2012年4月16日月曜日

春がきた

数日前より24時間火を絶やすことはない、と言うことが無くなった。夜中、ストーブに追加の薪をくべることも無くなった。それでも朝が暖かいということではない。今朝も庭にわずかだが霜が降りていた。農家にはこれが大敵らしい。じゃがいもなどは芽が出た時に霜が降りると大変なことになるらしい。

敷地の南の道路との境に将来立派な生垣となるようにユキヤナギを植えた。間口が27mほどあるので園芸店などで苗を買っていたのでは私の財布がもたない。そこで、今は使われていない近所のゴミ置き場の横にある立派なユキヤナギの株から散歩の都度、その穂先を失敬してきて地面に挿したのである。

個人のお宅の庭から無断で何かを持ち出すのは気が引ける、いやそれは泥棒である。しかし、公の場の、繁殖力の旺盛なユキヤナギの先っぽ30洋尺(cm)ばかりをいただいても罪にはなるまい。それでも多少の罪悪感はあり、雨の日などの散歩に傘を開いたその内側の骨に数本手折ったユキヤナギを隠して持ち帰るのである。(もっとも出かけるのが早朝なので、行き交う人とて皆無なのだが)雨の日は土が濡れていて挿し木にも都合がよく、枝の根本のところを鋭角に切って土に挿すだけである。

かなりの確率で根付く。ここ数日の間に1~2mmの芽が大きく膨らみ始めた。挿したのが昨年の秋で、佐久の寒い冬を越して今この薄い黄緑の芽吹きを見ると、なにか愛おしいような気もしてくる。鳥たちの囀(さえず)りも一層喧(かまびす)しくなり、小さかった蕗のとうがいつの間にか大きくたくましく花を咲かせている。これは後々増えて庭を荒らすので今のうちに根っこごとやっつけねばなるまい。昨日、地元の S おばあさんにこれの料理の仕方を教わったが、食べるには花が開きすぎているようだ。

間もなくタラも芽を出し始めるだろう。昨年は手頃な大きさになったところで、さて今朝は摘んで朝食のお浸しか天ぷらにでも、と思ったら山菜ドロボーに先を越された。それで、渡欧の前にほぼ残らず根本からそのトゲトゲの木を切ってしまったのだった。が、タラは「ヨタ」である。数カ月して我が家に戻ったら、以前にも増してたくましいタラが、他の背の高い雑草とともに庭に林立していた。この生命力の強さには私は驚嘆した。我モマタカクアルベシト。

家を建てる時に、大木は赤松を残してみな伐採した。それでも将来の庭づくりに邪魔にならない潅木はいくらか残した。特に両隣との境界にはまだ結構な数の木々が残っている。植物には疎く、自分の庭にあるものの名前さえ知らない。牧野博士にお叱りを受けそうだが、私にとってこれらはみな「雑木」か「雑草」なのであった。

ワレモコウとリョウブはお隣の S さんに教わった。念のため電子頭脳式情報網(インターネット)で調べたら、リョウブの若葉は食用になるらしい。昔、飢饉の時などはご飯に混ぜて食べた、とある。赤い房状の実をたくさんつけるガマズミは反対隣の S さんが教えてくれた。ダンコウバイは T さんの奥さんが植物に詳しく、その葉の形から名前を調べて知らせて下さった。今はその盛りを幾分過ぎて、それでもほのかな薫りをあたりに漂わせている。その花言葉は
「わたしを見つけて」
だそうな。花言葉など、どこかの誰かが勝手につくったものに違いないが、この言葉なかなかいいではないか。

以前にスノードロップのことを書いただろうか?これを初めて見たのはもう20年以上前である。ストックホルム郊外の知人宅でであった。この可憐な植物は遅い北欧の雪解けと競うように庭の片隅でひっそりと咲いていた。花は開く前の、真っ白な蕾が首を折り曲げて下を向いている様がいい。アイルランドではウイックローの山中に住む老教授の庭のヤブの中にもあったものである。

一昨年の秋に思いついて街の園芸店に問い合わせたところ、スノードロップの球根はすでに売り切れていた。昨年は渡欧中にアムステルダムの花市場に行き、これを買い求めた。帰国後に我が御用邸の前庭と裏庭に植えた。十個ほどあった球根を念のために二箇所に分けて植えたのだ。前庭のがひとつだけ芽を出した。他は全滅らしい。(裏庭に植えたのは場所を忘れた^^;)

スノードロップは和名を待雪草(マツユキソウ)というらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%97

さらに調べて驚いた。この花言葉が面白いのである。上記Wikipediaによると、

「希望、慰め、逆境のなかの希望、恋の最初のまなざし」 人への贈り物にすると「あなたの死を望みます」という意味に変わるので注意が必要である。

とあった。うっかり人に球根を差上げられないではないか。

※写真はダンコウバイです。

2012年4月7日土曜日

心配事

寒い冬を気持よく過ごさせてくれる薪の在庫がなくなりかけている。薪ストーブというものは購入時の本体が高いし、買って後は維持管理がかなり面倒である。2日に一回ほど灰を掻きださねばならないし、煙突掃除も必要だ。薪や灰から出る、文字通りの塵芥(ちりあくた)は部屋を汚す。焚きつけることや火の調節は大げさに言えば熟練を要する。寝る前にストーブに薪を目一杯詰め込んで、全面のガラスが煤けないように、そして火が燃えすぎず長持ちするように空気口を調節しても、我が家の小さなストーブでは6~7時間が限界である。一旦火を消してしまうと再度焚き付けねばならない。それが大変だから結局夜中に起きて薪をくべる。幸い私は病気柄か、眠りが浅く、寝起きもいいので、これがそれほど苦にはならない。(これを欝の効用と言う^^;)

結果から言うと掛ける手間ひまは膨大であるが、私にはそれから受ける恩恵の方が大きいのである。

今困っているのが次の季節の薪である。今まで使っていたのはこの家を建てる時に伐採した雑木だったのだが、これが・・・尽きた。

ホームセンターで売られているものはベラボーに高い。薪としては最高級のナラやクヌギは長さ4~50センチでこれを針金のわっかで束にしてある。直径は40洋尺(cm)くらい。こんなものが500円もする。我が家では一日で3束は必要になる。500円×3束×30日=4,5000円/月。絶句!

知人に薪を安価に手に入れる方法を問い合わせてみたが、いい案がない。私はここではよそ者なので、「山」を持っている人など知らない。車で買い物に出かけた時に、道路脇に雑木の玉切ったのが置いてるのを見ることがある。こんな時は知らずとよだれが出てくるのである。

こんな時は電子頭脳式通信網(ネットのこと)が便利。調べると、近所で森林組合は言うに及ばず、個人でも薪を商うところがある。ついでに埼玉県某所で伐採や薪の販売、また薪を作るための講習や器具(チェーンソーやまさかりなど)を扱っている人がおり、この人のブログがかなり面白いことを発見。

このブログの筆者であるKさんは、私と同種の病気を患っておられ(まったく同じではない。彼は双極性障害、つまり躁鬱病であるらしい)、その病状はかなり重そうである。これが故の一家離散、転職、引越しの悲哀を経験されたらしい。これにもめげず、薪屋さんを始められた。数年に及ぶそのブログに私ははまって二、三日で読了した。もと出版社に勤めておられた由で文章がうまい。それだけに彼が平常な状態でない時の辛さがひしひしとこちらに伝わってくる。私は欝だけとは言え、その苦しさを知っているので、彼の病状が思いやられるのである。

Kさんの住んでおられるところは実は私の両親の墓参途中にあって、大体どのあたりかはわかっている。一度お会いしたいものだと考えた。薪も欲しいのだが、それより彼の人柄に惹かれたのである。
彼のブログに伐採や薪づくりの講習会をするので参加者募集とあった。それに応募したのだが、返事がない。そしてブログは3月19日以来更新がない。以前にも具合が悪くて更新が出来なかったことが度々あったらしい。(それでも更新頻度は私の比ではない)それがかれこれ20日近く途絶えている。

ブログの読者であるというだけで、彼とは一面識もない。しかし、ブログから彼の人柄や過去、そしていまどれだけ頑張り、どれだけ幸せで、またどれだけ苦しんでいるかが解る。

今朝私は彼のブログにリンクを貼っている人にメールを出し、彼の消息を問おうとした。しかしやめた。やはり不自然だし、相手の方にも失礼であろう。それにしても心配だ。

2012年4月1日日曜日

何をか言わんや

原発を止めるとか止めないとか、夏場の電力はどうなるとか、東電の値上げは許せんとか・・・。知識人も非知識人も百家争鳴、結構なことである。

地球の大きさは決まっている。食糧、燃料、そして鉱物資源も限られている。人口は爆発的に増えている。でも、自分だけはいい生活をしたい。我々人類が弱肉強食の世界に戻るのは時間の問題である。先見の明は中国にあった。彼の国は、武力や経済力にものいわせて近隣の領土拡張に走り、南米やアフリカでは穀物畑の確保にやっきである。

中国は近い将来の資源不足を見越し、生き残りをかけて行動を開始している。日本は67年前に食べた羹(あつもの・・・熱い吸い物)に懲りていまだに膾(なます)を吹いている。

戦争というものは正しいから勝つわけではなく、間違っているから負けるわけでもない。単に武力と知力があれば勝ち、それらが無ければ負けるのである。

第二次大戦末期、アメリカが行った日本の大都市に対する無差別爆撃や原爆投下は完全に当時の国際法に違反している。戦時中日本軍は占領地で現地人の虐殺をしたという。ウソかまことか、人口20万人の都市で30万人虐殺という器用なこともしたと言われている。では、まったく抵抗のできない空から爆弾を落として無辜の人々を一瞬にして何十万人と殺すのは虐殺ではないのだろうか。

あの大戦については未だ正しい裁きはついていない。戦勝国が一方的に行った私的制裁が東京裁判である。

※東京裁判で被告人のひとりが、日本は連合国側に賠償を払う。が、連合国もその倍の賠償を日本に払うべきだと主張した日本の退役陸軍中将がいた。あの当時にである。彼は罪には問われなかった。連合国側が彼を無罪にすべく奔走した結果だと言われている。

話しがかなり逸れた。地球の物理的規模が決まっているのに、もっといい暮らしをしたいと望むことが無理なのだ。人の物心両面における幸福の追求には何が必要かを考えれば、我々の生活の標準が見えてくるのではないだろうか。それが見えれば「地球の適正な人口」が簡単に割り出せると思うのだが。

昨年の秋、ブータンの国王夫妻が来日された。あの時のことを私たちは既に忘れかけている。「国民総幸福量(GNH)」。日本はこれだけモノが豊富で、医療制度もおそらく世界一、そして犯罪も少ない、なのにブータン人ほどみな幸せを感じているだろうか?

日本は小さな国だと思っている人が多い。面積的にはたとえばヨーロッパの国々と比べるとフランス、スペイン、スウェーデンが日本より大きいだけで、ドイツや英国などは日本より小さい。もっとも、人口でいけば日本はヨーロッパのどの国より多い。全EU人口は約5億、それでもGDPは日本の約3倍しかない。なのに大半のヨーロッパの国々の「豊さ」は日本よりも上である。もちろん簡単に比較できる問題ではない。しかし、単なる旅行ではなくて、実際に現地で働き、暮らしてみるとヨーロッパの最貧国の人々でさえ、平均的日本人よりゆったりおおらかに暮らしているように感じる。

日本経済が中国に抜かれて世界第三位になったそうだが、二位じゃなといけないんでしょうか?(^^;)
ブータン国王夫妻が来日された時に、日本の多くの人が幸福について考えたではないか。彼の国の国土面積や経済はおそらく世界のビリから何番目というほどのはずである。

幸福生活の雛形を作ればいい。少しばかりこれからはみ出るくらいはいいだろう。でも、金を追いかけすぎたり、他人のものを欲しがったりするのは悪魔に魅入られているのである。

断っておくが私は共産主義を奉ずるものではない。