2013年4月4日木曜日

木の芽時の哲学

思いがけず早い春がきた。昨年末冬に突入した直後は例年にないほど雪が少なく、高速道路の除雪を生業としている私には先が思いやられるのだった。12月と1月がさっぱりで2月は一回あたりの降雪量が多かったものの如何せん降雪回数が少なかった。この3月も結局一回も出動は無いままである。佐久はそういう土地らしい。すなわち、ほんの数十里北に向かえば新潟との県境で、日本有数の豪雪地帯であるが、ここは「降る、降らない」の境界で、寒さだけは北海道並なのだ。

あてにしていた収入がないと次年度の予算編成が厳しいものになる。予算執行延期も頻発する。先日の記事「ホシ~ホシ~病」にほしいものの候補を上げたが、実はあれだけでは済まない。早めに済ませてしまいたいものに庭の整地(重機とダンプカーを借りなければならない)がある。これが済まないと草木の類を何時まで経っても植えられない。植物は大きくなるのに時間がかかるから、これを見越して早めに植えたいのだが、その基礎となる土地の整形ができていない。それと西洋濡れ縁(和製英語ではウッドデッキと言うらしい。正確な英語ではwooden deckと言う)。車庫をつくった業者がいい加減な造りをしたために使えなくなった木材をとってある。これを転用して構造材にするのだが、今は車庫に置きっぱなしで、薪の置き場所を占領している。床板を買ってきて西洋濡れ縁を完成させれば、必然として薪置き場が確保され、敷地の南にあるみすぼらしい仮の薪小屋を撤去できる。いつ倒壊するか、ご近所の予想を裏切っていまだ健在であるが、建て主の性格や人生を象徴しているようでいただけない。

そうこう思案に暮れていても時は経つ。庭の暖香梅(ダンコウバイ)の黄色が目立ってきた。もうじき満開になる。日当たりのいい場所にある水仙は早くも蕾を大きく膨らましている。一昨年オランダで買った待雪草(マツユキソウ、スノードロップ)は今年ようやく一輪だけ咲いた。あと2週間もすれば私は欧州にいかねばならない。その前にすべきことはたくさんあるが、精神的には不調である。若い時には無かった感情の揺れをひどく感じるようになった。多くは陰に傾き、時にわずかに陽に振れる。陰は悪く、陽は良いなどと言ったものではない。陰とは欝のことであり、酷いわけではないが、将来に絶望し、疑い深くなり、疑心暗鬼に陥る。これは苦しい。陽とは躁のことで、いいもののように聞こえるが、実はそうではない。自分は能力に溢れた、なんでもできる天才に思えてくる。物事を深く考えようとしなくなり、起業して大金持ちになろう、などと本気で考え始める。「ホシ~ホシ~病」は形を変え、思いつきで高価なものを買ったりする。

昔からこの季節を「木の芽時」と言う。生きとし生けるものの命が、長い冬を経たこの時を待って躍動を始める。2月の終わり、軒下に蟻地獄を見つけた時は異様に思ったものだ。こんなに早く店開きしてもお客はまだ眠っているだろうに・・・。ウグイスが鳴き始め、ユキヤナギが黄緑の芽を出し始めた。
世は春というのに私はこの症状がいつひどくなるかを気に病んでいる。幸いにしてまだ正気がかなり残っている。どちらに転ぼうと自分の心の傾きを感じる余裕がある。そんな時はその時のものの見方、感じ方を面白く思う。ひとりの人間の中に視点がふたつあるというのはある意味興味深い。

よく使われる例えだが、一升瓶に半分残った酒、これをどう見るかがこの時顕著に現れる。当然鬱の時は、ああ、もう半分しか酒が無いと思い、躁の時はまだ半分も残っている、さあ楽しもうと思うのである。「まともな時」の私はこれに特別な感想は無いのである。半分の酒、ただそれだけである。ただの感情の振れでそう感じるならそれはまともであるが、病的な振れはやはり怖い。今はこれを冷静に観察している自分がいるつもりであるが、「冷静のつもりの自分」と「冷静な自分」とは別物である。これは解るような解らないような木の芽時の哲学である。

写真は初めて我が家の庭に咲いた待雪草(Snowdrop)