2011年7月6日水曜日

そんなモノだ、を疑う。

女性が化粧をするのはなぜだろう、とずっと前から考えていた。男性が強くなりたいと思うのはなぜだろう、とも思っていた。

最近になってそれは本能のせいもあるだろうが、もしかしたらそんなモノだと思っているからではないだろうかと思うようになった。欧米では居間にはソファが当たり前である。日本でもそれが当たり前になってきた。これも戦後にアメリカの文化が強烈に入ってきて、圧倒的な「ものの力」を見せつけられ、恐れいって何もかもアメリカをよしとするするようになった結果ではないだろうか。そのうち時間の経過と共に押し付けられたものを疑うこともせずにそんなモノだと思うようになったのではないだろうか。

何でも外国語にすれば格が上がる、と思っている人が大半である。国会のエライ先生方もそうである。みんなそんなモノだと思っているらしい。

日本の国会でマニフェストだの、バジェットだのと言っているのはバカである。この程度の政治家がりっぱな政(まつりごと)を司(つかさど)れるわけがない。また、こんな政治家を選ぶ国民も国民だ。
新聞もバカである。記事の中にマニフェストと書いてその後に括弧でくくって政権公約などと書いてある。括弧で政権公約などと説明を入れるくらいなら最初から政権公約のほうがはるかに多くの国民に伝わりやすいではないか。

悲しいほど軽薄な国民性である。意味もわからずに集合住宅をマンションと呼ぶ。タダのアパートに外国語の頭飾りをつけて箔をつけようとしている。メゾン青木などというからどれだけ立派な建物かと思ったら、オンボロの木造アパートだったりする。はやりのショッピングモールとやらに行って店々の看板を見るとあ然とする。そのほとんどはカタカナで外国語。ひどいのはアルファベットである。そりゃ読めないことはないが、何で日本国内で外国の名前にする必要があるのだろう?

私が嫌いなもののひとつに、自分の名前を外国人風にして得意がっている人たちが多いことがある。芸能人が多いが、一般人にも多い。マイケル・古賀などというから、バタ臭い日系二世かと思いきや典型的な蒙古型の日本人であったりする。己の固有性を放棄する愚かな行為だと思うが。

言い訳がましいが、私の名前のみっちーは道生(みちお)から来ている、幼い頃からの呼び名である。同じバカでもあのような軽薄なバカとは一緒にしないでもらいたい。

だめ押しの一発。歌の歌詞である。突然外国が混じる。日本人が日本人向けに歌ってる歌に突然である。これをほとんどの人は疑わない。中には日本語の歌詞を外国語調で歌う軽薄人もいる。これをカッコイイとしてカラオケで真似る。何の必要性もない。単純に外国語をかっこいいと思っているのだろう。

さて、自分を取り囲むすべてのものをそんなモノだと思っていたら、あなたという存在はどこにあるかわからなくなるのだが、それを承知だろうか?自分の力で疑って初めて自分があるのだが・・・。さもなくば一生騙されたままで終わってしまう。自分の頭を盗まれても気がつかないのはやはりバカとしか言いようがない。

我疑う、ゆえに我あり。これである。

0 件のコメント:

コメントを投稿