2012年1月24日火曜日

冬の日常 3

雪国の山中に暮らすことについて思い出すのはソーロー(Henry David Thoreau)の「森の生活(原題Walden:or, the Life in the Wood)」という本である。随分前に読んだ本で、ほとんど何も覚えていないが、著者がアメリカのどこだかの森の中に丸太小屋を建てて2年以上を一人で暮らした話しであった。150年位前の話しである。ペリーが浦賀に来て野蛮な砲艦外交を始めた頃、ソーローは山中にひとり暮らして自らの思想を練っていた。

本当は私もソーローと同じように北海道の山中に広大な土地を買い、そこに家を建てて住みたかった。が、自らの分を考え、妥協したのが今の生活である。否、妥協というにはあまりにも軟弱な選択ではあった。しかし、これくらいが自分の限界であることは知っていたつもりである。

人の生まれて世にある間は、自分を問い、人生を問うことが一大事業である。私には何もない。この年になっても確固たる独自の思想もないし、動物のように生きる体力も知恵もない。ソーローのように社会と隔絶しては生きていけないのは明らかである。

ともあれ、自らの動物身体は養わねばならず、今日もひとり飯を炊き、薪を運ぶのである。

先日(2012年1月19日から数日の間)、日本の多くの地域で大雪が降った。当然長野にも降った。私は冬期間は高速道路の除雪の仕事をしており、家にいなかった。珍しく重機での除雪を命じられて、その大きな玩具に夢中になっていた。しかし、心配事があった。私は昨秋、母屋に接してガレージを建てたのだが、依頼業者が、強度計算などは知らない、素人にうぶ毛がはえた程度の人たちであった。私は臍を噛んだがもう遅い。屋根の強度に大雪は極めて剣呑だったのである。

結果から言うと何も起こらなかった。家のガレージは無事だった。除雪詰所からの帰り道、私は車を運転しながら、頭の中で雪の重みで潰れた我が家のガレージを想像していた。悪いことが起こりそうな時には悪い想像をする。これは私の魔除けのおまじなであると同時に、それが実際におきた時の衝撃をやわらげるための予行演習みたいなものなのである。家を出る時に見たそのままの形で、ガレージはあった。私が大きな玩具で仕事とも遊びともつかないことをしていた軽井沢の辺りは積雪が30cmは優にあった。その時の状況で、軽井沢の天気と私の家が属する八ヶ岳山系の天気が同じとは限らない。近くはあっても双方別の山系に属するからである。さてこれが、吉と出るか凶と出るかであった。

帰路国道は既にきれいに除雪されており、路面は乾いていた。しかし、主要道をはずれて、我が御用邸に近づくにつれて雪は深くなり、除雪の跡は見られるものの、道路には雪が残って圧雪状態になっていた。降雪直後とはきれいなものである。世界が生まれ変わったように見える。木々は雪を纏ってあたかも彼らだけで華やかな宴を開いているようにも見える。

ガレージはあった。何と、屋根の雪が滑って全部下に落ちていた。ほっとするが、この辺りも軽井沢とほぼ同じ積雪量だった。30cmはある。道路からガレージまでは10m程の緩い登りである。私のダイハツランドローバーは入れるだろうか。道路と我が領地の境界には除雪でできた40cmほどの堤ができている。生来怠け者の私は除雪なしで勢いをつけて前線突破を試みる。が、どうにもならない。あきらめて必要な分だけ除雪をする。

3日の留守で、家の中は冷え切っていた。すぐに薪ストーブに火を入れる。ガンガン燃やしてもその熱はいたずらに煙突から逃げてゆくだけなので、温度計を見ながら適度に空気穴の調整をする。家中が元の暖かさに戻るには半日はかかる。明るいうちに薪小屋から薪を持って来て居間のガラス戸のすぐ外に置いておく。夜は結構冷え込みがきついので、薪を取りに外に出るのは控えたい。

薪小屋は庭のほぼ中央にある。家を建てる時に出た雑木を玉切ってマサカリで割った。それを積み重ねていたら母屋近くに移動するのが面倒になり、そのまま簡易の屋根を掛けた。非常に見目麗しくない薪小屋である。有り合わせの材料でひと冬持てばいいと建てたのである。それが積雪で危なくなっている。屋根の中ほどの合板がしなって、今にも倒壊しそうである。仕方が無いので、一番しなったところに薪を重ねてつっかえ棒の代わりにした。

この文章は失敗である。ソーローなんぞ持ちださなければ良かった。彼の時代から150年も経っているのに、私の生活と私のつくった薪小屋はどうだ。比較にならないではないか・・・・。

※ご幼少の頃から筆者は重機が大好きであった。

2012年1月16日月曜日

冬の日常 2

今朝フクロウを見た。それは散歩途中の電信柱にとまっていた。

ここは里からは車で十数分ほど山を登ったところにある。小さな尾根の頂上をならして別荘地にしたところである。里に下りるには南に行く道と北に行く道の両方が使えて便利である。さらに東京に行くにも中部横断道の入り口までは十数分である。一般道なら軽井沢経由の国道18号、もしくは国道254号、そして清里を経由して行く中央道もさほど不便ではない。高速バスなどは東京行きが一日に二十五、六往復あるし、新幹線なら一時間と少しで東京駅である。

我が居城を構えるにあっては、那須や郡山もその候補地であったが、休日の交通混雑や災害がおきた時のことを考えて佐久にしたのである。浅間山はA級の活火山であり、そのことを内外の友人たちに話すと大丈夫かと、一応の心配はしてくれるが、なにその噴煙のほとんどは東京方面にゆくのである。僻み(ひがみ)根性の旺盛な私としては、浅間山が本格的に噴火すれば軽井沢は危ないと思う。そもそも軽井沢は季節によって街中や幹線道路の混み具合は相当なものである。名はあっても実のある場所ではないのである。

父が鉱山技師であったため、私は父の赴任先の北海道の山の中で生まれた。13才の時に秋田に移り、青年期前半を雪国で過ごした。そのせいであろう、我が日本の居城は雪国であらねばならぬと決めていた。長く過ごした東京の夏にも辟易していたが東京からあまり離れるのはいやだった。それが故に佐久は妥協点としてはかなりいい条件だったのである。

佐久は雪が適度に降る。綺麗だな、と思える程度に降る。車はやはり四輪駆動車が必要だが、それは里からの帰り道は曲がりくねった雪の坂道を登らねばならないからである。除雪に往生することはない。それどころか雪の降った朝などは周囲の景色のみならず、そこここある動物の足跡が楽しみなのだ。

ここの普段の生活で見かける動物と言えば、タヌキ、キツネ、ネコ、コイ(佐久の名物^^)、イノシシ、シカ、カモシカ、カマイタチ(カマは苦し紛れです)、ハクビシン、テンなど。ウサギなども多いがマッコウクジラは見たことがない。このうちシカとタヌキは目撃頻度が極めて高い。

雪が降ると動物の足跡がはっきりと残る。私の家の庭は現在造園の真最中で、ようやく地形をならし終えたところである。今のところほぼ平らなので雪が降ると動物たちのお散歩経路になる。今年はウサギが多い。お隣のSさんは留守中に庭のスティックブロッコリーを根元から食われたと言って苦笑いをしておられた。

二年前の冬のことである。庭にどんなお客さんが来るのかを知りたくて一計を案じた。すなわち簡単な罠を仕掛けたのである。罠といってもその動物を害したり捕らえたりするためのものではない。長さ30cmほどの細めの木片に割れ目を入れてそこにイワシを挟み庭先に置く。イワシは簡単にはとれないようにきつめに挟む。この木片の端にテグスを結わえ、ガラス戸をわずかに開けて居間に引き入れる。室内のテグスの端には鈴を着ける。来客は夜半過ぎだろうとテレビを見ていたら、チリンと鈴が鳴ってテグスが引っ張られた。。意外にも早々のお出ましだった。お客様はテン様であった。



その後何回仕掛けてもその度にお客は現れた。上の写真は一昨年の5月に撮影したもので、ガラス戸越しにフラッシュを焚いて撮影したので、室内のパイプ椅子が写り込んでいる。

昨冬のある日、私の一番短い散歩順路を散策していて見たのがフクロウだった。後ろでバサッと音がしたので振り返ると20mほど先の林の木の枝にフクロウがネズミらしきものをくわえてとまっており、こちらを振り向いた。「みたな・・・」と言わんばかりに飛び去っていった。ホー、ホーという声は度々聞いていたが、まさか実物が姿を現すとは思わなかった。

今朝見たフクロウは、昨年のものと同じである可能性が高い。大きかった。羽を広げればおそらく1m超はあったかも知れない。最初トンビかとも思ったが、頭が大きくまるい。それは私の進行方向にいたので、私が近づくとまもなく森の中に飛び去った。また会おうね、と心のなかでつぶやいた。

2012年1月14日土曜日

冬の日常

我が家は浅間山の噴火口と蓼科山の頂上を結んだ線上の真ん中よりやや蓼科山側にある。どちらかと言うと蓼科山のある八ヶ岳山系である。標高は約1000m。里と言えば佐久の街であるが、そこでも標高は700mは下るまい。天気は軽井沢の浅間山系と佐久の里と八ヶ岳系に分けていいかも知れない。我が家は八ヶ岳系であり、この近辺で雨雪が降っていても、里ではまったく降っていないことがある。その逆は少ないようだ。

ここに我が居城のひとつをかまえる時、長野市の知人が言った。佐久は雪は少ないが冷えが厳しいと。雪についてはどうも真田さんのいた上田あたりが境で、それより南側、つまり小諸や佐久などはあまり降らない。台所の窓の外の格子に寒暖計をつけた。流しに立つたびにこの寒暖計で外の気温を見るのが癖になった。昨冬の私が見た限りの最低気温はマイナス19℃であった。ところが雪の量ときたらたかだか15cmくらいである。寒いから消えずにこれが根雪となる。風向きや日当たりで、ところによっては地面や路面がむき出しになっている。その程度である。

先日、スイスから友人Pが来日した。彼の相方が日本人女性Hで、俗に言う遠距離何とかである。私は双方を知っているので、吉祥寺のHの家に招かれた。車で行っても駐める場所がない。新幹線は上野や東京まで連れて行かれる。そこで初めて高速バスを使った。我が家から佐久総合病院までは十数分の距離で、ここからも池袋や新宿、立川行のバスがあるが、運行本数が多いのは佐久インターを出たところのバス停である。車もタダで駐められる。新幹線に比べると格安で時間も大きくは変わらない。JRバスも選択肢に入れれば一時間に2~3本の運行本数であろう。

その日の早朝、6時35分佐久インター南のバス停から乗り、池袋には定刻の9時20分に着いた。三人でスカイツリーに驚き、浅草寺でおみくじを引き(私は凶だった^^♪)、お台場などを見て回り、旧交を温めた。翌朝Pに納豆を食べさせた。意外ににすんなりと食べられてしまってがっかりした。P曰く、フランスにはもっと臭いチーズがあり、それと比べれば納豆などは何ほどのことは無しと。次は塩辛を食わそうと作戦を練る。
※ Pはスイス在住のフランス人

翌朝、みんなで深大寺に向かった。お正月の喧騒も終わりに近く、寺にとっての※かきいれ時は終わりに近く、それほどの混みようは無かった。佐久から来た私は東京の寒さを甘く見ており、薄着でふるえながらのお参りであったが、遅まきながら日本の正月をチョーヒサシブリに味わった気分であった。
※境内の其処此処に賽銭箱があり、おみくじ売場を合わせれば十ヶ所以上になるであろう。

私には東京に出た折には訪ねたい人がもう一人、と言うよりもう一家族おり、Hに車で送ってもらって彼らとは桜上水で別れた。

桜上水の知人Tさんもそこに3年前に家を建て、それは私とほぼ同時期である。度々家族連れで拙宅を訪れて下さっていたが、私の方は根っからの出不精で、長く失礼をしていた。相変わらずの歓待を受け、夕方に辞去したのだが、京王線が人身事故で不通になっていた。佐久に帰る新宿からの最終のバスには間に合わないこととなり、Tさんのご好意に甘えてこちらにも一泊ということになった。

東京二日目はよく晴れており、池袋から待つこともなくバスに乗り、私は再び車上の人となった。関東平野のはるか北に群馬や長野の雪を被った山並みが見える。たった2日であるが、懐かしい気がした。おかしなものである。

私の家は良く冷えていた。ここまで冷えると家全体が温まるまでに半日以上はゆうにかかる。外套を着たままで薪ストーブに火を入れる。庭は日中の暖かさが幸いしてかなり雪がなくなっている。昨年の春に植えた芝がところどころ見えはじめている。

久しぶりの外出のせいもあって疲れを感じ、その晩はかなり早く寝た。寝室も冷え切っていたので、久しぶりに湯たんぽを入れた。夜半トイレに起きたついでにストーブにくべる薪をとるために居間のガラス戸を開けて驚いた。外の薪に5cmほどの雪が積もっていた。暗闇の中で庭がまた新雪に覆われていた。朝早く散歩に出ようと思った。ウサギやタヌキ、テンなどの足跡を見ながら誰もいない早朝の散歩を思いながら私は再び暖かい布団に戻った。