2011年7月28日木曜日

暖炉のにおい 4

観光客などとは無縁の鄙(ひな)びた村のパブにいた。

夕飯の後の一杯を楽しむ人達のざわめきも去り、店内は再び落ち着きを取り戻し、ゆったりとした時間が流れていた。大声で話す人もなく、時折パイントグラスが触れ合う音などが聞こえるのみである。バーマンは手持ち無沙汰にカウンターを拭いている。

田舎のパブである。全ては古ぼけて薄暗い。その店内には壁に取り付けられた電球でできた偽物ろうそくの赤い火明かりがそれらしく揺らめいている。客席は「コ」の字型になっており、真ん中がカウンターになっている。

都会の観光客目当てのパブならばアイリッシュダンスやアイリッシュミュージックの実演があるところだが、ここではときおり地元の人々が寄りあってギターやフィドラー、またティン・ウイッスル(ブリキ製の縦笛)やアコーディオンの演奏を楽しむのみである。もっともこれがアイルランドの普通のパブである。テーブルの上には彼らのギネスがある。マーフィーがある。スメゼックス(smithwick`s)もある。演奏の合間に舌と喉をこれで湿らせる。純粋な音楽としての評価などは私にはわからないが、とにかくいいのである。外れたことは一度たりともない。

しかし、今日はなにもない。スピーカーからはビートルズのレット・イット・ビーがブルース調で流れている。その音は決して大きなものではなかったが、静かな店内の隅々まで届いていた。

暖炉はカウンターの向かいにある。重なったターフの下のほうが赤い大きな熾(おき)になっており、その上の新たにくべられたターフが、白いかすかな煙をあげて燃え始めている。マントルピースは焦茶色で決して上等なものではないが、黄ばんでしまった漆喰の壁によくにあっていた。店内は程良く暖まっている。

時間と暖炉のターフの匂いだけがこの田舎のパブをつくったようだった。

一般に、暖炉には薪か石炭をくべる。私は薪が好きだ。薪はその姿かたち、はぜる音や炎までのすべてがいい。また、においもいい。

アイルランドではこれにターフが加わる。ターフは若い泥炭で、アイルランドには豊富にある。地表面にあって簡単に採取できる。石炭と違って、取り出したからといってすぐに燃やせるわけではない。地方を歩けば見晴るかす荒野の処々にターフが掘られて、その場で乾燥を待っている光景に出会うことがある。

ダブリンなどの大きな街のパブではたいがい石炭を焚いている。それもまたいいのだ。しかし、ターフの何とも言えない自然なにおいは石炭をはるかに上回る。残念なことにダブリンのパブでターフに出会うことは稀である。

カウンターでひとりビールを飲んでいた女性がゆっくりと立ち上がり、体を揺らせ始めた。レット・イット・ビーに体を委ねてステップを踏む。ひとりで踊り始めた女性に注意をはらうものは誰もいない。

30代前半、栗色の髪をざっくりと後頭にまとめている。小さめの青白い顔には化粧っけはない。細かなチェックのシャツに下はジーンズ姿である。こちらのその年令の女性にしては細身である。視線を下に落としたまま自分の世界に浸ったまま踊っている。

私はカウンターとは反対側のテーブルでひとりギネスを飲んでいた。最初はあっけに取られた。しかし、周囲が一向に頓着しないので、私もそれにならった。しかし、好奇心が頭をもたげて、これを抑えこむのは容易ではない。時折彼女を盗み見た。

彼女は時に眉をくもらせレット・イット・ビーを小さく口ずさんでいるようだ。踊りながら私に近づき、耳元に何かを囁いた。わずかに微笑み、そして去っていった。その後のことにつて、私は何も語らない。

ゆっくりと時は流れ、夜は更けていったのである。

2011年7月24日日曜日

暖炉のにおい 3

教授の次女ケイトには躁鬱の気質があって、躁の時には気が向けばティン・ウィッスル(ブリキでできた単純な縦笛。アイルランドが発祥の地と言われる)を吹く。なぜか同じ所を繰り返し吹くので、いやが上でも私の頭にそのメロディーとリズムがグルグル回り始める。敷地は広いものの、家自体は大した広さではないので、どこにも逃げられない。彼女が吹くのを止めても私の頭の中にはグルグルと同じメロディが回っていて不愉快である。トゥッティリ~ラ、トゥッティリ~ラ、トゥッティリ~ラピィ~ラ~ラ~、トゥッティリ~ラ、トゥッティリ~ラ、トゥッティリ~ラピィ~ラ~ラ~、先へ進まないのである。

ある時、皿を洗いながら自分がこれを口笛で吹いているのに気がついて顔を顰(しか)めた。しばらくこれが私の頭の中から去らずに閉口した。今でもその半端な曲は覚えているが、またぶり返しそうなので思い出したくない。

前述の話しは1999年の秋の話であるが、それから10年ほど経った頃、日本にいて私は心身の不調を感じて医者に行った。問診と簡単なテストで欝が出ていると言われた。鬱病と言うほど重くはないが、欝症状であるとのことだった。ショックではあったが同時に安心もした。症状に気がついて以来、私はずっとわけのわからない不安にかられ続けていたからである。

この話しを書いている今は以前よりもかなり自分の精神状態に感心を持つようになった。そして最近に至って私は、自分が欝だけではなく躁も持っているのではないかと疑うようになった。私は精神医学や心理学の知識があるわけではない。気分の浮沈は誰にでもあるものだろうが、正常の範囲をわずかに越える躁が自分の中にあるような気がする。

自分が躁鬱の症状を持つ人間だとすれば十数年前に教授の次女ケイトがとった行動には同情すべき点があった。当時は他人の迷惑ということをまるで考えないひどい女だと思い遠ざけていたから。

教授もケイトの躁欝に早くから気がついていたようであるが、なんら手を打つこともなく過ごしてきた。教授には6人の子どもがいるが、誰も学校にやらなかった※。それがために誰も客観的にケイトを見ることをしなかったものと思われる。

※唯一例外は長女のアンであった(アンは英国で生まれているので、兄弟中唯一英国籍である)。子供たちはみな親から基礎教育を受けた。アンも例外ではなく、義務教育さえ終了していない。が、アンだけはロンドンの大学に入った。教授が直接学長宛に手紙を書き、面接の結果、入学が許されたとのことである。

教授には子供の教育にそれなりの考えがあったらしい。大学を早期退職しており、経済的に苦しかったことも子供を学校にやらなかったことの一因として挙げられるだろう。英国のボーディングスクール(寄宿学校)からケンブリッジ大学に進んだ彼には自ら子供たちを教育する自信があったに違いない。それにもかかわらず、ケイトの心の病気にはなんら手を打つこともなく時が過ぎてしまった。分らないでもない。ケイトのそれも最初は明らかに異常というほどのものではなく、ボーダーをほんの少し越えた程度であったのだろうから。

とにかく躁になるとティン・ウィッスルを吹きまくり、すぐに飽きて絵を描きはじめる。熱中して描くがすぐに飽きて別のことを始める。何をしたにしても後片付けはしないので、家中はとんでもない散らかしようになる。教授は何も言わない。気が向けば三女ルーシーと共にケイトのあとを追って片付けている。

私も最初の頃は後片付けをした。ある時、暖炉の中に靴が片方だけ置いてあり、その靴の中に何故かサンドイッチの食べかけが入っていた。一階の客間をのぞくと一面絵の具と描き散らかした画用紙で床が見えないほどになっていた。彼女の移動範囲は家の中に留まらない。庭であろうが物置であろうが関係ない。かと言って突然大掃除が始まるときもある。すぐ下の弟ジャックに大号令をかけて掃除を強要する。時には喧嘩になってハラハラすることもあるが、小一時間もすればまた忘れたようにティン・ウィッスルを吹いている。そんな時のケイトの目にはある種の輝きが見える。

ある時、ケイトが私のところに来て頼みがあるという。目が怪しく輝いている。明日の夕方友人と一緒にパブに行くのだが、その間友人の子どもの面倒を見てくれる人がいない、頼めないだろうかと言う。パブは11時半には店を閉めるから間違ってもそれ以上遅くなることはないと言う。内心疑いながらOKを出した。

その日、私はケイトの友人宅に行って子供の面倒を見始めた。9時になって子供を寝かしつけ、持参した本を読み始めた。11時になり、そろそろ彼女らが帰る頃だと心待ちにしていた。ところがである。彼女は一筋縄ではいかないのである。深夜になっても帰らない。子供は変りなく寝たままである。ところがこちらは心配しつつも腹も立て始めている。ケイトのあの目の輝きを軽視した自分に限りなく腹を立てたのである。

彼らが帰ってきたのは翌朝9時前だったと記憶している。ケイトには自分が躁鬱の気質であることの自覚はなかったようだ。従って周囲がこれによって迷惑をこうむっているなどとは夢想だにしなかったに違いない。私には自覚があるようだ。私は同じ躁鬱でも彼女とは違う。

私の場合は感覚で言うと中くらいの欝が<5>続き、正常が<2>続き、軽い躁が<1>、そして正常が<2>で終わるサイクルらしい(無理やりサイクルで表してみた)。ケイトも欝の時はおとなしく沈んでおり、躁になると俄然元気になって周囲に迷惑をかけまくる。私も欝の時はおとなしい(当たり前か・・・)が躁になると気が大きくなって、もしかしたら自分は「何者か」なのではないかと思ったりする。周囲に迷惑をかけないようにしてるつもりでも、結構無神経だったりするようだ。

みなさん、ごめんなさい。

2011年7月21日木曜日

バブルでござんす(アイルランドの往時を偲ぶ)

時節はアイルランド史上最初にして最後の経済バブルであった。EU政府がヨーロッパでもっとも貧しい国のひとつに巨額の投資をしたのだ。なぜか最初に来たのは中国人だった。次にポーランド人をはじめとする東欧人が来た。ダブリンには建築のためのタワークレーンが林立した。仕事はあったが、住むところが追いつかなかった。

家賃は瞬く間に高騰し、アイルランド人は豊かになった。特に不動産持ちはあっという間に豊かになった。車庫や倉庫、物置を改造し、それを貸し出せばすぐに借り手は現れる。新聞に広告を出せば問い合わせが殺到した。電話で問い合わせると常に「もう決まった」と言う返答が帰ってきた。

中国人はしたたかである。彼らは外国に於いてはかなり強い結束をしめすようだ。日本人ほど社会的な地位に恵まれる訳ではない。多くは社会の底辺で暮らす。小売商の店員や掃除夫などをする。想像ではあるがそれで辛抱して小金をためて自分の店を持つパターンが多いようだ。小なりといえども、一国一城の主である。どちらが良いかは一概には決められない。

彼らに孔子や老子などの子孫たる自負やメンタリティーはない。後年発生した禅思想などとともにそれは日本で花開き、受け継がれたが本家中国にはもうないのだ。従って同じような顔をしているからと言って同じ傾向の考え方や情を持つと思うのは大きな間違いである。彼らは歯ブラシ一本あれば親類を頼って世界中を歩くと言う。

あるアパートや貸家でひとり中国人を見かけたら、陰にその数倍の中国人がいる、等と言われていた。実際彼らは一部屋を確保すると次々と人を呼び、大人数で暮らす。家賃を頭数で割れば、ダブリンの高額な家賃もそれほどでもなくなる。私などは部屋が借りられなくて随分長い間ホステル暮らしだったが、中国方式の方が安く、安全であったろうと思うのだが。

もし、私が中国人だったら部屋を確保した段階で、次々と人を呼んで頭数で割った家賃にほんの少しだけ各々に上乗せして自分の分をタダにしたであろう。←こんなことを考えるからSnigelやひできすなどの大人(たいじん)以外は相手にしてくれなくなる。

さて、バブルの狂気はそれが破裂してその破片を拾い集めたときにしみじみと感じられるものである。このブログを読まれている読者数はひできすとSnigelの両氏のTwitterのつぶやきで、一挙に増えた。地域もヨーロッパ、アメリカ、東南アジアまで広がった。日本語でしか書いていないので、読者のみなさんの大半は日本人であることと思うが、その中にも日本のバブルを肌身で感じた方々もおられることと思う。それが異国に暮らす私の目の前で再現された。

私が目撃したアイルランドのバブルは例えば首都ダブリンのリーフィー川に浮かぶ観光船である。平底の屋根が透明なやつである。隅田川に浮かぶ屋形船をモダンにした感じである。私は当時、川の南岸にあるジムに通っていたので、ランニングマシンで走りながら、この船の試験航行をながめていたものである。船着場がそこからはよく見えたのだ。当初からこの事業には首をかしげていた。

船着場を出て河口近くの折り返し地点まで行って引き返しても全行程は2kmそこそこである。両岸はコンクリートで固められている。干満の差がある。橋がある。見るものがそれほどないなど、素人が見ても成り立たない事業である。

行程が短い・・・・・・・・お金がとれない。
両岸コンクリート・・・・風情がない。
干満の差・・・・・・・・・・干潮の時はこれに阻まれて景色は見えないだろう。おまけに川底の堆積したゴミ(ショッピングカート、古タイヤ、ミイラetc)が露呈する。満潮時は船の屋根がつかえて橋の下を航行出来ないであろう。
見るものがない・・・・・カスタムハウスとオコンネルブリッジくらいである。

船を新造し、川に浮桟橋を作り、人件費をかけ、念入りに試験航行を繰り返しているうちにバブルがはじけてしまった。その後どうなったかは知らない。

もう一つ。ダブリン市内を走るバスである。市内は二階建てバスが走るように出来ている。これは言うまでもなくイギリスの影響で合理的である。ここに2両連結のバスが走り始めた。大量に購入され、長いことバス会社の駐車場に新車のまま雨ざらしになっていた。運行は開始されたが、走れるルートは限られる。普通のバスの2倍まではないが、かなり長いので街角を曲がりきれないのだ。おまけに運転が難しい。信号で先がつかえているとその長さ故に簡単には前に進めない。無理に進むと交差点を完全にブロックしてしまう。(他にもあるが今日は勘弁してやる)いずれにせよ金余りか賄賂の結果だと思われる。

車である。少し金ができる。しかし、家を買うほどにはなっていない。こんな時に人々が買い求めるのは車である。最初にたくさんの人が日本の中古車にむらがった。新聞にも日本車の部品があります、などと広告が出ていた。当地は右ハンドルの国であるため、中古車の輸入は日本からが便利だったものらしい。何よりも故障しない、燃費がいい、きれい、この3点だったと思う。これ故、タクシーなどはほとんどが日本車かドイツ車であった。フランス車やイタリア車などはないのであった。この後さらに豊かになると、こんどはドイツ車が多くなったようだ。小金ができると人は次に見栄にはしるものらしい。

その頃、我が師Snigelはカローラのセダンに乗っており、確か中古ながら日本から直輸入したと言っていた。随分世話になったものである。いい師であった。(おいおい)

バブルでござんしたよ。

いまやダブリンは至るところ新築されてそのまま買手も借り手もないまま時間がたったビルが散見される。

2011年7月18日月曜日

めっちーとSnigal のでこぼこ道中

昔々、今の私たちの住む銀河ができる、ちょっと前くらいの昔、その近くの別の銀河に地球そっくりのある惑星があった。そこでも動物が進化を遂げて人間とそっくりの生物が出現し、やがて車を発明した。この物語は、それから100年ほどたった頃の話しである。

めっちーとSnigalとひでかすの3人は大きな大陸を挟んだ遠い国からこの島国に来て、たまたま知り合った。Snigalとひでかすは一軒の家を借りて一緒に住んでいた。同居人には他の国から来た人たちもいた。めっちーはひとりで都心の高級アパートに住んでいた。

ある時、めっちーとSnigalは車で島の反対側を旅してみようということになり、ひでかすを誘ったがひでかすはなまけもので一緒に行こうとはしなかった。めっちーとSnigalの二人は車で出かけた。小さな島ではあったが、島の反対側までは随分と時間がかかった。車はSnigalのもので四輪駆動車だった。車の前部には動物よけの大きなバンパーがついていた。彼はこの車が自慢だった。

彼らは島の真ん中辺りまで来たときに道の横に大きな水たまりを発見した。Snigalは水たまりに車を入れて四輪駆動の性能をためしてみたかった。彼はそれまで車を通勤に使うだけで、舗装道路以外を運転したことがなかった。水たまりはわずか15mほどの楕円形で、雨が溜まっただけのようだった。

Snigalは水たまりに3mほど車を乗り入れた。わずか10cmほどの深さで問題はないようだった。彼は俄然張り切り始めた。地球で言えば20世紀後半の日本で流行ったガンダムの操縦者になったような気になった。なんのこれしきの水たまり、グォーッ!

めっちーが止めるまもなく、車は深みにハマってしまった。前にも後ろにも進めない。アクセルを踏めばタイヤは泥をかき、ますます深く埋まっていった。Snigalはあきらめてめっちーと運転を交代した。めっちーはかつてジモニーという四輪駆動車を運転して荒野を駆けまわっていたことがあり、こういう状況には慣れていたからだ。

水溜りというのはどれも水面下の状況はわからない。いきなり深くなっているかも知れないし、ズーッと浅いままかも知れないし。浅く見えても泥が堆積してるだけで、入ると抜けられなくなったりする。Snigalはこの人生の哲理のような水溜りの状況をまるで理解していなかった。

めっちーは慎重にアクセルを踏み、タイヤが空回りしないようにつとめた。車はオートマチック車で、逆にこういう状況では操作が難しかった。いろいろ試みたが状況は好転せず、めっちーも諦めた。彼らには助けが必要だった。

めっちーはそこに来る途中で農家があるのを見ている。そこ行けば誰かが助けてくれる。めっちーは歩き始めた。幸い農家には人がいて、事情を話したらトラクターで駆けつけてくれると言う。が、トラクターは小さくて、何よりもオンボロだった。運転席の屋根も、エンジンのカバーもない、恐ろしく古い型のトラクターで、ふたつの大きな車輪だけが目立った。エンジンキーを回すとモーターが回り、エンジンがしぶしぶといったように回り始め、真っ黒な煙を吐き始めた。

Snigalはオンボロトラクターを見るやめっちーに一瞥をくれた。ソンナオンボロデ大丈夫デアルカ?しかし彼は人柄が良く出来ていたので、その不安を農夫には見せなかった。農夫は体が泥で汚れるのも厭わず、水の中に入っていって、Snigalの車にロープを結んだ。そしてオンボロの錆だらけのエンジンの後方にまたがった。後ろを見ながら慎重にアクセルを踏む。エンジンの回転がたいして上がらないうちにSnigalの車は動き始めた。

トラクターはタイヤこそ大きいが、車体はSnigalの車の半分ぐらいしかない。自らの足元がぬかっているにもかかわらず、あっさりとSnigalの四輪駆動車を水溜りから引き上げてしまった。めっちーとSnigalは農夫に駆け寄って仕切りと礼を言ったが、農夫は無口であった。田舎の人の素朴さか照れ屋なのか、ニコッと笑っただけであっさりと引き上げて行った。

旅は続いた。やがてめっちーとSnigalは島の西の果てに着き、そこから北へと向かった。左手は渺漠(びょうばく)たる大洋で、その果てにはデシャバール大帝国があった。彼らには行きたい場所があった。この島の出で、世界的な歌手となったエンヤコラと言う人の実家がパブをやっているというので、訪ねてみたかったのだ。エンヤコラはいなかった。パブのバーテンに聞くと彼女はお金が儲かったので今はこの国の首都ダボリンの郊外に暮らしているとのことだった。

エンヤコラをあきらめて二人はそこからわりと近くにある空港に向かった。Snigalとひでかすはヒコーキが大好きだった。めっちーもヒコーキが好きだった。しかし、その空港にはヒコーキはなかった。週に何回か旅客機が飛んで来るだけで、それ以外は何も飛ばないのだった。長く広い滑走路だけが退屈さのあまり、あくびでもしているように見えた。

退屈になってめっちーとSnigalのふたりは空港のフェンスに沿って車を走らせた。滑走路の端に来ると大きな建物が見え始めた。近づくとフェンスの内側に2台の消防自動車が停まっており、さらに建物の中に別にの一台があった。めっちーが車を降りて作業をしていた人に話しかける。どうやら消防士らしい。聞くとここはヒコーキがたまにしか来ないから出動はない、だけど消防車の整備はしておかないといけない、とのことだった。めっちーはもっともだと思った。そして、建物の中に入っているもう一台が気になった。それは丸みを帯びたモダンな形で、いままで見たことのない消防車だった。めっちーはフェンス越しに消防士に、あれは変わった形をしているね、と言うと消防士は我が意を得たりと言わんばかりに話し始めた。

残念なことにめっちーはその国の言葉がよく解らなかった。特に地方の訛りは解りづらいのだった。要約すると、あの消防車は最新式で、大陸にあるワシンダ国のものだという。めっちーが目を輝かせてフェンスにとりつき、さらにそれを見ようとしたら消防士が手を上げてちょっと待ってと言った。そして胸に付けている無線機で何かを早口で話した。するとどうだろう、建物の中にあった最新式の消防車が動き始め、こちらに向って来るではないか。運転席にいる消防士は笑いながらフェンスのそばにいる消防士と無線でなにやら話している。

四輪駆動車からはSnigalが出てきてめっちーに何事かと尋ねた。めっちーが経過を話すまもなく、最新式の消防車の屋根に着いている放水銃が動き始めた。消防車はいよいよちこちらの近くまで来て停まり、驚いたことに彼らの目の前で放水を始めた。目標は・・・・Snigalの四輪駆動車が狙われている。放水はフェンスを通して楽々四輪駆動車に到達した。その勢いはすざましく、すぐに車体が揺れ始めた。よく窓ガラスが割れないものだと思うほどの勢いと水量である。

めっちーとSnigalは小躍りして喜んだ。(総入れ歯、しばらく洗車してなかったなぁ。どうせなら車の反対側にも放水してくれればよかったのに・・・・)消防士たちも自慢気にニコニコしていた。彼らも遠~い東の国から来たヒマ人に一刻の無聊(ぶりょう)を慰められて幸せそうであった。

続く(かもしれない)

2011年7月15日金曜日

オッチョコチョイは治るか?

アイルランドを出て久しい。たまにダブリンにもどるときは我が敬愛すべきひできすとSnigelの両氏の隠れ家に投宿する。

ダブリンの郊外にある両氏のお宅は、アイルランド史上最初で最後の経済バブルを迎えた頃に建てられた高層アパートである。半円形をしており、見下ろす中庭もモダンなデザインである。寝室は2つ。つまり私が転がり込んでも、私の寝る所はない。居間が広いのでそこで寝ることにした。

気心が知れていると言ってもそこはやはりお互いの気遣いは欠かせない。居間を通らないことには彼らは台所に行けない。私が遅くまで寝ていては彼らが気を使うであろうから一計を案じた。私が都心のアパートを引き払うとき(私はオコンネルストリートから徒歩数十秒の文部科学省に隣接したビルに住んでいた)、キャンプ用のテントを彼らの家に持ち込んだのだ。使う当てはなかったが、捨てるのも惜しかったのである。そう、居間にテントを張った。これで私も独立した部屋の主になった。表札でも掛けたいくらいだ。しかし、そんなことをしなくても十分異様である。

当初両氏は私を指さして笑った。(特にSnigelは指差しのプロである。詳しくは彼のブログを御覧頂きたい。ちゃっかり広告が載っている。http://www.ikikou.com/new/)彼らは私をバカにしたいのだが、なに彼らも居間に張られたテントに入りたいのである。特別許可を与えると、嬉々として入っている。私よりもむしろ彼らのほうが喜んでいる。

何しろ物の多い家で、自室に収納しきれないものを居間に置いている。居間の入り口には本棚があり、あらゆるジャンルの本が並んでいる。懐かしいものでは昔郊外にあった日本人学校の図書室の、その蔵書のハンコが押された本まである。Snigelはほぼ10日から2週間に一回の割合でドイツに行くが、時々妙に大きな縫いぐるみを買ってくる。巨大ニシキヘビはいい。まっすぐに伸ばしておけば場所はさほど取らない。しかし、セントバーナードはソファの1.5人分を占領している。文句を言う勇気は私には無い。

文句を言えばたちどころに出て行け、と言われるのは間違いないからである。世界中の人々に対して親切で温厚を絵に書いたような人柄のSnigelも、こと私に対しては厳しい。私はかつて彼のガールフレンドを横取りしたこともなければ、食糧棚の奥に隠してあるウイスキーを盗み飲みしたこともない。少しは飲んだかも知れない。(Snigelは高級ウイスキーでも平気でコーラで割って飲む男である。勿体無いではないか?)

テントの出入口は壁に面しているが、その壁ぎわにひできすのシンセサイザーが置いてあり、出入りには非常に邪魔である。これはひできすが前の家にいたときに通販で買ったもので、当時は気に入って弾いていたが最近はとんとその音を聞かない。

テントから出るときは床から這い上がるようにする。真正面にシンセサイザーがあり、自然とこれにつかまらざるを得ない。ドッコイショ。(ひできすは怒るだろうな・・・)

ある朝のことである。私は日本から着いたばかりでろくに寝られない。時差ぼけでふらつく体を台所に運んで紅茶を入れるためのお湯を沸かす。ケトルに水を満たし、コンロに置く。居間に戻ってパソコンのスイッチを入れる。これはSnigelのもので、みんなで居間でDVDなどを見るときに使う。

私が朦朧とした頭でメールやニュースなどをチェックしていたその時である。なにやらイヤなにおいがする。顔を上げると台所方面から気のせいかうっすらと煙のようなものが漂い出ている。

台所ではにおいが一層きつく、なんとコンロから煙が出ている。驚いてケトルを持ち上げる。コンロは熱線ヒーターに丸い鉄板をかぶせた、こちらではありふれたものであるが、その表面に黒ぐろと丸い跡がついており、そこから煙が出ている。

おバカなケトルだなと訝(いぶかし)しく思う。底のほうを囲むようにしてプラスチックが張ってある。これでは焦げるのは当たり前で、こんなバカなケトルは見たことがない。時差ぼけの頭で考える。これではお湯が沸かせないではないかと思う。

持ち上げたケトルを置こうと周囲を見回すとすぐ横にちょうどいい大きさの黒いプラスチック製の皿がある。あれ、コードが付いている・・・。なるほど、そういうことであったか・・・。

私の長野の家では台所のコンロはIHである。コーヒー一杯分ぐらいの水ならヤカンをかければすぐに沸く。

私はそのまま逃走しようかとも思ったが、テントがある。置いて行けない。結果、私は元のものよりも数倍高価な電気ケトルを彼らにプレゼントした。

2011年7月14日木曜日

続 暖炉のにおい

12月24日の夕方に私は、天からの贈り物である特大サイズの薪を暖炉の奥に据えた。こんな巨大な薪を燃やせる暖炉などそうざらにはないだろう。朝から火がついているので、暖炉も煙突も十分温まっている。それは徐々に燃え始めた。

暖炉の天井から吊るされた自在鉤からは、大きな鋳物の鍋がぶら下がっており、その中には例の七面鳥が他の野菜たちと一緒に蒸されつつある。家中に香ばしい匂いが広がり、子供たちだけでなく、そこに居合わせた人々の心はみなそぞろである。

巨大薪は、一週間は燃え続けるだろうと思われたが、わずか二日で燃え尽きて天に帰っていった。(元々植物を構成する分子の大半は空中の二酸化炭素を取り入れたもので、燃えて天に帰るという私の表現はロマンチックでもなんでもない^^)意外とあっけないものであった。

この暖炉であるが、煮炊きにはいいが、肝心の暖を取るモノとしてはいささか欠点がある。すなわち、物が燃えるということは酸素が消費されるということで、消費された酸素はどこからか供給されねばならない。いま暖炉を作るとすれば外気の取入口を暖炉の入り口辺りにつくるであろうが、この建物にはそんなことを考えられた形跡はない。では、どこから空気は来るか???
(こんな理屈っぽいことを書くと女性の読者は離れていくだろうな・・・)
すきま風である。煙突の上下の気圧差で煙は吸い上げられる。その分暖炉内はわずかに陰圧になり周りの空気を吸い寄せる。家中のあらゆるすき間から文字通りのすきま風が暖炉を目がけて吹いて来るのである。

暖炉はその火に直接当たる人のみが暖かい。さらに言うと、あたっている人の暖炉側のみが暖かい。つまり背中は寒いのである。そして、焚けばたくほどすきま風が入ってくる仕掛けである。暖房としては、野原の焚き火よりはマシといった程度かも知れない。まして教授の家は床が石である。ラグ(絨毯より小さい部分的な敷物)のないところはかなり寒いのである。

人が入れるほどの大きさだといった。実際私も子供の真似をして何回も入ってみた。そして好奇心から暖炉の中から上を見上げてみた。真っ暗な中に小さな四角い明るいところがある。それが空。
空が見えるということは・・・・雨が降ったら、雨が暖炉に降り込むだろうに。しかし、現実に雨は降り込みはしない。火を焚いている時ならまだわかる。強い上昇気流があるから雨はそれに負けて入っては来れないかも知れない。でも、火を焚いていない時でも雨は入ってこない。

よく観察すると煙突は上に行くにつれて狭くなっているようである。これなら暖炉の辺りが煙突の先端より少しでも暖かければ上昇気流が起き、上に行くにしたがって空気の流れる速度は早くなる。これだろうか?

もう一つ。高い煙突は下からそれを望遠鏡のように覗けば昼間でも星が見えると聞いたことがある。試してみれば良かった。教授の家の暖炉は至る所煤だらけで、特に煙突は激しく煤だらけである。それどころか煤で煙道が狭まっている。煤は燃えるので、一度教授に気をつけるよう注意を促したことがある。がしかし、それは既に何回か燃え上がったことがあるそうである。一度火がつくと相当な勢いで燃え、煙突の先端からは火の粉が激しく吹き出したそうである。

教授は歳はとってはいるが長身で、いつも背筋が伸びている。古い言い方をすれば「ツルのような」痩せた老人である。髪は真っ白で額はそれらしく禿げ上がっていて広い。髭を剃ることは稀で、伸びた分だけハサミで切っている。歯は無い。いかにも大学教授を務めたようにきれいなブリテッシュ・イングリッシュを話す。

教授は今晩も暖炉の横の木製の椅子に座り、枯れた長い樹の枝のような足を器用に組んでその膝の上で手紙を書く。世界中に向かって平和を訴える手紙を書く。アメリカの大統領にも書いたことがあるそうな。ノーム・チョムスキーとはケンブリッジ時代の同窓生だそうで(※)、始終手紙を書く。そして、その返信を見たものは誰もいない。

※先ほどチョムスキーについて彼の学歴を調べたら、どうもケンブリッジは出ていないらしい。これは我がほら吹き教授のホラか、私の聞き違いだったかも知れない。

2011年7月13日水曜日

暖炉のにおい

昔、アイルランドの田舎に暮らしたことがあった。大学を退官した老教授の元に呼ばれて行ったのである。教授は英国人で、一応ケンブリッジを出ているが、自国が嫌いで第二次大戦後ダブリンのトリニティカレッジに職を求めた。早期に退職して田舎の古い農家を買い求め、奥さんと住み始めた。英国時代にひとり、娘をもうけ、アイルランドに来てからさらに一男四女を追加している。奥さんは下の子供達がまだ小さいうちに亡くなり庭の片隅に土葬された。

私が彼、S教授に呼ばれて行ったときは彼は既に七十の半ば近くになっていたはずである。私は彼のケアラー(ケアーをする人、の意)という名目で地元の警察に届けを出して滞在許可をとったのである。実際には教授は介護などを必要とする状態ではなく、至って健康なのであったが。

さて、その家である。2~3000坪はありそうな敷地に母屋、納屋、ガレージなどが並んでいる。いずれも半端な年代物である。古いは古いが、何百年というほどではない。一階には客間がひとつとバスルームがあり、それに居間である。台所は居間の片隅にある。二階には寝室が3つ。

英国植民地時代の水呑のそれであったのであろう。調度品なども高価そうな物はなにひとつない。居間のソファもスプリングが飛び出しかかっている有様で、肘掛けなどは長年にわたるお茶やコーヒー、鼻水やよだれでガビガビである。床は石敷きでなかなかいい。特にへっこんでいるところなどなく、それでいて適度にすり減っている。天井は二階の床下がむき出しで、真っ黒に煤けている。ところどころを黒く汚れた電線が碍子とともに走っている。中央から電球がぶら下がっており、辛うじて陶製の傘らしきものがついている。照明といえば他にもフロアースタンドなどがあるが、ほとんど使われてはいない様子である。

他に茶箪笥らしきものがあった。どれも手垢で汚れ、傷だらけである。引き出しなどもまともには出てこない。こつがいるのである。とにかく真っ直ぐ引っ張ってはダメである。窓は何年も開けた様子はなく、緑のペンキの剥げかかった窓枠に歪みのあるガラスがはまっていた。石造りの家なので、壁の厚さはある。その分室内側は飾り棚のようになっており、つまらない真鍮製の器や足のとれた小さな人形、古銭など様々な物が埃とともに雑然と置かれていた。

その家には大きな暖炉があった。田舎の村の中心からさらに外れたところにあった家なので、当時ガスや電気があったとは思われず、暖を取るにも調理をするにもこの暖炉が欠かせなかったであろう。私は170cmには欠けてしまうほどの背丈であるが、その私が軽く腰を屈めればすっぽりとその暖炉に入れた。いわんや教授の幼かった4女、5女などは寒いとよく暖炉の左右に入っていたものである。(教授はかなりの晩婚で、それを取り戻すべく頑張って遅くまで子づくりに励んだものらしい)

暖炉の中央からは自在鉤代わりの太い鎖が下がっており、これにSの字型の鈎をつけ、ヤカンなどをぶら下げていた。ティーポットなどはぶら下げるのに不都合で、火床に直接置いて薪や熾火などを少し手前に寄せて沸かすのだ。

長女は外国に行っており、母親が早くに亡くなっているので、実質的な家事は二女(当時二十歳くらいか?)と三女(同じく16歳くらい)が担当していた。二女は躁鬱の気質で、それでも気が向けば自在鉤に直径60cmほどの円形の鉄板をかけてスコーンなどを焼いてくれた。

クリスマスが近づくと近所の農家の人が七面鳥を持って来てくれる。昔、教授がひょんな事でその農夫の父親の難を救ったことがあり、それ以来毎年季節になると七面鳥を持ってくるという。身長は私と変わらない。ずんぐりとした体型で、首が文字通り胴体にめり込んでいる。教授が暖炉の前の椅子をすすめるとこっくりと頷いて座る。冬というのに粗末なシャツの胸をはだけ、汗でもかきそうに赤い顔をしている。お茶を勧めても、スコーンを勧めてもこっくりと頷くだけで、何も言わない。ティーカップを持つその指は太い。小指でも私の親指くらいは優にある。とにかく何も言わない。子供たちは気詰まりであるが、教授は頓着しない。たまに何かを話しかけるが、農夫は頷くか頭を横にふるばかりである。

当時、敷地の中に昔の納屋があり、これに手を入れて住んでいた流れ者の居候がいた。私は、その男とクリスマスの日用に特別大きな薪を用意しようということになり、古いノコギリをもって近所の農家の敷地に忍び込んだ。獲物は予め調査済みである。直径90cm程もありそうな木が切り倒してあるのだ。それはまるごと頂戴するには荷が勝ち過ぎるので、運べる大きさに切って持ってこようという作戦である。

結局、1m程の長さに切ったが重かった。居候が(私も居候同然だったが)助けを呼びに行った。妙に靴をピカピカに磨き上げるのが好きなユダヤ人の J が来た。教授に何故彼はそんなに靴を磨くのか聞いたところ、明快な答えは得られなかった。田舎の泥道しか歩かないのに、彼はピカピカの革靴を履いて居候と共に走ってきた。細身を黒っぽい服で包んであごひげを風になびかせて、その助っ人は来た。が、頼りにはなりそうもない。

私たちは倒けつ転びつ(こけつまろびつ)、しかし、密やかに獲物を運び出し始めた。が、地主に見つかると大変なので、最初は話もせずに作業に熱中したが、ふとお互いの顔を見ておかしくなり、途中で笑をこらえることができなくなった。力が入らず、持つのを諦め、薪を転がし始めた。道に出た頃には辺りを憚ることなく大きな声で、お互いを間抜けだ、ドジだと言っては笑い転げた。

教授は貧乏なので、ちゃんとした薪は買えない。近所の農家に頼んで切り倒した雑木や根っこなどを買う。お金がある時はターフを買う。ターフはピートの若いやつである。アイルランドではイギリスの植民地時代に多くの木々が切り倒され、植林も積極的にはされなかったようで、今や薪は貴重品である。一方、ターフはそこここに無尽蔵と言っていいくらいある。ただ同然だが、掘り起こす手間と、乾かす時間、そして運ぶ手間がかかる。木々の細かい枝などはいくらでも手に入るが、火にくべると瞬く間に燃えてしまう。

※ターフ(Turf)・・・辞書をみると泥炭とある。ピートはスコットランドでは麦芽をこの煙で燻してウイスキーに薫りをつける。ターフはピートより若い泥炭とのことである。

話しは佳境に入りつつあるが、今日はこれまで。「続 暖炉のにおい」は後日ということで。

2011年7月11日月曜日

ゴドーを待ちながら

庭に芝を敷きたいと思った。しかし、敷きたい場所はおよそ150坪はある。金は・・・ない。

一週間後にはしばらく日本を離れる、という5月のある日、芝生が天から降ってきた。そんな訳はない。頂いたのである。家のリフォームやら庭仕事をたまに手伝っている、その親方から頂いた。あるお宅から依頼されて広大な庭に芝を敷き詰める仕事をやっていて余ったのだそうな。芝は植えたからと言ってその全部がきれいに育つわけでもないし、隅々まで必要とされる面積を正確に見積もれるわけでもない。だから常に多めに見積もるのである。

※芝は種で売っている物と、ある程度育てて土ごと40cm四方位に切り、これを10枚を一束にして売っているものがある。値段は品種によって違う。頂いたのは束になったもので、隣家のご主人によると、「姫高麗」だそうな。高いものらしい。

突然降ってこられても、どの場所がいいのか、どう植えればいいのかさっぱりわからない。時間が経てばその分芝生は元気を失ってゆき、やがては枯れてしまう。すでに親方の現場で長く放置されて出番を待っていたに相違なく、一刻も早く植えて水をやりたい。こちらもヨーロッパ行の準備がいろいろあって忙しくなってきた。(これは子供の夏休みの宿題と同じで、早くからやっておけば問題ないものを・・・)

我が家の庭は、ゆるい北向きである。それを削ってある程度平にしたので、段々が出来ている。これが雨や冬場の霜で少しずつ崩れてゆく。これを芝をはることによって防ごうと思った。丹念にやっているとキリがないので東西方向に水糸を張っていきなり芝をはり始めた。

始めると面白い。夢中でやっていると時間はあっという間に経ってしまう。気がつけば辺りは夕闇が漂い始めている。終えた仕事を満足気に見渡し、ひとりほくそ笑む。まだまだ修正が必要だが悪くない。芝を植える時期もこれで終わりである。間に合った。

振り返ってみれば幼い頃から「待ち」が得意であった。意識して何かを待つわけではない。

ダブリンにいた頃、ベケットの「ゴドーを待ちながら」を見たことがある。聞けばその監督も配役もかなりいいものだったと言うことだ。演劇など普段見ることはない。たまたま友人が誘ってくれたから行ったに過ぎない。

田舎道に二人の男が立っていて、何かを待っている。男は何を待っているのかを尋ねられるが、男は「ゴドーを待っている」と答えるのみで、それが何なのかは男自身もわからない。そのうち男は忘れてその場を去ろうとするが、もう一人の男にゴドーを待っているのじゃなかったのか、と言われ、またその場に立ち始める。

そんな内容だった。

若かった頃に一度だけこれを文庫本か何かで読んだ記憶がある。さっぱり解らなかった。その演劇もさっぱり解らなかった。もともと抽象演劇であるし、文学や芝居などには縁のない非学浅才の輩である。しかし、魅かれるようにみた。

それから十数年が経った。最近になって自分のことで気がついたことがある。私は「待ち」が得意なのではないだろうか、ということである。

何をなすにも「機」は重要である。天にはたくさんの果物が生っており、これが機を得て熟し、自然とポトリと落ちてくる。誰のもとにも、そのタイミングでポトリと落ちてくる。地上では人々が口を開けてこれを待っている。小さな果物に大口を開けて待つ人もいれば、果物のないところで口を開けて待つ人もいる。せっかく果物が落ちてきたのに口を閉じている人もいる。その姿は様々である。

私の場合、なんとなく口を開けたら芝が落ちてきたり、仕事が落ちてきたりするのである。「棚ボタ」などとは違う。この「なんとなく」が人智では計り知れない何かが働いた結果のような気がしてならない。

2011年7月9日土曜日

続 英国

まだ、英国にいる。夏の間は日本に帰るつもりは・・・ない。

ここはスコットランドの北部である。緯度は北欧ストックホルムやアラスカのアンカレジと大差ない。日本の近くで言えばカムチャッカ半島の付け根のあたりである。樺太の北端よりかなり北であることは間違いない。気候は温暖である。意外に思われるかも知れないが、メキシコ湾流の影響でここより緯度の低い(つまり南の)ヨーロッパの内陸よりはかなり暖かい。しかし、緯度が高いということは夏は日が長く、冬は日が短い。先日夏至を迎えたときは深夜近くなっても外で新聞が読めるほどであったし、朝は3時過ぎにはもうすっかり明るい。

夏は暑くなくては、という人にはここは向かない。毎日イチゴが食べきれないくらい赤くなっても朝夕は長袖のフリースが必要なほどで、雨など降れば暖房が必要になることも稀ではない。ここは夏が短い。夏が短いところはそれが急にやって来る。一斉に草花が芽を吹き、花を咲かせ実を結ぶ。暑い夏はここにはない。しかし昼の時間が長いのと雨がよく降るので植物がよく育つ。

ここは日本に比べると虫が圧倒的に少ない。(蚊やアブ、危険なライム病を媒介するダニはいる)ゴキブリやバッタなどは見たことがない。ガも蜘蛛も少ない。蛇やトカゲなどはいるらしいが私は見たことがない。(そのかわり湖にはネッシーがいるが)

自然は好きだが虫が苦手という人にはもってこいの場所である。物価は安くはないが、人々は親切である。問題は彼らの早口と訛りである。

私の初めてのスコットランドはセントアンドリュースである。ゴルファーたちのメッカである。ゴルフ界で「The Open」と言えばここで行われる大会のことだそうな。またチャールズ皇太子の息子ウイリアム王子が卒業した古い大学の街でもある。繁華街は小さく、賑わいはないが古い建物が多く、清潔で落ち着いた雰囲気であった。わずか一週間ほどの滞在だったと記憶しているが、一番心に残ったことが彼らの訛りである。

私はエジンバラで飛行機を降り、バスに乗ってセントアンドリュースに着いた。そこから知人宅まではタクシーである。ところがタクシー乗り場が見つからない。標識どおり歩いても場所がわからず、同じところを行き来した。するとひとりの男性が私に近づいて来て、何かを言った。わからなかった。3回ほどだったか聞き返すと男性は途方に暮れたようだった。そこにもう一人男性が現れ、何か言った。私には解らない。私はほんの少し英語ができるだけで、他の外国語は解らない。2人の男性は何か話している。この二人は同じ国から来た人たちらしい。

私は二人にタクシーと繰り返し、行き先の住所を書いたメモを示した。すると彼らのひとりが地面を指し何か言った。見ると確かに薄くはなっているがアスファルトの上にペンキでTAXIと書いてある。見つからない筈である。私はタクシー乗り場にはポールが立っており、そこにタクシーと書かれてるものだと思って探していたのだ。

そこに折よくタクシーが来た。なんと男性は私のメモを取り上げてタクシーの運転手に何事か話しているではないか。驚いたことに彼らの会話は成り立っていたのである。私は二人の男性は最初から外国人だと思っていた。しかし、ここで気がついたのである。大都会ならいざしらず、タクシー運転手は地元の人に違いないと。そして地元の人間と話しが通じるなら二人の男性もまた地元の人間に違いないと。

彼らはスコットランド人だったらしい。そして彼らが運転手に話していたのは、この東洋から来た紳士がこの住所のところに行きたがっている、ついてはよろしく頼みたい、とこう言うことだったらしいのだ。

かねてから聞いていたスコットランド訛りの洗礼をあびたわけであった。出発目前に、ある人は私のために真剣に彼らの訛りの強いことを心配し、またある人はニヤニヤしながら私をからかった。

それにしてもこの訛りの強さはどうだ。人々の優しさはどうだ。この気候の良さはどうだ。(私のいるところはスコットランドでも海流の関係で特に気候がいいらしいが)

追記
ある時、街のある団体の食堂で昼ごはんを食べていたら、日本人の団体が押しかけてきて断りもなく人の食事風景をカメラにおさめ始めた。日本でだって勝手に人にカメラを向けるのは失礼だと思うのだが、カメラを持っていると何か特別な権利でも自動的に生じるのだろうか。非常に不愉快な思いをした。

2011年7月7日木曜日

英国

いま英国にいる。英国では食洗機がない場合、日本では考えられない不潔な方法で食器を洗う。

一般家庭の台所には30cm四方くらいのシンクが2つ並んでおり、双方にお湯を満たし、一方には洗剤を入れる。汚れた食器を洗剤の入ったシンクで洗い、それを隣のシンクにあるお湯にざっと通して湯切りのためにラックに立てる。流しっぱなしのきれいなお湯ですすぐことはしない。程々のところで、ドライアップと言って乾いた布で拭き、それでオシマイ。(これはまだましな方で、多くの家では洗剤で洗い泡だらけのまま乾いた布でドライアップする)最初のうちはまだ双方のお湯がきれいだからいいが、次第に汚れてきてシンクの底が見えなくなっても平気でこの作業を続ける。不潔だし、洗剤の成分が食器に残るは必定と思われる。これ故に私は食洗機のない家での食事はスムーズに喉を通らない。(私は食にあまり興味がないので、英国名物の料理の不味さはあまり気にならない)

日本では英国をめくら信仰している人が多い。政治も英国をお手本にしているそうな。西洋の民主主義をそのまま日本に持って来て機能させようとするから無理がある。自分の国のことは自分で研究して考えればいいではないかと思う。いま日本は未曽有の危機にみまわれているが、小田原評定という民主主義の悪弊ににっちもさっちも行かない。この民主主義の取り入れ方は<お隣が新車買ったからうちも買わねば主義>と大して変わらない。

英国がそんなにいいのなら何故英国にはあんなにたくさんの監視カメラがあるのだろうか。異常な数の監視カメラに我々は見張られている。犯罪が多いのである。英国がいい国なら犯罪が多いわけがない。移民の問題も大きいだろうが、その原因をつくったのは誰なのだろう、と言いたい。

多くの日本人はお馬鹿な日本人が英国滞在した経験を本したものを読み、それを鵜呑みにして憧れる。一旦インプリントされてしまえば鰯の頭も、犬の糞も英国製なら彼らにはかっこいいのである。英国を知りたければ労働階級の人々の暮らしも知るべきだ。言葉などは労働者階級のものはさっぱり理解出来ない。学校や英会話学校で習った英語は相手に通じはするが、聞き取りにはまったく役に立たない。彼らの言葉遣いはかなり下品だ。マナーも悪い。群盲象を評す、と言うが英国礼賛の本を書いたおえらい先生方も間違いなく「群盲」の一部であろう。

英国の建物は素晴らしい。ウエストミンスター寺院やバッキンガム宮殿などは有名で、何回見てもその素晴らしさは変わりはない。ロンドンだけではない。地方に行っても教会から古城、そしてもう少し規模の小さな館などもある。小さな町に行っても必ずと言っていいほど博物館があり、それらの殆どは無料で観られる。

ローマが一日にして成らなかったように、ロンドンも長い時間と労力、そして金をかけて造り上げられた街である。そして、ローマがそうであったようにロンドンも・・・・自力でというよりは植民地から吸い上げた血で成り立っていると言っても過言ではないだろう。

アフリカ、オーストラリア、カナダ、アメリカ、インドなど、世界のかなりの部分を英国一国で占めた時期があった(世界の四分の一の人口と面積だったらしい)。それらから絞り上げた富を持ち帰り、本国建設に投じた結果が我々の見るロンドン塔であり、ロンドンブリッジなのだ。大英博物館などは無料どころか、見学をしたらお金をくれてもいい位なのだ。

英国の世界に対してしてきたことを羅列するとプラスよりはマイナスが遥かに多いことだろうと事は想像に難くない。阿片戦争などはその典型である。お茶が欲しくて中国から輸入し、対価を銀で支払い、これを取り戻すためにインドで栽培した阿片を中国に売りつけた。形の上では中国はインドの阿片にやられた。しかし、中国がインドに阿片の対価として支払った銀は当時の宗主国である英国に行ったのである。中国はボロボロになった。頃合いを見計らって英国は戦争を仕掛け、楽勝して香港を巻き上げた。(戦争の仕方も狡猾で汚い)近くはアルゼンチンの領土であるマルビナス諸島で起きた戦争である。英語ではフォークランド諸島と言う。みなさんには地図を見て欲しい。英国はかつて武力と屁理屈を使い分けてこの島々をとった。アルゼンチンは武力では英国にはかなわない。

英国人はカナダやアメリカではどれほどの先住民を虐殺してその土地を奪ってきたことか、オーストラリアやニュージーランドではどれほどの先住民をを虐殺してきたか、アフリカでどれほどの人々を虐殺してきたか・・・。これらの総数はおそらくアドルフ・ヒトラーのユダヤ人虐殺より多いかも知れない。(また、アフリカではどれほど多くの人が奴隷として悲惨な目に遭わされたことか)

不思議なのはこれだけ英国に酷い事をされても被害にあった国々は英国に恨み言を言わないことである。中国などは日本に対しては第二次大戦をネタに今だに金をゆすろうとしているのに、英国には一切文句を言わない。英国自身も過去に行った地球規模の残虐行為には反省や謝罪どころか口を閉じたままニンマリと笑っている。

斜陽と言われながら今でも原子力潜水艦や優秀な戦闘機を持っている。どこにそんなお金があるのだろう。この国は陰で何をしているかわからない。(日本がおマヌケすぎるのか?)
この国が過去にしてきたことの善悪はともかく、端倪すべからざる国である。

2011年7月6日水曜日

そんなモノだ、を疑う。

女性が化粧をするのはなぜだろう、とずっと前から考えていた。男性が強くなりたいと思うのはなぜだろう、とも思っていた。

最近になってそれは本能のせいもあるだろうが、もしかしたらそんなモノだと思っているからではないだろうかと思うようになった。欧米では居間にはソファが当たり前である。日本でもそれが当たり前になってきた。これも戦後にアメリカの文化が強烈に入ってきて、圧倒的な「ものの力」を見せつけられ、恐れいって何もかもアメリカをよしとするするようになった結果ではないだろうか。そのうち時間の経過と共に押し付けられたものを疑うこともせずにそんなモノだと思うようになったのではないだろうか。

何でも外国語にすれば格が上がる、と思っている人が大半である。国会のエライ先生方もそうである。みんなそんなモノだと思っているらしい。

日本の国会でマニフェストだの、バジェットだのと言っているのはバカである。この程度の政治家がりっぱな政(まつりごと)を司(つかさど)れるわけがない。また、こんな政治家を選ぶ国民も国民だ。
新聞もバカである。記事の中にマニフェストと書いてその後に括弧でくくって政権公約などと書いてある。括弧で政権公約などと説明を入れるくらいなら最初から政権公約のほうがはるかに多くの国民に伝わりやすいではないか。

悲しいほど軽薄な国民性である。意味もわからずに集合住宅をマンションと呼ぶ。タダのアパートに外国語の頭飾りをつけて箔をつけようとしている。メゾン青木などというからどれだけ立派な建物かと思ったら、オンボロの木造アパートだったりする。はやりのショッピングモールとやらに行って店々の看板を見るとあ然とする。そのほとんどはカタカナで外国語。ひどいのはアルファベットである。そりゃ読めないことはないが、何で日本国内で外国の名前にする必要があるのだろう?

私が嫌いなもののひとつに、自分の名前を外国人風にして得意がっている人たちが多いことがある。芸能人が多いが、一般人にも多い。マイケル・古賀などというから、バタ臭い日系二世かと思いきや典型的な蒙古型の日本人であったりする。己の固有性を放棄する愚かな行為だと思うが。

言い訳がましいが、私の名前のみっちーは道生(みちお)から来ている、幼い頃からの呼び名である。同じバカでもあのような軽薄なバカとは一緒にしないでもらいたい。

だめ押しの一発。歌の歌詞である。突然外国が混じる。日本人が日本人向けに歌ってる歌に突然である。これをほとんどの人は疑わない。中には日本語の歌詞を外国語調で歌う軽薄人もいる。これをカッコイイとしてカラオケで真似る。何の必要性もない。単純に外国語をかっこいいと思っているのだろう。

さて、自分を取り囲むすべてのものをそんなモノだと思っていたら、あなたという存在はどこにあるかわからなくなるのだが、それを承知だろうか?自分の力で疑って初めて自分があるのだが・・・。さもなくば一生騙されたままで終わってしまう。自分の頭を盗まれても気がつかないのはやはりバカとしか言いようがない。

我疑う、ゆえに我あり。これである。