2011年7月21日木曜日

バブルでござんす(アイルランドの往時を偲ぶ)

時節はアイルランド史上最初にして最後の経済バブルであった。EU政府がヨーロッパでもっとも貧しい国のひとつに巨額の投資をしたのだ。なぜか最初に来たのは中国人だった。次にポーランド人をはじめとする東欧人が来た。ダブリンには建築のためのタワークレーンが林立した。仕事はあったが、住むところが追いつかなかった。

家賃は瞬く間に高騰し、アイルランド人は豊かになった。特に不動産持ちはあっという間に豊かになった。車庫や倉庫、物置を改造し、それを貸し出せばすぐに借り手は現れる。新聞に広告を出せば問い合わせが殺到した。電話で問い合わせると常に「もう決まった」と言う返答が帰ってきた。

中国人はしたたかである。彼らは外国に於いてはかなり強い結束をしめすようだ。日本人ほど社会的な地位に恵まれる訳ではない。多くは社会の底辺で暮らす。小売商の店員や掃除夫などをする。想像ではあるがそれで辛抱して小金をためて自分の店を持つパターンが多いようだ。小なりといえども、一国一城の主である。どちらが良いかは一概には決められない。

彼らに孔子や老子などの子孫たる自負やメンタリティーはない。後年発生した禅思想などとともにそれは日本で花開き、受け継がれたが本家中国にはもうないのだ。従って同じような顔をしているからと言って同じ傾向の考え方や情を持つと思うのは大きな間違いである。彼らは歯ブラシ一本あれば親類を頼って世界中を歩くと言う。

あるアパートや貸家でひとり中国人を見かけたら、陰にその数倍の中国人がいる、等と言われていた。実際彼らは一部屋を確保すると次々と人を呼び、大人数で暮らす。家賃を頭数で割れば、ダブリンの高額な家賃もそれほどでもなくなる。私などは部屋が借りられなくて随分長い間ホステル暮らしだったが、中国方式の方が安く、安全であったろうと思うのだが。

もし、私が中国人だったら部屋を確保した段階で、次々と人を呼んで頭数で割った家賃にほんの少しだけ各々に上乗せして自分の分をタダにしたであろう。←こんなことを考えるからSnigelやひできすなどの大人(たいじん)以外は相手にしてくれなくなる。

さて、バブルの狂気はそれが破裂してその破片を拾い集めたときにしみじみと感じられるものである。このブログを読まれている読者数はひできすとSnigelの両氏のTwitterのつぶやきで、一挙に増えた。地域もヨーロッパ、アメリカ、東南アジアまで広がった。日本語でしか書いていないので、読者のみなさんの大半は日本人であることと思うが、その中にも日本のバブルを肌身で感じた方々もおられることと思う。それが異国に暮らす私の目の前で再現された。

私が目撃したアイルランドのバブルは例えば首都ダブリンのリーフィー川に浮かぶ観光船である。平底の屋根が透明なやつである。隅田川に浮かぶ屋形船をモダンにした感じである。私は当時、川の南岸にあるジムに通っていたので、ランニングマシンで走りながら、この船の試験航行をながめていたものである。船着場がそこからはよく見えたのだ。当初からこの事業には首をかしげていた。

船着場を出て河口近くの折り返し地点まで行って引き返しても全行程は2kmそこそこである。両岸はコンクリートで固められている。干満の差がある。橋がある。見るものがそれほどないなど、素人が見ても成り立たない事業である。

行程が短い・・・・・・・・お金がとれない。
両岸コンクリート・・・・風情がない。
干満の差・・・・・・・・・・干潮の時はこれに阻まれて景色は見えないだろう。おまけに川底の堆積したゴミ(ショッピングカート、古タイヤ、ミイラetc)が露呈する。満潮時は船の屋根がつかえて橋の下を航行出来ないであろう。
見るものがない・・・・・カスタムハウスとオコンネルブリッジくらいである。

船を新造し、川に浮桟橋を作り、人件費をかけ、念入りに試験航行を繰り返しているうちにバブルがはじけてしまった。その後どうなったかは知らない。

もう一つ。ダブリン市内を走るバスである。市内は二階建てバスが走るように出来ている。これは言うまでもなくイギリスの影響で合理的である。ここに2両連結のバスが走り始めた。大量に購入され、長いことバス会社の駐車場に新車のまま雨ざらしになっていた。運行は開始されたが、走れるルートは限られる。普通のバスの2倍まではないが、かなり長いので街角を曲がりきれないのだ。おまけに運転が難しい。信号で先がつかえているとその長さ故に簡単には前に進めない。無理に進むと交差点を完全にブロックしてしまう。(他にもあるが今日は勘弁してやる)いずれにせよ金余りか賄賂の結果だと思われる。

車である。少し金ができる。しかし、家を買うほどにはなっていない。こんな時に人々が買い求めるのは車である。最初にたくさんの人が日本の中古車にむらがった。新聞にも日本車の部品があります、などと広告が出ていた。当地は右ハンドルの国であるため、中古車の輸入は日本からが便利だったものらしい。何よりも故障しない、燃費がいい、きれい、この3点だったと思う。これ故、タクシーなどはほとんどが日本車かドイツ車であった。フランス車やイタリア車などはないのであった。この後さらに豊かになると、こんどはドイツ車が多くなったようだ。小金ができると人は次に見栄にはしるものらしい。

その頃、我が師Snigelはカローラのセダンに乗っており、確か中古ながら日本から直輸入したと言っていた。随分世話になったものである。いい師であった。(おいおい)

バブルでござんしたよ。

いまやダブリンは至るところ新築されてそのまま買手も借り手もないまま時間がたったビルが散見される。

1 件のコメント:

  1. 昨日私の放ったスパイからの情報によると、観光船はまだ生きながらえているようです。借金が大きすぎてつぶせないとかでしょうか?往時でさえ乗る人は稀でしたが・・・。
    また、2両連結バスは空港横にある大きな駐車場でまたもや雨ざらしだそうで、ヒコーキの離発着時に空から見えることがあるそうです。

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