2012年7月5日木曜日

語りえぬもの、とは。(読まないほうがいいです。自信アリます ^^; )

ある偉い哲学者が、「語りえぬものについては沈黙をしなければならない」と言ったそうな。数千年にも及ぶ人類の哲学の積み重ねを、ある意味すべてぶっ壊してしまいそうな言葉なのである。

かつて私は、その哲学者が唯一残した著作を齧ろうと試みたが、伊賀のせんべいを上回る難物で、数行で放棄せざるを得なかった。その難(かた)さに対抗するには、私の頭はあまりにも軟弱で、まったく歯がたたなかった。なべて哲学たるもの実用的であらねばならぬ、というのが私の持論である。彼の残した思索のどこが実用的なのかは未だわからない。が、読書百遍意自ずから通ず、である。ちと面白い。

若かりし頃、つまり数年前のことだが(・・・・?)、宗教を研究した。わかったことは宗教は跳躍ができ、哲学はそれが出来ないということだ。宗教は「こういう神様がいるんだ」から始まる。何故かは問われない。適当に辻褄を合わせて、また跳躍をするのだ。跳躍とはすなわち言語の不完全さという隙を突き、わからない事柄を曖昧にすることである。哲学に於いては「曖昧」は哄笑の対象となる。だから跳躍がしづらい。思い切った展開はできにくいのである。英語に「ゆっくりでも確実に」と言う言い回しがある。哲学がこれであるとすれば、宗教は「不確実ではあるが早い」と言える。哲学は神様という像を彫刻する最良のノミなのだが、宗教に入っている人は何故かこれを使わない。

本当の神様とか、本当のなになになどと言う話になってくるとかなり怪しくなる。真理を知っている、と言う人が現れたら是非その人の話を聞いてみたい。もし神様が目の前に現れて、それを本物かどうかを判断するのに、予め本物の神様を知っていなければならない筈である。でも、「予め」にせよ、本物の神様をどうやって我々は知り得るのだろうか?

世の中には「本当の神様」でなくとも「本当のなになに」が極めて多い。「本物のカレーってのはなぁ」
、「真実の愛というものは」、「本当の教育とは」などとやるのである。

人類が言葉を使用するようになって久しい。しかし、未だそれを「操れている」のかどうかは甚だ疑わしい。あたかも核融合や核分裂の法則を発見し、操る技術を確立する前にその使用を開始したかのようで、危なっかしいことこの上ない。

人は言葉で物を考える、と思っている人が多いようだが、それは違う。考えた内容を誰かに伝えるために言葉に変換して相手に渡し、相手は受け取った言葉を経験に照らし合わせて考えに変換し、それを理解するのだろう。当然の結果として、発信する側と受信する側との間には齟齬(そご)が生じる。

言葉は他者との通信手段、あるいは情報思考の整理記録手段である。が、人は純粋にひとりで暮らすならば言葉はいらなかったかもしれない。この発明によって人類は他者の持っている情報を簡単に自分のものとすることができるようになった。同じ時間を使ってひとりであることを経験し、それを知識として蓄えた場合と、他人からも言語を介して情報を得て知識を蓄えた場合、前者と後者の違いは桁違いとなる。これによって人類は他の動物との差別化を加速させた。

私は言語哲学はおろか、ただの哲学のいろはさえ勉強したことがない。考え方やその内容はすべてでたらめかも知れない。それでも口と声帯があるので話す、のである。もしかしたら発信側と受信側の齟齬の前に、自分の中で脳みそと口の間に齟齬があるかも知れない。齟齬は小さければ「必要なもの」で、大きければ「問題の元」となる。車の舵輪(ステアリングホイール、ハンドルのこと)と同じなのだ。語りえないこととはもしかしたら言葉の齟齬(舵輪の遊び)が大きいいことを言うのだろうか。

言葉には文法という決まりごとがあり、これに則って話せば内容の如何に拘わらず文法的には正しいことになる。これに人は騙されるのではないだろうか。頭で考えてこれを言葉にして整理する、これが私たちが日常で無意識のうちにしていることである。危ないのは文法上正しく発せられた言葉を自動的に内容をも正しいとしてしまう態度である。

りんごと柿ではどちらが美味しいか?

この言葉に文法上の過ちはない。うっかりすると成り立ちそうに聞こえるこの文章は、実は成り立たない。わざと単純な例をあげたが、私たちの日常の言語生活には常にこの危険が隣にある。これが独り言のうちはまだいいが、相手のいる「対話」になるとコトはさらに面倒になる。使用する単語のひとつひとつの定義が人によって少しづつ異なるからである。

もしかして、従来の哲学者たちが前述の哲学者に否定されたのは、上記の理由によるものなのだろうか。「善」、「美」、「真」など諸々の事柄については、本当は語りえないものなのではないだろうか・・・。いや、違うと思う。私などに彼の哲学がわかるはずはない。そんな単純な話しではないだろう。しかし、一寸の虫にも五分の魂である。私が、かの言葉を私の理解力以上に理解するのは無理であるが、どう理解するかは私の自由であるはずだ。

考える事、語ることを恐れてはならない。しかし、私たちは言葉については極力慎重であらねばならない。それが独り言であろうと、対話であろうと同じ事である。人は自動的に自分に都合のいいようにものを考え、そしてこれを言葉に変える。これが危ない。

「語りえぬもの」と言われる事柄についても果敢にたち向かってゆくことは必要だと思う。語りえぬものであるかどうかを測る尺度も正しいかどうかはわからないのだから。

人生はかけがいのないものだろう。人はその肉体面より精神面において大きく他の動物と違う。
※人類と類人猿の遺伝子は98%同じだと言われる。(ついでながら天才とそうでない人の遺伝子的差は殆ど無いそうな)
人としてより良き生を送るために私たちは理性的であることが求められる。さもなくば私たちは「純粋に語りえないもの」についても語れるものと思って語っているかも知れない。語り得るものか、否かを判断するのは理性の働きである。騙すまいぞ、騙されまいぞ。

うーむ、さっぱりわからん。(これは後ほど書き直します。自分で読み返してみてもよくわからない。頭の中では出来上がっている体系が言葉にするとうまく出てこない。これも人間が言葉でものを考えているのではないことのひとつの証左である。なんだか今までで一番長い文章になってしまった)

2 件のコメント:

  1. し、師匠と呼ばせてください ← 以前から呼んでるw

    その偉い人の哲学書をよんだ記憶がないのですが、色々な意味にとれる深い言葉ですね。自分なりに心に刻んでみました。語りませんがw。

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    1. あ~ら、読まないほうがいいって言ってんのに読んだのね?
      言葉(いわゆるボデーランゲージを含む)による対話と言うもんがはたして成り立つのかと言うのは疑問だっつうことです。一見対話は成り立ってるように見えますがね。分析哲学(言語哲学とも言うらしい)では語り得るようでいて語り得ないものを語ることによって私たちは言語の迷路に迷いこんでいる。だからかつて言語によって語られてきた哲学でさえ怪しいのではないかと。私たちがしょっちゅうぶつかり合うのは根底にこれがあるからではないか、と疑問を投げかけるわけです。(どういうわけか無性に餃子が食べたくなった。王将はスットコランドまで出前してくれないかな・・・)

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