったとすれば、読者は白紙の脳みそに反原発のごもっともな説を刷り込まれる。翌日原発賛成派の人にあって話しをすると意見が別れる。自分の意見を強固にするためにその人は反原発関連の記事や本を集めて読み始めるだろう。あとは自己保存の本能が働く。つまりコトの善悪、真贋関係なく自説を守ろうとする。

収集した情報を自分の尺度で吟味し、取捨選択をするのならまだいいが、そのまま身に付けてしまうのは問題であろう。これはあんぽんたんのすることである。あんぽんたんは新聞を鵜読みにし、人の話しを鵜聞きにし、電気紙芝居を鵜見にする(しまいには鵜が怒るわ)。これで自分はどこにある、何者だ、と言う疑問が沸かないのはもう危ない。

君と言うひとは新聞記事の切り貼りですか?学校の教科書の寄せ集めですか?親の複写ですか?
2チャンネルですか?


無理してでも暇をつくって自身の今持っている尺度がどこから来ているかを調べるのは必要なことである。個人用電子頭脳(PC)はいつの間にかウイルスに汚染されている。同じことが人の頭にも心にも起きている。この記事の題名「君は誰ですか?」の疑問に答えられる人はそう多くはいない。

私?・・・あんぽんたんデス。デモ上等ナあんぽんたんデアリマス。自覚アリマスカラ ^^;

2012年8月26日日曜日

いかに生きるか その2

人としていかに生きるかであるが、これを語る前に「人とは何か」を語らずして前に進むことはできない。

「人とは身体的には二足歩行をよくし、体毛極めて少なし。精神においては好奇心旺盛で、高度な言語操作能力を有し、これが故にその思考甚だ複雑なり」とでも表現するのだろうか。

話しが多少逸れる。ある人が、生まれてからずっと青い部屋で暮らして外に出ることがなかったら、その人は自分が青い部屋に住んでいることを知ることが出来るだろうか。その人は、赤い部屋に移り住んだ時に初めて「ああ、自分は今までずっと青い部屋に住んでいた」ことに気がつくのではないだろうか。世の中にコシヒカリしか無かったら、コシヒカリの美味しさはわからなかっただろうということである。同じように、世の中に動物が人間しかいなかったら「人間のとは何か」との問いに対する答えはなかっただろうし、この問い自体の存在が怪しくなる。

人とは何かを語るには人に近い、しかし人とは違う動物と比較して初めてそれが可能となる。

※人とカメムシを比較して人の特徴を語るには少し無理がある。人間は臭いおならをする。でも、カメムシも臭いおならをする。→ ボツ。臭いおならをするのは人間だけではない。スカンクだってする。嘘か真かイタチもするらしい。したがって臭いおならをする動物が人間である、と言う論は成り立たない。やはり人を語るにはサル、しかも人に最も近いサル、すなわちチンパンジーやゴリラなどの霊長類との比較が一番人の特徴を際立たせる。

では、霊長類に無くて人にあるものはなんだろう。あるいは双方にあるが、その差が甚だしいものとはなんだろう。先のニ行、「人とは身体的には二足歩行をよくし、体毛極めて少なし。精神においては好奇心旺盛で、高度な言語操作能力を有し、これが故にその思考甚だ複雑なり」がそれである。実は生物学的には人と霊長類の遺伝子の差異は数パーセントと言われる。二足歩行などはカラスでもする。

やはり人を一番特徴づけるものは言語能力、好奇心、愛ではないだろうか。ボノボ(ピグミーチンパンジー)などは教えれば人間のかなり複雑な言葉をも修得するらしい。声帯が人とは異なるために言葉のやり取りはキーボードを使うとのことであるが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%8E%E3%83%9C
これと言えども牛馬よりは口達者かも知れないが、人と比べればその差は歴然としている。言語能力はやはり人の大きな特徴である。人は言語を習得して以来、他の動物との差が大きくなったのは自然である。人の単純狩猟生活から複雑な農耕社会を築き上げるに至るには言語による意志や情報の疎通伝達あるいは記録が必要であったことは容易に想像がつく。


好奇心。木から落ちてきたりんごならサルはさっさと食べてしまうに違いないが、人ははたと考えこんでしまう。サルにも好奇心はあるだろうが、人のそれとは雲泥の差である。人は腹を満たす、子孫を増やす、これ以外のことにも大いに興味をもつ存在なのである。ケプラー22bと言う星は半径は地球の約2.4倍で、生命にとって必要不可欠な液体の水が存在する可能性があるらしい。しかし、この星は地球から約600光年(光の速度で飛んでも600年かかる距離)の彼方にある。10年経っても1000年経っても何の役にもたたない話しである。ボノボと言えどもこんなことには興味を示さない(と思う)。

愛。こんな抽象概念が人の特徴とは・・・・。しかしながら現実に人の愛は他の動物を圧倒しているといっていいだろう。動物に愛があると仮定しても、その範囲は自分の家族より外にはでない。せいぜい自分の属する集団までである。それは自己保存と自分の属する種の保存の域を出ない。人は人を愛し、犬猫を飼い、草木を愛す。たとえその愛し方に問題があったとしても、何の見返りもなく他の生物、無生物を愛するのは動物界広しと言えども人のみである。これはボノボを引き合いに出すまでもない。

芸術。歌い、踊り、演じ、作り、書き、描き、吹きまくり、そして掻き鳴らす。これらも人を人たらしめる大きな特徴であろう。

ここまで人とは何かについて書いてきたが、人としての一番の基本になるのが「人とは人から生まれてきた」ことではないかということに気がついた。これだけで人としての条件は満たされなければならない。大きかろうが小さかろうが、黒かろうが白かろうが、健常者であろうが身障者であろうが、生まれたばかりであろうが死ぬ直前であろうがそのようなことは関係ない。

いかに生きるか その3に続く

2012年7月28日土曜日

いかに生きるか その1

ちょっと前に友人から大陸の方では(欧州大陸のことです)、夏らしい天気になったという便りがあった。それなのにここスコットランドでは冬ほどではないにしろ朝晩の暖房は欠かせない。外出もいつ寒くなるかわからないし、雨も頻繁に降るので長袖や雨具は必需品である。こんな気候でも赤や黄色、そして紫や白の花々が咲き乱れ、りんごの実は確実に大きくなってゆく。

友人から芝刈り機が壊れたので見て欲しいと頼まれ、片道40分ほどをかけてのんびりと歩いていった。広大な牧草地と森があり、その中に農家が点在する。道路脇には新しい家がポツポツと建っている。珍しく晴れて、お互いを引き立てるように青い空とそれを背景に白い雲がところどころに浮かんでいる。

門柱があってすぐその内側にマッチ箱ほどの家がある。きれいに建て替えられてはいるが、これはこの辺りの大地主の門番小屋だったものだろう。奥に続く道は木々がトンネルのように覆いかぶさり、さらにゆるく曲がっていて表から母屋は見渡せないようになっている。機会あってそのひとつに滞在したことがある。大地主の館であったであろう古い建物にはいくつ寝室があるかわからないほどで、屋根裏は物置になっており、日本の骨董屋が見たらそわそわと手もみをしそうな古い家具や道具類が埃をかぶったまま眠りについていた。食堂には堂々としたテーブルや椅子が置いてあり、庭を見渡せる窓には今でさえ高価であろう曲面硝子がはまっていて、よく見ると表面が歪んでいたりわずかな気泡があったりで相当古いものであることが想像されるのだった。外には使用人達が寝起きしていたと思われる粗末なレンガ造りの建物があり、これはそのまま納屋に続いていた。

道は続く。歩道は途中でなくなって、やむを得ず車道を歩くのだが、こちらでは集落をすぎると車はスピード無制限が普通であり、危ないことこの上なし。車同士がすれ違うときなど私がいるせいで右を走っている車は左の車が行き過ぎるのを待たねばならない。気の毒なので道から外れて草むらの中に立ち、車をやり過ごすと行儀がいい、大半はしっかり手を上げてありがとうの合図を送ってくれる。

この様にみんなちょっとだけ譲り合って生きれば世の中は過ごしやすくなりだろうに、と思う。現実は逆で、多くの人が少しでも自分の都合の良いように物事を持って行きたがる。その「少し」が人口分だけ重なって地球を住みづらくする。他の生き物にも迷惑をかける。結局は自分にそれがふりかかってくる。

「いかに生きるか」を学ぶことは学校で算数や国語を勉強することよりもっと大事なことなのに・・・。

「いかに生きるか」の前には省略されている言葉がある。すなわち生き物として、動物として、人間として、日本人として、男(女)として、大人として、みっちーとして「いかに生きるか」などである。これらひとつひとつを論じるのは大事なことなのだが、中でも「人間としていかに生きるべきか」は基本であり大層な問題のはずだ。ただ本能(欲)にしたがって生きるのであればそれは別にサルでも構わないはずだ。しかし、サルはサルらしく、人間は人間らしく生きるのがスジというもので、そのためには「人間とは」を明らかにしなければならない。

世の中には「欲」にしたがって生きる人が多い。私たちは「欲」無くしてはこの体を永らえることは叶わない。しかしながら、制御のない「欲」にしたがって生きるのであれば前述のとおりサルでも構わないはずである。サルは「欲」に従って生きても他の動植物に迷惑をかけることはない。人間は「欲」を制御しながらでなければ生きてはいけないのである。人間が関わって絶滅に追いやられた種は多い。人間はその無制御な「欲」によって自らをも絶滅の危機に追いやりつつある。



この記事は書きかけのまま放置されていたもので、まだ完成していませんが苦し紛れに発表いたしますです、ハイ。写真はスコットランドの田園風景

2012年7月5日木曜日

語りえぬもの、とは。(読まないほうがいいです。自信アリます ^^; )

ある偉い哲学者が、「語りえぬものについては沈黙をしなければならない」と言ったそうな。数千年にも及ぶ人類の哲学の積み重ねを、ある意味すべてぶっ壊してしまいそうな言葉なのである。

かつて私は、その哲学者が唯一残した著作を齧ろうと試みたが、伊賀のせんべいを上回る難物で、数行で放棄せざるを得なかった。その難(かた)さに対抗するには、私の頭はあまりにも軟弱で、まったく歯がたたなかった。なべて哲学たるもの実用的であらねばならぬ、というのが私の持論である。彼の残した思索のどこが実用的なのかは未だわからない。が、読書百遍意自ずから通ず、である。ちと面白い。

若かりし頃、つまり数年前のことだが(・・・・?)、宗教を研究した。わかったことは宗教は跳躍ができ、哲学はそれが出来ないということだ。宗教は「こういう神様がいるんだ」から始まる。何故かは問われない。適当に辻褄を合わせて、また跳躍をするのだ。跳躍とはすなわち言語の不完全さという隙を突き、わからない事柄を曖昧にすることである。哲学に於いては「曖昧」は哄笑の対象となる。だから跳躍がしづらい。思い切った展開はできにくいのである。英語に「ゆっくりでも確実に」と言う言い回しがある。哲学がこれであるとすれば、宗教は「不確実ではあるが早い」と言える。哲学は神様という像を彫刻する最良のノミなのだが、宗教に入っている人は何故かこれを使わない。

本当の神様とか、本当のなになになどと言う話になってくるとかなり怪しくなる。真理を知っている、と言う人が現れたら是非その人の話を聞いてみたい。もし神様が目の前に現れて、それを本物かどうかを判断するのに、予め本物の神様を知っていなければならない筈である。でも、「予め」にせよ、本物の神様をどうやって我々は知り得るのだろうか?

世の中には「本当の神様」でなくとも「本当のなになに」が極めて多い。「本物のカレーってのはなぁ」
、「真実の愛というものは」、「本当の教育とは」などとやるのである。

人類が言葉を使用するようになって久しい。しかし、未だそれを「操れている」のかどうかは甚だ疑わしい。あたかも核融合や核分裂の法則を発見し、操る技術を確立する前にその使用を開始したかのようで、危なっかしいことこの上ない。

人は言葉で物を考える、と思っている人が多いようだが、それは違う。考えた内容を誰かに伝えるために言葉に変換して相手に渡し、相手は受け取った言葉を経験に照らし合わせて考えに変換し、それを理解するのだろう。当然の結果として、発信する側と受信する側との間には齟齬(そご)が生じる。

言葉は他者との通信手段、あるいは情報思考の整理記録手段である。が、人は純粋にひとりで暮らすならば言葉はいらなかったかもしれない。この発明によって人類は他者の持っている情報を簡単に自分のものとすることができるようになった。同じ時間を使ってひとりであることを経験し、それを知識として蓄えた場合と、他人からも言語を介して情報を得て知識を蓄えた場合、前者と後者の違いは桁違いとなる。これによって人類は他の動物との差別化を加速させた。

私は言語哲学はおろか、ただの哲学のいろはさえ勉強したことがない。考え方やその内容はすべてでたらめかも知れない。それでも口と声帯があるので話す、のである。もしかしたら発信側と受信側の齟齬の前に、自分の中で脳みそと口の間に齟齬があるかも知れない。齟齬は小さければ「必要なもの」で、大きければ「問題の元」となる。車の舵輪(ステアリングホイール、ハンドルのこと)と同じなのだ。語りえないこととはもしかしたら言葉の齟齬(舵輪の遊び)が大きいいことを言うのだろうか。

言葉には文法という決まりごとがあり、これに則って話せば内容の如何に拘わらず文法的には正しいことになる。これに人は騙されるのではないだろうか。頭で考えてこれを言葉にして整理する、これが私たちが日常で無意識のうちにしていることである。危ないのは文法上正しく発せられた言葉を自動的に内容をも正しいとしてしまう態度である。

りんごと柿ではどちらが美味しいか?

この言葉に文法上の過ちはない。うっかりすると成り立ちそうに聞こえるこの文章は、実は成り立たない。わざと単純な例をあげたが、私たちの日常の言語生活には常にこの危険が隣にある。これが独り言のうちはまだいいが、相手のいる「対話」になるとコトはさらに面倒になる。使用する単語のひとつひとつの定義が人によって少しづつ異なるからである。

もしかして、従来の哲学者たちが前述の哲学者に否定されたのは、上記の理由によるものなのだろうか。「善」、「美」、「真」など諸々の事柄については、本当は語りえないものなのではないだろうか・・・。いや、違うと思う。私などに彼の哲学がわかるはずはない。そんな単純な話しではないだろう。しかし、一寸の虫にも五分の魂である。私が、かの言葉を私の理解力以上に理解するのは無理であるが、どう理解するかは私の自由であるはずだ。

考える事、語ることを恐れてはならない。しかし、私たちは言葉については極力慎重であらねばならない。それが独り言であろうと、対話であろうと同じ事である。人は自動的に自分に都合のいいようにものを考え、そしてこれを言葉に変える。これが危ない。

「語りえぬもの」と言われる事柄についても果敢にたち向かってゆくことは必要だと思う。語りえぬものであるかどうかを測る尺度も正しいかどうかはわからないのだから。

人生はかけがいのないものだろう。人はその肉体面より精神面において大きく他の動物と違う。
※人類と類人猿の遺伝子は98%同じだと言われる。(ついでながら天才とそうでない人の遺伝子的差は殆ど無いそうな)
人としてより良き生を送るために私たちは理性的であることが求められる。さもなくば私たちは「純粋に語りえないもの」についても語れるものと思って語っているかも知れない。語り得るものか、否かを判断するのは理性の働きである。騙すまいぞ、騙されまいぞ。

うーむ、さっぱりわからん。(これは後ほど書き直します。自分で読み返してみてもよくわからない。頭の中では出来上がっている体系が言葉にするとうまく出てこない。これも人間が言葉でものを考えているのではないことのひとつの証左である。なんだか今までで一番長い文章になってしまった)

2012年7月4日水曜日

多事多論

本来なら「多事争論」が正しいのだろうが、世の中には色々な人がいて色々なことを言う。殆どの場合は自分の都合の良い価値観を身に着けてそれに補強増強してものを言う。最初に間違った土台を据えてしまったらその上に建つものはどんなに立派に見えても危ない。しかし、一回建ててしまったら最後、それに目がいってしまって土台を見なおそうとはしない。まして土台から作り直そうとする人は稀である。

色々な論があってこれを戦わせるのはいいが、同じ土俵で戦っているのかどうかさえ気付かずにお互い口角泡を飛ばして頑張る。これではまるで日本の国会の討論である。

私たちには土俵を見直す勇気が必要だ。国家間の争い、宗教間の争い、文化間の争い、政治家同士の争い等々。先日オランダ人のEと東南アジアにおける日本の位置などについて話した。難しい話しをしたわけではない。世間ばなしだったのだが、太平洋戦争の事が尾を引いて日本は人気がないだろうと言われた。彼女はまだ二十代中頃で、背の高い金髪碧眼の美人である。性格もいい。

オランダはインドネシアを350年ほど「お世話していた」らしい。現地の人がお金に魂を奪われて不幸にならないように、現地の富はすべてオランダ人のものにしていたらしいのである。親切な事である。当時欧米ではこの親切が流行で、英国もスペインもフランスもアメリカも盛んにこの親切をアジア、アフリカ、南米各国に対して行なっていた。アジアでこの親切を受けなかった国はタイと日本だけだったらしい。

Eは東南アジアを旅行してきたことがあり、かつて彼女の国が親切にしてあげていた国を訪れたら、日本の評判が悪かったと言う。現地に記念碑などがあり、日本にひどい目にあったと書かれてあるらしい。現に日本の若い旅行者などもそれを認めているらしい。

日本の戦後教育は間違いなく戦勝国による洗脳教育であったはずで、これは極東軍事裁判を見ればこれから推察することは難しいことではない。これが三世代目に至って「日本は悪いことをした」ことが定着した。洗脳された人に聞いてみるがいい。洗脳教育を受けた人は「私は絶対に洗脳教育を受けていない」と言うであろう。

日本は悪いことをした。これは事実であろう。防衛のためとはいえ他国を侵略した。しかしながら他国を侵略したからといってこれまで謝った国があっただろうか?英国は史上もっとも多くの国を侵略した国である。フランス、スペイン、アメリカ、ドイツ、ポルトガル等々、散々搾取をした挙句、これを手放さざるを得なくなった。そして出てゆく時に、搾取した相手に謝った国が一国でもあっただろうか。日本の場合は搾取どころかほとんどが持ち出しであった。挙句欧米に手ひどく物理的かつ心理的な私刑を受けたのである。それに気が付かず、甘んじてこれを受けている。

アイルランドはジャガイモ飢饉で気骨のある人はほとんど海外に出てしまった。相対的に国内には・・・・。日本は太平洋戦争で気骨のある人間は全部とまでは言わないがほとんどが死んでしまった。結果が今の日本である。
Eもお国では政府の洗脳を受けたらしい。インドネシア統治時代オランダは善政を敷き、日本統治になってからは酷かったと教わったらしいのだ。太平洋戦争終了後もかなりの数の日本兵がインドネシアに残留してオランダとの独立戦争で戦い、彼らをアジアから追い出したのだから恨みは続いているのだろう。今大戦を機としてベトナム、シナ(china)、朝鮮、フィリピン、マレーシア、インドネシア、ビルマ、その他全部の国が独立を果たした。(チベットは再び遅れてきた覇権国家シナに侵略されたが)
※シナ・・・英語ではChina(チャイナ)、スエーデン語だとKina(キーナ、発音自信なし)など。日本も国際標準にすべし。東中国海とは言わんでしょ?インド中国半島とは言わないでしょ?東シナ海、インドシナ半島でしょうが。かつてあの国の属国であった国々ならいいでしょうが、日本はシナの属国であったことは一度もないです。だったらあの国を中国と呼ぶのはおかしいでしょ?だいたい今時自国を大ナントカ帝国等と言ってるのは英国(大英帝国と言ってる)と韓国(大韓民国と言ってる)と中国(世界の中心だと言っている)くらいなものです。
日本が失ったものはあまりにも大きかった。それでもこれを契機としてアジア各国が独立したのは日本のおかげである。でなければどこの国が自力で独立できたであろうか?

Eとは、結局自分たちはどこで時の為政者たちに洗脳を受けているかわからないね、ということで話しがついた。私も結局は本を読んだり、電子頭脳網での知識でものを言っているにすぎないわけで、これでは竹島は韓国の領土だと言っている人たちと変わりはないかもしれない。恐ろしいことである。

(なんでスットコランドでこんなこと書いてるんだろう・・・Snigel がダブリンで車を盗まれたというのに。禿げ増しの電話でもかけようか・・・いや叱られるからよそう)