2011年7月11日月曜日

ゴドーを待ちながら

庭に芝を敷きたいと思った。しかし、敷きたい場所はおよそ150坪はある。金は・・・ない。

一週間後にはしばらく日本を離れる、という5月のある日、芝生が天から降ってきた。そんな訳はない。頂いたのである。家のリフォームやら庭仕事をたまに手伝っている、その親方から頂いた。あるお宅から依頼されて広大な庭に芝を敷き詰める仕事をやっていて余ったのだそうな。芝は植えたからと言ってその全部がきれいに育つわけでもないし、隅々まで必要とされる面積を正確に見積もれるわけでもない。だから常に多めに見積もるのである。

※芝は種で売っている物と、ある程度育てて土ごと40cm四方位に切り、これを10枚を一束にして売っているものがある。値段は品種によって違う。頂いたのは束になったもので、隣家のご主人によると、「姫高麗」だそうな。高いものらしい。

突然降ってこられても、どの場所がいいのか、どう植えればいいのかさっぱりわからない。時間が経てばその分芝生は元気を失ってゆき、やがては枯れてしまう。すでに親方の現場で長く放置されて出番を待っていたに相違なく、一刻も早く植えて水をやりたい。こちらもヨーロッパ行の準備がいろいろあって忙しくなってきた。(これは子供の夏休みの宿題と同じで、早くからやっておけば問題ないものを・・・)

我が家の庭は、ゆるい北向きである。それを削ってある程度平にしたので、段々が出来ている。これが雨や冬場の霜で少しずつ崩れてゆく。これを芝をはることによって防ごうと思った。丹念にやっているとキリがないので東西方向に水糸を張っていきなり芝をはり始めた。

始めると面白い。夢中でやっていると時間はあっという間に経ってしまう。気がつけば辺りは夕闇が漂い始めている。終えた仕事を満足気に見渡し、ひとりほくそ笑む。まだまだ修正が必要だが悪くない。芝を植える時期もこれで終わりである。間に合った。

振り返ってみれば幼い頃から「待ち」が得意であった。意識して何かを待つわけではない。

ダブリンにいた頃、ベケットの「ゴドーを待ちながら」を見たことがある。聞けばその監督も配役もかなりいいものだったと言うことだ。演劇など普段見ることはない。たまたま友人が誘ってくれたから行ったに過ぎない。

田舎道に二人の男が立っていて、何かを待っている。男は何を待っているのかを尋ねられるが、男は「ゴドーを待っている」と答えるのみで、それが何なのかは男自身もわからない。そのうち男は忘れてその場を去ろうとするが、もう一人の男にゴドーを待っているのじゃなかったのか、と言われ、またその場に立ち始める。

そんな内容だった。

若かった頃に一度だけこれを文庫本か何かで読んだ記憶がある。さっぱり解らなかった。その演劇もさっぱり解らなかった。もともと抽象演劇であるし、文学や芝居などには縁のない非学浅才の輩である。しかし、魅かれるようにみた。

それから十数年が経った。最近になって自分のことで気がついたことがある。私は「待ち」が得意なのではないだろうか、ということである。

何をなすにも「機」は重要である。天にはたくさんの果物が生っており、これが機を得て熟し、自然とポトリと落ちてくる。誰のもとにも、そのタイミングでポトリと落ちてくる。地上では人々が口を開けてこれを待っている。小さな果物に大口を開けて待つ人もいれば、果物のないところで口を開けて待つ人もいる。せっかく果物が落ちてきたのに口を閉じている人もいる。その姿は様々である。

私の場合、なんとなく口を開けたら芝が落ちてきたり、仕事が落ちてきたりするのである。「棚ボタ」などとは違う。この「なんとなく」が人智では計り知れない何かが働いた結果のような気がしてならない。

0 件のコメント:

コメントを投稿