2012年8月26日日曜日

いかに生きるか その2

人としていかに生きるかであるが、これを語る前に「人とは何か」を語らずして前に進むことはできない。

「人とは身体的には二足歩行をよくし、体毛極めて少なし。精神においては好奇心旺盛で、高度な言語操作能力を有し、これが故にその思考甚だ複雑なり」とでも表現するのだろうか。

話しが多少逸れる。ある人が、生まれてからずっと青い部屋で暮らして外に出ることがなかったら、その人は自分が青い部屋に住んでいることを知ることが出来るだろうか。その人は、赤い部屋に移り住んだ時に初めて「ああ、自分は今までずっと青い部屋に住んでいた」ことに気がつくのではないだろうか。世の中にコシヒカリしか無かったら、コシヒカリの美味しさはわからなかっただろうということである。同じように、世の中に動物が人間しかいなかったら「人間のとは何か」との問いに対する答えはなかっただろうし、この問い自体の存在が怪しくなる。

人とは何かを語るには人に近い、しかし人とは違う動物と比較して初めてそれが可能となる。

※人とカメムシを比較して人の特徴を語るには少し無理がある。人間は臭いおならをする。でも、カメムシも臭いおならをする。→ ボツ。臭いおならをするのは人間だけではない。スカンクだってする。嘘か真かイタチもするらしい。したがって臭いおならをする動物が人間である、と言う論は成り立たない。やはり人を語るにはサル、しかも人に最も近いサル、すなわちチンパンジーやゴリラなどの霊長類との比較が一番人の特徴を際立たせる。

では、霊長類に無くて人にあるものはなんだろう。あるいは双方にあるが、その差が甚だしいものとはなんだろう。先のニ行、「人とは身体的には二足歩行をよくし、体毛極めて少なし。精神においては好奇心旺盛で、高度な言語操作能力を有し、これが故にその思考甚だ複雑なり」がそれである。実は生物学的には人と霊長類の遺伝子の差異は数パーセントと言われる。二足歩行などはカラスでもする。

やはり人を一番特徴づけるものは言語能力、好奇心、愛ではないだろうか。ボノボ(ピグミーチンパンジー)などは教えれば人間のかなり複雑な言葉をも修得するらしい。声帯が人とは異なるために言葉のやり取りはキーボードを使うとのことであるが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%8E%E3%83%9C
これと言えども牛馬よりは口達者かも知れないが、人と比べればその差は歴然としている。言語能力はやはり人の大きな特徴である。人は言語を習得して以来、他の動物との差が大きくなったのは自然である。人の単純狩猟生活から複雑な農耕社会を築き上げるに至るには言語による意志や情報の疎通伝達あるいは記録が必要であったことは容易に想像がつく。


好奇心。木から落ちてきたりんごならサルはさっさと食べてしまうに違いないが、人ははたと考えこんでしまう。サルにも好奇心はあるだろうが、人のそれとは雲泥の差である。人は腹を満たす、子孫を増やす、これ以外のことにも大いに興味をもつ存在なのである。ケプラー22bと言う星は半径は地球の約2.4倍で、生命にとって必要不可欠な液体の水が存在する可能性があるらしい。しかし、この星は地球から約600光年(光の速度で飛んでも600年かかる距離)の彼方にある。10年経っても1000年経っても何の役にもたたない話しである。ボノボと言えどもこんなことには興味を示さない(と思う)。

愛。こんな抽象概念が人の特徴とは・・・・。しかしながら現実に人の愛は他の動物を圧倒しているといっていいだろう。動物に愛があると仮定しても、その範囲は自分の家族より外にはでない。せいぜい自分の属する集団までである。それは自己保存と自分の属する種の保存の域を出ない。人は人を愛し、犬猫を飼い、草木を愛す。たとえその愛し方に問題があったとしても、何の見返りもなく他の生物、無生物を愛するのは動物界広しと言えども人のみである。これはボノボを引き合いに出すまでもない。

芸術。歌い、踊り、演じ、作り、書き、描き、吹きまくり、そして掻き鳴らす。これらも人を人たらしめる大きな特徴であろう。

ここまで人とは何かについて書いてきたが、人としての一番の基本になるのが「人とは人から生まれてきた」ことではないかということに気がついた。これだけで人としての条件は満たされなければならない。大きかろうが小さかろうが、黒かろうが白かろうが、健常者であろうが身障者であろうが、生まれたばかりであろうが死ぬ直前であろうがそのようなことは関係ない。

いかに生きるか その3に続く