2012年7月28日土曜日

いかに生きるか その1

ちょっと前に友人から大陸の方では(欧州大陸のことです)、夏らしい天気になったという便りがあった。それなのにここスコットランドでは冬ほどではないにしろ朝晩の暖房は欠かせない。外出もいつ寒くなるかわからないし、雨も頻繁に降るので長袖や雨具は必需品である。こんな気候でも赤や黄色、そして紫や白の花々が咲き乱れ、りんごの実は確実に大きくなってゆく。

友人から芝刈り機が壊れたので見て欲しいと頼まれ、片道40分ほどをかけてのんびりと歩いていった。広大な牧草地と森があり、その中に農家が点在する。道路脇には新しい家がポツポツと建っている。珍しく晴れて、お互いを引き立てるように青い空とそれを背景に白い雲がところどころに浮かんでいる。

門柱があってすぐその内側にマッチ箱ほどの家がある。きれいに建て替えられてはいるが、これはこの辺りの大地主の門番小屋だったものだろう。奥に続く道は木々がトンネルのように覆いかぶさり、さらにゆるく曲がっていて表から母屋は見渡せないようになっている。機会あってそのひとつに滞在したことがある。大地主の館であったであろう古い建物にはいくつ寝室があるかわからないほどで、屋根裏は物置になっており、日本の骨董屋が見たらそわそわと手もみをしそうな古い家具や道具類が埃をかぶったまま眠りについていた。食堂には堂々としたテーブルや椅子が置いてあり、庭を見渡せる窓には今でさえ高価であろう曲面硝子がはまっていて、よく見ると表面が歪んでいたりわずかな気泡があったりで相当古いものであることが想像されるのだった。外には使用人達が寝起きしていたと思われる粗末なレンガ造りの建物があり、これはそのまま納屋に続いていた。

道は続く。歩道は途中でなくなって、やむを得ず車道を歩くのだが、こちらでは集落をすぎると車はスピード無制限が普通であり、危ないことこの上なし。車同士がすれ違うときなど私がいるせいで右を走っている車は左の車が行き過ぎるのを待たねばならない。気の毒なので道から外れて草むらの中に立ち、車をやり過ごすと行儀がいい、大半はしっかり手を上げてありがとうの合図を送ってくれる。

この様にみんなちょっとだけ譲り合って生きれば世の中は過ごしやすくなりだろうに、と思う。現実は逆で、多くの人が少しでも自分の都合の良いように物事を持って行きたがる。その「少し」が人口分だけ重なって地球を住みづらくする。他の生き物にも迷惑をかける。結局は自分にそれがふりかかってくる。

「いかに生きるか」を学ぶことは学校で算数や国語を勉強することよりもっと大事なことなのに・・・。

「いかに生きるか」の前には省略されている言葉がある。すなわち生き物として、動物として、人間として、日本人として、男(女)として、大人として、みっちーとして「いかに生きるか」などである。これらひとつひとつを論じるのは大事なことなのだが、中でも「人間としていかに生きるべきか」は基本であり大層な問題のはずだ。ただ本能(欲)にしたがって生きるのであればそれは別にサルでも構わないはずだ。しかし、サルはサルらしく、人間は人間らしく生きるのがスジというもので、そのためには「人間とは」を明らかにしなければならない。

世の中には「欲」にしたがって生きる人が多い。私たちは「欲」無くしてはこの体を永らえることは叶わない。しかしながら、制御のない「欲」にしたがって生きるのであれば前述のとおりサルでも構わないはずである。サルは「欲」に従って生きても他の動植物に迷惑をかけることはない。人間は「欲」を制御しながらでなければ生きてはいけないのである。人間が関わって絶滅に追いやられた種は多い。人間はその無制御な「欲」によって自らをも絶滅の危機に追いやりつつある。



この記事は書きかけのまま放置されていたもので、まだ完成していませんが苦し紛れに発表いたしますです、ハイ。写真はスコットランドの田園風景

2012年7月5日木曜日

語りえぬもの、とは。(読まないほうがいいです。自信アリます ^^; )

ある偉い哲学者が、「語りえぬものについては沈黙をしなければならない」と言ったそうな。数千年にも及ぶ人類の哲学の積み重ねを、ある意味すべてぶっ壊してしまいそうな言葉なのである。

かつて私は、その哲学者が唯一残した著作を齧ろうと試みたが、伊賀のせんべいを上回る難物で、数行で放棄せざるを得なかった。その難(かた)さに対抗するには、私の頭はあまりにも軟弱で、まったく歯がたたなかった。なべて哲学たるもの実用的であらねばならぬ、というのが私の持論である。彼の残した思索のどこが実用的なのかは未だわからない。が、読書百遍意自ずから通ず、である。ちと面白い。

若かりし頃、つまり数年前のことだが(・・・・?)、宗教を研究した。わかったことは宗教は跳躍ができ、哲学はそれが出来ないということだ。宗教は「こういう神様がいるんだ」から始まる。何故かは問われない。適当に辻褄を合わせて、また跳躍をするのだ。跳躍とはすなわち言語の不完全さという隙を突き、わからない事柄を曖昧にすることである。哲学に於いては「曖昧」は哄笑の対象となる。だから跳躍がしづらい。思い切った展開はできにくいのである。英語に「ゆっくりでも確実に」と言う言い回しがある。哲学がこれであるとすれば、宗教は「不確実ではあるが早い」と言える。哲学は神様という像を彫刻する最良のノミなのだが、宗教に入っている人は何故かこれを使わない。

本当の神様とか、本当のなになになどと言う話になってくるとかなり怪しくなる。真理を知っている、と言う人が現れたら是非その人の話を聞いてみたい。もし神様が目の前に現れて、それを本物かどうかを判断するのに、予め本物の神様を知っていなければならない筈である。でも、「予め」にせよ、本物の神様をどうやって我々は知り得るのだろうか?

世の中には「本当の神様」でなくとも「本当のなになに」が極めて多い。「本物のカレーってのはなぁ」
、「真実の愛というものは」、「本当の教育とは」などとやるのである。

人類が言葉を使用するようになって久しい。しかし、未だそれを「操れている」のかどうかは甚だ疑わしい。あたかも核融合や核分裂の法則を発見し、操る技術を確立する前にその使用を開始したかのようで、危なっかしいことこの上ない。

人は言葉で物を考える、と思っている人が多いようだが、それは違う。考えた内容を誰かに伝えるために言葉に変換して相手に渡し、相手は受け取った言葉を経験に照らし合わせて考えに変換し、それを理解するのだろう。当然の結果として、発信する側と受信する側との間には齟齬(そご)が生じる。

言葉は他者との通信手段、あるいは情報思考の整理記録手段である。が、人は純粋にひとりで暮らすならば言葉はいらなかったかもしれない。この発明によって人類は他者の持っている情報を簡単に自分のものとすることができるようになった。同じ時間を使ってひとりであることを経験し、それを知識として蓄えた場合と、他人からも言語を介して情報を得て知識を蓄えた場合、前者と後者の違いは桁違いとなる。これによって人類は他の動物との差別化を加速させた。

私は言語哲学はおろか、ただの哲学のいろはさえ勉強したことがない。考え方やその内容はすべてでたらめかも知れない。それでも口と声帯があるので話す、のである。もしかしたら発信側と受信側の齟齬の前に、自分の中で脳みそと口の間に齟齬があるかも知れない。齟齬は小さければ「必要なもの」で、大きければ「問題の元」となる。車の舵輪(ステアリングホイール、ハンドルのこと)と同じなのだ。語りえないこととはもしかしたら言葉の齟齬(舵輪の遊び)が大きいいことを言うのだろうか。

言葉には文法という決まりごとがあり、これに則って話せば内容の如何に拘わらず文法的には正しいことになる。これに人は騙されるのではないだろうか。頭で考えてこれを言葉にして整理する、これが私たちが日常で無意識のうちにしていることである。危ないのは文法上正しく発せられた言葉を自動的に内容をも正しいとしてしまう態度である。

りんごと柿ではどちらが美味しいか?

この言葉に文法上の過ちはない。うっかりすると成り立ちそうに聞こえるこの文章は、実は成り立たない。わざと単純な例をあげたが、私たちの日常の言語生活には常にこの危険が隣にある。これが独り言のうちはまだいいが、相手のいる「対話」になるとコトはさらに面倒になる。使用する単語のひとつひとつの定義が人によって少しづつ異なるからである。

もしかして、従来の哲学者たちが前述の哲学者に否定されたのは、上記の理由によるものなのだろうか。「善」、「美」、「真」など諸々の事柄については、本当は語りえないものなのではないだろうか・・・。いや、違うと思う。私などに彼の哲学がわかるはずはない。そんな単純な話しではないだろう。しかし、一寸の虫にも五分の魂である。私が、かの言葉を私の理解力以上に理解するのは無理であるが、どう理解するかは私の自由であるはずだ。

考える事、語ることを恐れてはならない。しかし、私たちは言葉については極力慎重であらねばならない。それが独り言であろうと、対話であろうと同じ事である。人は自動的に自分に都合のいいようにものを考え、そしてこれを言葉に変える。これが危ない。

「語りえぬもの」と言われる事柄についても果敢にたち向かってゆくことは必要だと思う。語りえぬものであるかどうかを測る尺度も正しいかどうかはわからないのだから。

人生はかけがいのないものだろう。人はその肉体面より精神面において大きく他の動物と違う。
※人類と類人猿の遺伝子は98%同じだと言われる。(ついでながら天才とそうでない人の遺伝子的差は殆ど無いそうな)
人としてより良き生を送るために私たちは理性的であることが求められる。さもなくば私たちは「純粋に語りえないもの」についても語れるものと思って語っているかも知れない。語り得るものか、否かを判断するのは理性の働きである。騙すまいぞ、騙されまいぞ。

うーむ、さっぱりわからん。(これは後ほど書き直します。自分で読み返してみてもよくわからない。頭の中では出来上がっている体系が言葉にするとうまく出てこない。これも人間が言葉でものを考えているのではないことのひとつの証左である。なんだか今までで一番長い文章になってしまった)

2012年7月4日水曜日

多事多論

本来なら「多事争論」が正しいのだろうが、世の中には色々な人がいて色々なことを言う。殆どの場合は自分の都合の良い価値観を身に着けてそれに補強増強してものを言う。最初に間違った土台を据えてしまったらその上に建つものはどんなに立派に見えても危ない。しかし、一回建ててしまったら最後、それに目がいってしまって土台を見なおそうとはしない。まして土台から作り直そうとする人は稀である。

色々な論があってこれを戦わせるのはいいが、同じ土俵で戦っているのかどうかさえ気付かずにお互い口角泡を飛ばして頑張る。これではまるで日本の国会の討論である。

私たちには土俵を見直す勇気が必要だ。国家間の争い、宗教間の争い、文化間の争い、政治家同士の争い等々。先日オランダ人のEと東南アジアにおける日本の位置などについて話した。難しい話しをしたわけではない。世間ばなしだったのだが、太平洋戦争の事が尾を引いて日本は人気がないだろうと言われた。彼女はまだ二十代中頃で、背の高い金髪碧眼の美人である。性格もいい。

オランダはインドネシアを350年ほど「お世話していた」らしい。現地の人がお金に魂を奪われて不幸にならないように、現地の富はすべてオランダ人のものにしていたらしいのである。親切な事である。当時欧米ではこの親切が流行で、英国もスペインもフランスもアメリカも盛んにこの親切をアジア、アフリカ、南米各国に対して行なっていた。アジアでこの親切を受けなかった国はタイと日本だけだったらしい。

Eは東南アジアを旅行してきたことがあり、かつて彼女の国が親切にしてあげていた国を訪れたら、日本の評判が悪かったと言う。現地に記念碑などがあり、日本にひどい目にあったと書かれてあるらしい。現に日本の若い旅行者などもそれを認めているらしい。

日本の戦後教育は間違いなく戦勝国による洗脳教育であったはずで、これは極東軍事裁判を見ればこれから推察することは難しいことではない。これが三世代目に至って「日本は悪いことをした」ことが定着した。洗脳された人に聞いてみるがいい。洗脳教育を受けた人は「私は絶対に洗脳教育を受けていない」と言うであろう。

日本は悪いことをした。これは事実であろう。防衛のためとはいえ他国を侵略した。しかしながら他国を侵略したからといってこれまで謝った国があっただろうか?英国は史上もっとも多くの国を侵略した国である。フランス、スペイン、アメリカ、ドイツ、ポルトガル等々、散々搾取をした挙句、これを手放さざるを得なくなった。そして出てゆく時に、搾取した相手に謝った国が一国でもあっただろうか。日本の場合は搾取どころかほとんどが持ち出しであった。挙句欧米に手ひどく物理的かつ心理的な私刑を受けたのである。それに気が付かず、甘んじてこれを受けている。

アイルランドはジャガイモ飢饉で気骨のある人はほとんど海外に出てしまった。相対的に国内には・・・・。日本は太平洋戦争で気骨のある人間は全部とまでは言わないがほとんどが死んでしまった。結果が今の日本である。
Eもお国では政府の洗脳を受けたらしい。インドネシア統治時代オランダは善政を敷き、日本統治になってからは酷かったと教わったらしいのだ。太平洋戦争終了後もかなりの数の日本兵がインドネシアに残留してオランダとの独立戦争で戦い、彼らをアジアから追い出したのだから恨みは続いているのだろう。今大戦を機としてベトナム、シナ(china)、朝鮮、フィリピン、マレーシア、インドネシア、ビルマ、その他全部の国が独立を果たした。(チベットは再び遅れてきた覇権国家シナに侵略されたが)
※シナ・・・英語ではChina(チャイナ)、スエーデン語だとKina(キーナ、発音自信なし)など。日本も国際標準にすべし。東中国海とは言わんでしょ?インド中国半島とは言わないでしょ?東シナ海、インドシナ半島でしょうが。かつてあの国の属国であった国々ならいいでしょうが、日本はシナの属国であったことは一度もないです。だったらあの国を中国と呼ぶのはおかしいでしょ?だいたい今時自国を大ナントカ帝国等と言ってるのは英国(大英帝国と言ってる)と韓国(大韓民国と言ってる)と中国(世界の中心だと言っている)くらいなものです。
日本が失ったものはあまりにも大きかった。それでもこれを契機としてアジア各国が独立したのは日本のおかげである。でなければどこの国が自力で独立できたであろうか?

Eとは、結局自分たちはどこで時の為政者たちに洗脳を受けているかわからないね、ということで話しがついた。私も結局は本を読んだり、電子頭脳網での知識でものを言っているにすぎないわけで、これでは竹島は韓国の領土だと言っている人たちと変わりはないかもしれない。恐ろしいことである。

(なんでスットコランドでこんなこと書いてるんだろう・・・Snigel がダブリンで車を盗まれたというのに。禿げ増しの電話でもかけようか・・・いや叱られるからよそう)