2012年9月20日木曜日

コマドリの恩返し

昨年の初秋のことである。庭の四阿(あずまや)で、小鳥にやるつもりでパンくずやりんごを噛み砕いたものを窓枠に置いた。期せずして一羽のコマドリがやって来、私からわずか1洋尺(1m)ほどのところでそれを啄(ついば)み始めた。雀と同じくらいの大きさだが、やや華奢に思える。喉から胸にかけてきれいな鉄さび色をしている。スコットランドでのことなので、日本のコマドリとは少し違うかも知れない。そもそも私は日本のコマドリを観察する機会に恵まれていないから、日欧の種の違いを語る資格などないのだが、そんなことはどうでもいい。違うのは体色だけではないらしい。

翌日、同じ時間にまた件の四阿を訪れ、試しに細かくしたパンくずを指先に乗せてコマドリを待った。どこかで私を見張ってでもいたかのように、程なくそれは現れた。じっと辛抱強く手を動かさずにいると、近づいて来て指先のパンくずを啄んだ。野鳥が人の手からエサをとるなど、私の人生経験ではかつて無かったことである。矛盾ではあるけれども、期待しながらも期待していなかった、と言えば解っていただけるだろうか?次に私はエサを広げた手のひらの真ん中に置き、それを待った。やはり程なくコマドリはやってきた。逡巡しているようではある。しきりに首をかしげ、私の顔とエサを交互に見ている。が、首を伸ばすだけではエサに届かないことを知り、チョンと手のひらに乗り、パンくずを啄んだ。

コマドリはすぐに飛んでいってしまったが、私は大げさに言えば夢を見ているような気持ちだった。私は自分を今まで何の取り柄もない、鈍感な人間だと思っていたが、動物と話すことが出来るようだ。ついに私は他の人が持っていない、自分だけの能力を見つけたと思った。

手のひらに残るコマドリの、細くて冷たい足の感触を思い出しながら、私は部屋に帰った。急いで電子頭脳網でコマドリを検索し、その結果に少なからずがっかりした。欧州コマドリは警戒心がうすい、とある。人懐っこいと言うのは感情移入した表現であり、警戒心がうすいと言うのは客観的な表現である。どっちにしても一羽のコマドリが私の手のひらに乗って来たのは事実であり、私がその小さな生命を愛おしく思ったのも事実である。

あれからほぼ一年経った一昨日(2012年9月16日)、私は約束があって住まいであるこの建物の玄関で人を待っていた。ここは第二次大戦中に英国軍の病院として建てられたもので、その後西洋旅館に改装され、さらに今の財団に買い取られた。玄関といっても二面が硝子で囲われており、広くて明るい。これがあとで起こる事件の原因だと思われるのだが。

( 横線で消した部分はあとで修正するかも知れません。英国軍の病院として使われていたことは事実のようですが、建物自体がそれよりかなり古いらしいのです。私は知人からの話をもとにこの建物のことを書いたのですが、ここをよく知る読者の方からもっと古いと指摘を受けました。どっちが正しいか、面倒だからこのままにするか・・・)

私は玄関の内側から外を眺めていた。ここ2~3週間ですっかり秋になった。朝晩の空気はめっきり冷たくなり、そして湿り気を帯びてきた。欧州の秋冬は日本のそれとは大きく異なり、寒くてもジメジメしがちである。あと10日もすれば私はこの地を離れ、アイルランドで1週間ほど過ごしたあと日本に帰る予定である。ここに来たのが5月の終わり、それからの過ぎ来し方に想いを馳せていた。

ゴン、と音がした。その前に私は、野鳥のつがいが玄関の外でしきりに飛び戯れているのを見ており、それが故に音の何であるかをすぐに察した。ここの玄関は中も白く塗られており、頗る明るい。古めかしい窓縁などがなければ人間でもうっかり硝子に頭をぶつけそうである。Aと言うドイツ人女性が何も知らずに玄関の硝子の扉を開けて出ていった。続いて私も外の様子を見るために彼女に続いて外に出た。私は何かを感じ、足元を見ると小さな鳥がうずくまっている。動く気配がない。私がそばにしゃがんでも相変わらずじっとしたままである。私はそっと小鳥に左手をかぶせ、右手で掬うように持ち上げて目の高さに持ってき、それを観察した。二、三回冷たい脚をもぞもぞさせたがおとなしくしている。小さな目は開いているものの真っ黒で、表情がないように見えた。私が感情移入してみるからあろうか、脳震盪で朦朧としているようなのだ。それがコマドリであることは足元を見た時にわかっていた。胸の周りがきれいな鉄さびいろで、頭や胴体が灰色がかった鶯色である。

気の毒にもすぐ近くに別のコマドリがいて、気が触れたように飛び回っている。先ほどまで幸せの絶頂にいた相方であろう。思いもよらない展開に玄関脇の植え込みの間を心配げに行き来している。
私は口を開ければ理屈を言うので、他からは理屈っぽい人間と思われているかもしれないが、どうしてもののあわれとか、情というものを人一倍ちゃんと理解するのである。心のなかで元気な相方には出来るだけのことはしてあげるからと言い、目を回して私の手の中にいる方には怖がらないでもいいよ、安心しておいでと、つぶやくのである。

玄関を入ってすぐ左側にある扉を開けると広々とした休憩室である。窓際の長椅子に米国人のJ が座って新聞を読んでいる。自分自身を「切れる人間」と思っており、周囲の評判の芳しくない人物である。誰にでも断定的にモノをいい、譲らない。無視して横切ろうとすると、こういう時に限ってどうした、聞いてくる。あまり関わりたくない人間のひとりであるが、こちらは両手が塞がっている。手を緩めればコマドリが暴れだすかもしれない。仕方なく事情を話して小さなダンボール箱、新聞(毛布代わり)、それとジャムの瓶にお湯を入れたものの準備を依頼する。新聞とジャムの瓶は要らないと言われ、さっそくこのあんぽんたんにモノを頼んだことを後悔する。いくらあんぽんたんでもコマドリの体温を保たなければならないことは察しがついたと見え、彼は暖房用放熱器のそばに箱を置いた。私はコマドリをその箱に入れ軽く蓋をした。あんぽんたんは蓋が簡単に開かないように上に重し代わりの小さな本を乗せた。

私は後のことをあんぽんたんに頼み、再び玄関へ行った。受付の方から数人の男女が来た。その中の小柄な女性が私に寄ってきて自分を覚えているかと聞く。私が以前務めていた部署に体験的に働きに来ていた英国人女性だった。顔は覚えているものの、名前までは思い出せない。ここには様々な人々が様々な国々からやって来て研修を受ける。毎週のように人が入れ替わる。降参して名前を尋ねると、エリザベスだと言う。確かに覚えがある。お互い抱擁なんぞをして旧交を温める。そしてたった今起きた事件の事を話すと彼女は顔色を変え、そのコマドリはどこにいるかと聞く。エリザベスは神通力を送って小鳥の回復を助けると言う。彼女を休憩室に連れてゆき、ダンボール箱を示す。コマドリを驚かせたくないので、箱に触れないで施術(?)をして欲しい旨を依頼する。

エリザベスはダンボール箱に向かって床に膝を付き、両手をかざした。時々手の位置を変える。そこには小さな人だかりができつつあった。周囲は半ば呆気に囚われたのと好奇心で静まり返っている。それは数分で終わった。人々は解散し、散っていった。エリザベスも出かけ、私は約束した迎えが来ず、さらに20分ほどを玄関で過ごした。

一度コマドリの様子を見ようと休憩室に入ってゆくと、米国人あんぽんたんは、それを少し前に外に放ったと言う。とても元気に空に舞っていったと言う。私は素直にこのあんぽんたんとエリザベスの協力に感謝し、そしてコマドリの元気になったことを喜んだ。

次の日の明け方のことである。眠りが浅くなった頃、微かに高貴な香水のような香りが私の鼻孔をくすぐり、今まで聞いたこともないようなきれいな鳥の声を聞いた。そして人の気配に寝返りをうって驚いた。私の隣にはいつの間にか絶世の美女が添い寝をしていた。寝ぼけた頭で思った。「これは昨日窮地を救ってあげたコマドリに違いない」と。わたしはニッコリと微笑んで「You didn`t have to...(そんなことしなくてもいいのに)」と言った。終わり

(最後の5行は筆者の妄想でした。断るまでもないか・・・)




2012年9月17日月曜日

いかに生きるか その3

人が他の動物より複雑なのは(と思われるのは)、その心に動物的側面と人間的側面を持つからである。心とは既に人間的側面なのかもしれないが、他の動物に心があるかどうかは簡単にはわからない。単に言葉の定義で決められるかもしれないし、それはあくまで人間中心のモノの見方だと言われればそれももっともである。

犬猫がまるで人の話や情を理解し、あたかも彼らにも心があるように見えることが多々ある。仮にそれを心と呼んだとしても一向に差支えはない。犬がクンクンと鼻を鳴らしているのを見て多くの人はそれは飼い主がいなくて寂しいからだと判断する。ただ別の見方もできることを忘れてはいけない。犬はクンクンと鼻を鳴らすことによって安全とエサが手に入ることを学習したかも知れないのだ。猫は野生を多少抑えることで人間から楽々エサをもらえることを何千年かけて学習したかも知れない。このように考えると犬猫には心などはないと言えるかもしれない。あったとしても人のそれと比べれば取るに足らない単純なものと言えそうである。人の心はそれだけ複雑で測りがたいものなのだろう。

一匹のサルを観察するとする。このサルは何をするだろうか。エサを食う。寝る。遊ぶ。他のサルと喧嘩をする。交尾をする。子育てをする。ざっとこんなものであろう。遊び以外は全部自己保存と子孫繁栄のための行為である。何のことはない、人と大差はないようだ。が、これらの行為に於いて人は限りなくサルに近い人と、限りなく神様(?)に近い人のいることに気づく。行為の制御においてである。

繰り返すがサルと人間の遺伝子の違いはわずかに数パーセントである。肉体的違いは殆ど無いに等しい。やはり人を人たらしめているものは、その心(精神、頭脳と言った物理的側面以外の部分)にあると言える。

自己保存と子孫繁栄を人生の目標として生きる人は、これは何も人間である必要はないわけで、サルでも良かったのだ。人の「生」の難しいところは動物の身体をまとい、これを養い且つ繁栄させるに必要な能力の制御にある。簡単に言えば「人は動物本能をコントロールして生きねばならない」ということである。今の世界の状況を鑑みるに、地球温暖化、地域紛争、核問題、食料問題などあげればきりがないが、これらは元々はすべて人の動物本能の無制御から来るものだと言えるのではないだろうか。動物本能の無制御とはすなわち「自己中心」状態である。一人ひとりの自己中心はわずかでも地上には2012年現在で既に70億人を突破している。一人が一日にたった一個の空き缶を路上や野山に捨てただけで、一日に70億缶がこの地球上にゴミとして放置されるわけである。

私は太った人が嫌いである。(病気で太っているのは仕方がない)太っている人は人のぶんまで食べるから太るのである。動物本能を制御できないのは人として上等とは言えない。地上に飢えで死ぬ人がいる限り、食べ過ぎてはいけない。特に宗教を語る人は、太ってはいけない。人のぶんまで食べたいなら宗教を語ってはいけない。かつて偉大な宗教者で「デブ」はいたためしがない(見てきたようなこと言う)。太っているということはそれだけでその人が「制御」ができていないことを示している。太っているその人は自己中心であることを体で表現しているのであり、綺麗事を言っても説得力はないであろう。

この「食欲制御」の例えは取るに足らないことに聞こえるかもしれないが、70億集まればこれがもとで戦争が起きる。世界の陸と言わず海と言わず単なる食料供給の場として開拓し、一見人には役に立たない動植物を駆逐して結果的には自らの首を絞めるのである。多くの人はこの今の行いが明日の自分の首を絞めることをわかっていながらたらふく食べるのである。

利己心とはそれが小さなものでも、70億集まれば世界を破滅に追いやることを忘れてはならない。電気のことも、車のことも、水のことも、すべて70億倍にして考えてもらいたい。他でも書いたが( 確定された予言 http://michioscud.blogspot.co.uk/2012/05/blog-post.html )、私たちはこの地球がガタガタになったからといって他の惑星に引っ越すわけにはいかない。ここでしか生きられない。


「いかに生きるか 」編がこれで終わったと思うあなたはみっちーという人間を理解していない^^;
これでは人間は半端なダメな存在としか言わずに終わってしまう。そんなわけはない。では、人間のすばらしさとは・・・・乞うご期待 !


2012年9月12日水曜日

君はだれですか?

君はだれですか?そして私は・・・・誰でしょう?

新聞を読む。近頃領土問題が紙面を賑わしている。どこそこは歴史的にも国際法上もまったく疑う余地なく我が国の領土である、ともっともな説が掲載されている。相手国の新聞にも自国の領土であることを、これこれが根拠だと主張していることだろう。そしてほとんどの場合、国民はおらが新聞記事を鵜呑みにするであろう。

滑稽なのはお隣のK国やC国である。言論の自由がないのはわかりきっているのに、人々は新聞記事を鵜呑みのしてそれをそのまま自説にしてデモに出かける。政府にとってこれほど御しやすい国民はないであろう。政府はデモを見て民意を汲んだように見せかけ、相手国に強気に出る。

我が日本は・・・これも怪しい。言論報道の自由があると国民が思っているから、逆に危ない。すべてのマスコミは「ひも付き」である。誰でも、どこの国のものでも金さえ出せばこの「ひも」になれる。前述2カ国は言論報道統制がアカラサマだからこれに乗せらる者はあんぽんたんだけであるが、日本のような国のマスコミは危ない。あんぽんたんより賢い人々をも騙す。深く、永く、確実に騙す。

朝刊を読んだK国のあんぽんたんが街に出てたまたま日本人と出会う。けしからんと日本人に文句を言うであろう。その日本人がたまたまあんぽんたん以上の人であってもこの文句を聞いて苦々しく思うだろう。彼(彼女)もまた朝日本の新聞を読んで、それを素直に自説として大切に脳みそに保存してあるからである。

K国の人間も、C国の人間も、そして日本人もみな自説が正しいからこれを主張するのではない。いまだ人は動物的本能をもち、それを制御出来ない。その行いや説の善悪でことを判断するのではなく、自分を守る、自分の家族を守る、この本能に従うのである。その延長で自国のマスコミを支持しこれを自説とする。マスコミ(つまり政府やマスコミに付いているヒモ)は人が未だ持つ動物本能をを巧みに利用して国民を操る。

領土問題も宗教も同じである。原発問題も同じである。多くは同じ構造なのだ。先に好き嫌いや善悪があり、これに後から理屈をつける。あるいは人には先に脳みそに入ってきたものを尺度にして次に来たものを測るという習性がある。例えば原発問題。たまたま新聞で原発問題の記事を読み、それが反対論だったとすれば、読者は白紙の脳みそに反原発のごもっともな説を刷り込まれる。翌日原発賛成派の人にあって話しをすると意見が別れる。自分の意見を強固にするためにその人は反原発関連の記事や本を集めて読み始めるだろう。あとは自己保存の本能が働く。つまりコトの善悪、真贋関係なく自説を守ろうとする。

収集した情報を自分の尺度で吟味し、取捨選択をするのならまだいいが、そのまま身に付けてしまうのは問題であろう。これはあんぽんたんのすることである。あんぽんたんは新聞を鵜読みにし、人の話しを鵜聞きにし、電気紙芝居を鵜見にする(しまいには鵜が怒るわ)。これで自分はどこにある、何者だ、と言う疑問が沸かないのはもう危ない。

君と言うひとは新聞記事の切り貼りですか?学校の教科書の寄せ集めですか?親の複写ですか?
2チャンネルですか?


無理してでも暇をつくって自身の今持っている尺度がどこから来ているかを調べるのは必要なことである。個人用電子頭脳(PC)はいつの間にかウイルスに汚染されている。同じことが人の頭にも心にも起きている。この記事の題名「君は誰ですか?」の疑問に答えられる人はそう多くはいない。

私?・・・あんぽんたんデス。デモ上等ナあんぽんたんデアリマス。自覚アリマスカラ ^^;