2015年8月22日土曜日

マルコよ

欧州最後となる四日間のドイツ滞在を終え、ハノバー空港からデンマークのコペンハーゲン空港に移動する。ここで、成田便までは5時間近くを待たねばならない。一旦コペンハーゲンの街に出てから戻ればいいのだが、乗り遅れを心配しての観光は落ち着かない。中央駅に隣接するチボリ公園やカールスバーグ美術館なら時間つぶしにはいいのだが、デンマークはユーロ圏ではないため(EUの構成国ではあるが、共通通貨のユーロには参加していない)、通貨両替が必要となる。ユーロが使える場合もあるが、つり銭などがクローネでは他での使い道がない。我が佐久の御用邸には、すでにデンマーククローネやスエーデンクローネの小銭が溜まっている。私にとってコペンハーゲンは、最近は単なる通過点に過ぎなくなっている。時間までは大人しく空港内で待つ。

どこでもそうだが、空港の中は何でも異常に高くなる。飛行機の乗客は籠の鳥で、わざわざ外に出て、安くてうまい食事にありつくことはできにくい。いやでも高いものを買わされる。欧州に出かけるために、目を皿にして格安航空券の渉猟に神経をすり減らすのに、空港内では選択の余地は少なく、高い飯を食わねばならない。

空港内の片隅に座り心地の良い椅子を見つけ、ここで文庫本などを読む。日本から4冊の続き物を持参したが、最後の一冊を読んでしまった。雑踏に目を向ければ、随分様々な人々が行き交う。

昨今飛行機は昔と違って、私のような社会の下層で、息を殺すようにして暮らしている人間にとってさえ、手の届かない移動手段ではなくなった。いつだったかは忘れたが、欧州のどこだかの空港内の雑踏で、ひとり目に涙を浮かべながら、荷造りのやり直しを試みている東欧系の若い女性を見たことがある。私は受付の列に並んで順番を待っていた。彼女は、旅行かばんを床に置いて、中身の出し入れをしていた。艶のない乱れた金髪をかき上げながら、時々すすり上げていた。あるものはかばんの中、そしてあるのものはその周囲の床の上に乱雑に置かれていた。額に入った写真やハイヒール、その他に様々な小物が目に付いた。彼女の服装やかばんから推察すれば、決して豊かな生活をしている人とは思えない。何らかの止むに止まれぬ事情があって、その空港から飛行機に乗る。家族や友人、そして恋人との別れの悲しみ、先々の生活のことなどが彼女の不安を掻き立てていたと思われる。そこに受付からの荷物の重量超過を言われたのだろう。

どれも置いてゆけない。しかし、何とかしなければ飛行機には乗れない。彼女は、彼女の人生を一所懸命に生きている。私はそのすぐそばを通りぬけた。そんな事が、あった。

長い待ち時間をやり過ごして後、私は早めに搭乗口に向かった。日本人が多い。当たり前であり、かつまた異様な光景もである。異邦人として海外に長く過ごした後(今回はたったの半月ではあるが)、同じ日本人の中に入ってゆくのは、一種の面映さがある。ここにも様々な人々がいる。季節柄団体旅行の人たちも多い。また少数ではあるが欧米人の家族連れも目立つ。

人の一生とは、新しい尺度の模索と、古い尺度の脱ぎ捨て、その連続なのだ。私は欧州に長くいた。無意識の中で、彼らの尺度に反発をしつつも、いつしかそれを少なからず受け入れてきた。それでなければ生きてゆけなかった。欧州に暮らしながら日本の尺度が抜けきらないように、日本に帰ってからは、身に着けた欧州の尺度が完全には抜けきらず、それがいわば宿痾(しゅくあ)のように日本での生活の思わぬところで顔を出す。

ついに搭乗案内が流れ、人々が立ち上がって列を作り始める。私の座席は機の後方なので、早めに乗り込みが始まる。搭乗橋から機内に入る時、いつものことながら、緊張感とも高揚感ともつかないものが、私の心に湧き上がる。

狭い混雑する通路を通り抜けて、私は戸惑を覚えた。私の席は通路側で、その隣の窓側の席には小さな男の子が座っていた。周囲に連れは見当たらない。成田までの十一時間の道連れが、この小さな男の子である。首から紐で青いケースをさげ、小さな窓から外を見ていた。頑なに顔を外に向け、私を見ようとはしない。

髪が暗い栗毛色で、頼りないほど細く柔らかく、癖のない直毛である。一番の印象は、モンゴロイドには少ない、上に反った長い睫毛であった。私は、小鳥の巣作りよろしく自分の席を心地よく整え、座って安全帯を締めた。気の利いた航空会社なら日本向けの便には、衛星を通じて印刷されたその日の日本の新聞が用意してあるが、この航空会社にはそれは望めない。それどころか英字新聞さえ用意されていないかった。無聊にまかせて少しの間、男の子を観察する。

機は成田に向けて概ね定刻の離陸となった。読む本も新聞もない私は、緊急用に持参しているスドクを開き、これに挑戦し始めた。縦横九つづつのマスを1から9までの数字で埋めてゆく。縦でも横でも同じ数字は入らない。結構な集中力を要し、頭の訓練と時間潰しには持って来いである。

子供がひとりで飛行機に乗る場合は、いろいろ制約があることと思う。おそらくこの子は、デンマーク人のお父さんが空港まで見送りに来ていたのだろう。日本から来た時、久しぶりに会ったお父さんに、最初は戸惑いながらもようやく慣れた頃、日本に帰らねばならず、見える筈のないお父さんの姿を、空港ビルのどこかに追っていたのだろうか。

私は、この小さな隣人のことで想像が膨らんでしまい、スドクには集中できなかった。途中から完全に行きづまってしまった。どこかに解決の糸口がある筈だがわからない。その時、私の頭にふとある考えが浮かんだ。

無理かとも思ったが、私は思い切って小さな道連れに話しかけてみた。

「キミ、日本語わかる?」

少年は肯きつつ、小さな声でわかると言った。その直後に私は自分の放った言葉に軽い後悔を感じた。この子はその顔つきと状況から、明らかに白人と日本人の混血であり、このことを問われるのは嫌なのではあるまいかと思ったのだ。しかし、私の思いは杞憂であった。少年は少なくとも表面上は平静だった。

※日本では混血児をハーフ(Half)と言うが、これは日本独特の通じない英語である。

「キミね、トイレに行きたいときは遠慮しないでいつでも言うんだよ。ところでおじさん、このスドク、途中でわからなくなってしまたんだけど、キミわからないかな?」

少年は肯いて、意外なほどあっさりと私の差し出したスドクとボールペンを、小さな手で受け取り、私のやりかけの問題に目を通し始めた。ものの一分も経つか経たないかのうちに少年は、私の過ちを指摘した。同じ列の上には二つと同じ数字は入らない。それが私の埋めた数字では、どうしても残った空のマスに同じ数字が入ることになり、どこかに間違いがあると、指摘されてしまった。

私は、心の中で舌を巻いた。このパズルが解るどころではなく、私の間違いを極めて短時間のうちに指摘してきたのだった。

私は、スドクを返してもらいながら引き続き彼に話しかけた。年齢は8才で、東京の小学校に通っていると言う。名前はマルコ。聖書からとった名前と思われる。大人になったら宇宙飛行士かデザイナーになりたいと言う。

客室乗務員は、当然彼のことを気にかけており、飲み物を配るときも、食事のときも何くれと声を掛ける。日本人の客室乗務員は日本語で話しかけ、(おそらく)デンマーク人の客室乗務員はデンマーク語で話しかけていた。マルコはその度に、小さな声で言葉少なに、しかしはっきりと答えていた。

※ 私は、デンマーク語はわからないが、スエーデン語は僅かながらわかる。二つの言語はかなり近いが、マルコと客室乗務員の言葉は、スエーデン語ではなかった。

話しの接ぎ穂がなくなると私は、映画を観ることにした。マルコも、前席の背もたれについているモニターを食い入るように見ており、時折タッチスクリーンや肘掛についた機器をいじっていた。

映画は、新旧取り混ぜており、私は未来の人造人間ものを観た。日本語の吹き替えはなく、仮にあったとしても切り替え方がわからなかった。みればマルコはディズニー動画を観ている。

※邦題「ブルー 初めての空へ」、原題「RIO」、日本での公開は10月で、ディズニーではないようだ。

マルコは、テーブルに置いた菓子袋に、頻繁に手を伸ばしながらブルーを観ていた。私は、今まで観ていたものに飽きて、日本の映画を観ることにした。ところが、日本語音声への切り替え方がわからない。マルコに聞くと、簡単に教えてくれた。今の子供たちがこういった機器の取り扱いに慣れていることには驚かないが、マルコが国際線の機上の画面操作に慣れていることに少し違和感を感じた。こんな小さな子供が国際線を飛び慣れているのだ。

いつの間にか私とマルコは寝入っており、私が目覚めたときに、彼との境界にある肘掛上で双方の腕が触れ合っており、私はこの子の肌のぬくもりに、一種不思議かつ複雑な気持ちにさせられた。私は、それが自分の中にある父性というものなのかと思った。子供の姿、行動、また匂いや声などは、大人の持つ母性や父性を刺激し、子供をかわいがったり保護したりしようとするのだろう。私はマルコの体温が私に伝わった時、全身が幸せに満たされたような感じがした。

マルコから私に話しかけてくることはなかったが、一回だけ例外があった。食事のときにマルコは、サラダにかけるオリーブ油のドレッシングの何かを知らず、また自分で開けることが出来なかった。彼は私に行儀良く尋ねてきた。確かに細長い包装容器の上部にミシン目が入ってはいるが、子供には簡単には破れそうになかった。私は初めてマルコのほうから言葉を掛けてきたことを嬉しく思った。ミシン目をひき破ってドレッシングをマルコに返した。

離陸後数時間した頃、マルコは思い出したように座席下のザックの中から夏休みの漢字練習帳をとりだして、これをやり始めた。体が小さいため、目と卓上の練習帳の距離が近すぎる。モニターのブルーと練習帳を半々くらいにやっている。いつの間に取り出したか、また別の菓子を食べている。漢字の書き写しは綺麗だが、ふり仮名の多くが間違っている。以降、最後の食事のとき以外は練習帳は常に卓の上にあった。練習帳の耳のところには、母親によるものと思われる日付が書かれており、それは随分前のものだった。いいんだ、マルコ。

ふと練習帳をするマルコの指の爪を見ると、どれも随分伸びている。2週間ほどは切っていないのではないだろうか。私の想像は膨らむ。

マルコのご両親は、母親が日本人で、父親がデンマーク人。私の経験上、これはおそらく当たり。マルコの伸びた爪を見ても、もしデンマークにいるのが母親なら、あそこまでは放置しないだろう。あれは、マルコの母親が日本で切り、デンマークで父親と過ごす間に伸びたものと思う。スクリーン上の飛行地図の飛行機が、シベリアの東端に差し掛かった頃、私はマルコに、もうすぐお母さんに会えるね、と問うた。彼はだまって肯いた。

手洗いに立った時、私はギャレーにいた日本人客室乗務員に、私の小さな隣人が離陸以来一回も手洗いに立たない、機会を見て彼に聞いてみてくれないか、と頼んだ。彼女はこれを了承し、後刻うまく処理してくれた。私は子供を持たないので、8才の子が7~8時間もの間に一回も手洗いに行かないことを普通なのか、そうではないのかわからなかった。

マルコはあまり眠らない子だった。かなりの時間をブルーに費やしていた。おそらく彼は、それを繰り返し何度も観ていたに違いない。私が、まどろみから覚めて隣を見ると、彼は眠っていた。頭を私のほうに傾け、心持口を開けていた。目を閉じていると、睫毛の長さが際立った。私は、騒音防止に効果のあるヘッドフォンで、ジャズを聴きながら寝ていた。マルコはビクッと体を震わせて目覚め、視線を泳がせながら、ここはどこ?ここはどこ?と繰り返しつぶやいた。不安げな様子だった。私はヘッドフォンを外し、ここは飛行機の中だよ。もうすぐお母さんに会えるよ。何も心配は要らない、と彼の耳に囁いた。

私は、マルコのご両親は離婚したのだろうと思った。



2015年8月11日火曜日

ダブリン再訪

ダブリンにいる。オコンネル通りを中心にリフィー川を挟んで、街の南北をそぞろ歩きに歩いてみる。アイルランドは、史上空前の経済興隆から転落して久しいが、ここへ来てまたそれがいくらか上向いてきているようだ。

私は、まったくの経済音痴だが、街を歩いてこれを肌で感じている。もっとも、それは八月と言う観光期で、欧州各国はもとより、世界中から人が押し寄せているからかも知れないのだが。

店に入れば、国籍の推測ができない店員さんたちが、流暢ではあるが訛のある英語で客の応対をしている。この国の名門大学トリニティーカレッジ周辺は、新しい路面電車の敷設工事でごったがいしている。空を見上げれば、建築用のクレーンが、かつてほどではないにしろ、再度そびえるようになっている。

ちょうど一週間前にここの空港に降立ったが、その時は曇りで八月と言うのに肌寒かった。異常に暑い日本から来たので、ここの気候だけは私を裏切らないと思った。先日街を歩いていて気がつくと、半袖で歩いているのは私くらいなもので、ほとんどの人たちは長袖を着て歩いているのだった。相変わらず雨もよく降るが、不思議と湿度は上がらず、きわめて快適である。これではこの国の人に、二酸化炭素の地球温暖化に対する影響をいくら説いても、説得力に欠けるだろうと思う。

街は、中心から郊外に至るまで満遍なくゴミだらけで、これは私がここで暮らしていた時と変わらない。道路も空き地も、川も運河もゴミだらけである。もったいないと思う。絵葉書などで見れば、ダブリンと言う街は、それは愛らしく美しい街なのだが・・・。

人類は、石炭や石油と言うものを燃料として空気を汚したように、これを原料にして造った合成樹脂なるもので、自然を傷めつている。これらが自然に帰るためには、地球の持つ浄化作用に依存せざるを得ないが、他のものと違って地に帰るには何万年も掛かるであろう。地に帰る速度より、生産、そし廃棄蓄積される速度のほうが何百倍も早いので、環境は急速に悪化する。この現象が近代、特に戦後の世界の目覚しい経済成長と人口爆発に比例して絶え間なく続いている。

海にも陸地にも空にも、自然界には無かった物、そして自然に帰るのには時間の掛かるものが溢れかえっている。あるものは目に見え、そしてあるものは目には見えない。しかし、それらは確実にこの地球上に住む生命の住環境を危機におとしめている。

人類は、神様から授かった知恵の使い方を知らない。それには使ってよい方向と、悪い方向があることを知らない。


      オコンネル通りを望む。郵便局前の喫茶店にて。ジェームス・ジョイスの銅像が見える。
                 (写真中の時刻は日本時間)





2015年7月22日水曜日

暖炉のにおい みっちー船乗りになる

教授は自分を救世主と考えていたフシがある。彼の名前を電子頭脳網で検索すれば、彼に関する記事が沢山見つかる。その中に、彼の残したブログがあるが、彼の筆名はChrist ○×△とあるから間違いない。しかし、現実はただのコズルイお騒がせ老人だったのだ。

村の中で、山砂を採る事は環境破壊につながる、と言って集会を開き、村中から総すかんを食らったり、自分の亡くなった妻を庭に土葬してお役所に叱られたり、また大麻栽培をして警察に引っぱられたりしていた。私には、郡の福祉事務所を騙してお金をせしめていると、告白した。

彼は、ヒッピーだったらしい。ヒッピーなどと言う言葉は、いまや死語であるが、1960年代から70年代に世界のそこここで流行った一種の文化である。「縛り」を嫌い、自由に生きたかったのだろう。ケンブリッジ出と言う肩書きは、彼がヒッピーであるにもかかわらず、アイルランドでは大学の教授職を得るには十分立派な肩書きだったに違いない。

彼は、「自分は世界を救う独自の哲学や宗教を持っている」と思っていた。隣人のみならず、ほぼ村人全員から狂人扱いされていた彼であるが、その彼にも僅かではあるが共感者がいた。それは、アメリカから来た若い金鉱掘りだったり、人生に疲れたフランスの舞台女優だったりした。(時を同じくして、日本から流れて来た風来坊もいたのだが・・・しかし、彼は共感者ではなかった)

その中に、いかにも、と言わんばかりのウエールズ人夫婦がいた。彼らは居候ではなく、毎年夏になると教授の家に遊びに来る、とのことだった。夫人はごく普通の下層英国婦人だが、服装がやはりそれとなくヒッピーだった。夫は、いつも半ズボンとサンダル履きであった。背は低かったが、ガッチリした体型で髭を生やしており、赤ら顔で、私たち日本人が知っているウエールズ人代表のC・W・ニコル氏を連想させた。

夫君は朝起きると歯ブラシをくわえ、裸足で庭に出る。腰に手をあてて辺りを睥睨(へいげい)し、芝の上にガラガラペーッ、とうがいした水を吐き出す。ちょっとだけ隅に行ってそこで立ちションをするのである。何の衒いもなく、自然なので誰も文句は言わない。

夫婦は、時として教授となにやら世界の現状と未来について意見交換をしている。暖炉の前に据えたオンボロで汚いソファに陣取り、毛脛をぼりぼり掻きながらも、自分たちが放った大言壮語に臆する風は見えなかった。時としてウエールズ人は、イングランド人と仲が悪いのだが、彼らにはそのような様子は窺えなかった。同じヒッピーではあるが、ケンブリッジ出の元大学教授と言うことで、家主に尊敬の意を表すこともあった。

ある時、このウエールズ人が私に船乗りにならないか、と問うてきた。突然のことで面食らったが、話しの内容はこうである。

彼らには、お金持ちの親戚があり、数年前に亡くなった。遺産の一部を彼らも引き継いだが、それは木製の大きな帆船だった。以来、二人でお客をウエールズから地中海を経由してギリシャまで乗せ、これを生業としてきた。が、歳をとって操船と客の面倒を見るのがきつくなってきた。高い給料は払えないが、手伝ってはくれまいか・・・。

何の因果か、私はユーラシア大陸の東に浮かぶ小さな島国に生まれ、一万洋里(Km)も離れた西の端にある、さらに小さな島国で暮らしていた。数々の流転を重ねてとうとう船乗りになるか・・・。

詳しくは忘れたが、その帆船、すべて木でできており、船室が2~3あり、他に食堂やら居間やらがある結構大きな船である。変わっているのは、帆船と言っても普通は、緊急時や接岸離岸などの細かい操船が必要なときに使う原動機が付いているものだが、これには搭載していない、とのことだった。そうは言っても、調理や無線、そして照明やその他の機器類に電気は必要と思われる。だが、私はこの点については聞くのを忘れた。

帆船には憧れがある。動力船は常に原動機の音や振動がするが、帆船は航行中でも波と帆柱の軋(きし)る音、それ以外はしない(と思う。乗ったことがない)。自然の力を利用し、ただで旅行できるなど、なんとすばらしいではないか。仮に、船体、人、そして水や食料など全部で数トンに達するとして、この重量物をウエールズからギリシャまでただで運べるのである。

私は、船に関しては、まったくの無知である。想像するに帆船といえども現代のものは、自動航行装置やら、自動位置感知装置(GPS)やら、無線装置、もしかしたら電波探知機、(略して電探。レーダー)まであるかもしれない。このような最先端の設備や装置を排除し、昔ながらの六分儀や磁石を使っての船旅は、まったくや面白いものに違いない。

操船やら修理などは追々覚えてゆけば問題ない。大西洋からアフリカ北端と欧州南端の間にあるジブラルタル海峡を抜けて、地中海に入ると、海の色が変わる。そこで見る朝日や夕日はとてつもなく美しいという。彼らはそれを淡々と語って私を誘う。私といえば、静かに彼らの話を聞いていた。地中海で見上げる星空はどんなに美しいことだろうか。幸い私は、船酔いには強い。内心これは面白いことになってきた、と思った。

日本での仕事を辞め、好き放題に生きることを決心し、つてのあった欧州に来た。それが藁しべ長者の藁のように次につながってゆく、我が人生の面白さよ。

ある時、教授の家に若い男が遊びに来た。教授の娘の誰かに会いに来たものだったかもしれない。私に、大型牽引免許を持っているならいい仕事がある、といってくれた。私は、なぜか欧州では大型免許も、大型牽引免許も、大型二種免許も(以下省略)持っている。話しを聞いてみると、アイルランドからフランスを経由して、スペインまで大型牽引車(トレーラー)を運転して荷物を運ぶ仕事がある、と言う。面白そうな話だったが、別の人が、フランスとスペインの国境に跨るピレネー山脈には今でも山賊が出る。時に運転手が殺されて積荷が奪われるのだ、と言った。その人の話しは眉唾(まゆつば)で聞いていたのだが、私はかなりの方向音痴で、英語はともかくフランス語やスペイン語はからっきしだめなので、この話しは断ってしまった。

いい話し、面白い話しには裏がある。私は、船酔いはしないが、泳ぎが得意ではない。長い船旅では、必ずや泳がなければならない状況が出てくるだろう。たとえば錨(いかり)が海底の岩に引っかかってあがって来ないとか、客が溺れたとか、金の斧を落としたとか、である。

子供の頃、膝まであるやなしやの水深で溺れかかったことがる。北海道の山奥の川で、前後の状況は忘れたが、おそらく川を渡ろうとして、石に付いた苔で滑って転んだのだと思う。平気を装っていたが、かなりの恐怖であった。これは私の心理的外傷になっているのは間違いない。もうひとつ。「水の中には得体の知れない何かがいる」と言うまんざら妄想とも言えない思いがある。これは小さいときに読んだベルヌの小説の影響かもしれない。スピルバーグのジョーズも私のこの思いに拍車をかけたろう。

私は、夫君に地中海に鮫はいるかと尋ねた。彼はいない、と即答した。たまたまその後に得た情報によると、地中海にも数は少ないが、鮫はいるらしい。しかも、ホオジロザメやシュモクザメと言った超一流の危険種もいるらしい。最初から言われていればそれほどでもないものを、後になって隠し事が暴露されるといっそう怖くなるものである。

私はこの面白い話しを断ったのであるが、もしあの時断らなければ、今頃は、「最近体力が落ちて、操船や接客が億劫になった。キミ、ウエールズからギリシャまでの帆船に乗る仕事をやる気はないかね?大丈夫、地中海に鮫はいないよ」、などと言って若い人を探していたかもしれない。ふとそんなことを思った。

追伸
久しぶりに「暖炉のにおい」を書きました。発表した記事が、今回で100回になりました。2011年2月に「さても人間とは」で始まり、4年6ヶ月で100回です。おめでとう100回記念、と言うことでお祝いを受付中です。 書きかけの発表していない記事もかなりあります。また、未完の記事を完成させて発表している場合もありますので、よければ読んでみて下さい。

男の美学(なんちゃって)・・・2013年2月に発表しましたが、引っ込めました。書き直して再度発表してます。よかったらどうぞ。

「暖炉のにおい」はまだまだ大きな隠しネタがあります。

コメントは別に禁止しているわけではありませんのでお気軽に。

暇つぶしであれ、偶然であれ私の拙い記事をお読みいただき、御礼申し上げます。また、読者諸氏の限りない進歩向上をお祈りいたします。          筆者 みっちー










2015年7月19日日曜日

夏来たりなば

お陰様をもって、野鳥貸家編(シリーズ)はちょこっと好調である。庭に野鳥用の巣箱をかけて、その観察記録モドキである。こんなものは、多くの若いお母さんが、自分の赤ん坊がかわいくて仕方なく、これを不特定多数の人と共有したくて、一所懸命に電子日誌や顔本(?^^;)に掲載するのと大差ない。楽しいのは自分だけ、と思うのだが。

それにしても、野鳥たちは春に営巣開始して抱卵、子育て、巣離れ、ちょっとだけ餌のとり方などを雛たちに教える。この間おそらく一ヶ月少々であろう。その後の約十一ヶ月は何をしているのだろうと、疑問に思った。

野鳥たちは、成鳥になってその寿命が尽きるまで上記の生活を繰り返す。生物だから、子孫を残す行動は当然だが、それに費やされる時間は、大雑把に鳥は人生(鳥生?)の十分の一ちょっと。人間は、四分の一ほど(平均寿命80歳とし、子育てに二十年とした)。人間の場合、成長期はともかく、子供が手を離れた、それ以降の時間って何なのだろう、とふと考えた。

人が幸、不幸を語って泣き笑いをするのは、宇宙の構造を知らないからだろうと思う。私は、人が生身の体をまとっている間は、この宇宙の構造はわからないようになっているのだと思う。だからこの世から幸も不幸も、泣きも笑いも決してなくならないだろう。

親鸞が語ったと言われる「善人尚往生とぐいわんや悪人をや」の意味するところ、私の解釈は一般とは別である。ただ、そう思うだけで、もちろん確固たる証はない。今よりも科学、哲学、そして宗教の研究が進歩し、それらの補完関係が進めば、凡夫たる私たちにも人生の意味とかがわかるようなるのではないか、と思いたいのである。幸不幸、泣き笑いは無くならなくても、これらを糧としてその質自体は向上するだろう、と思いたいのである。

食って、寝て、子供育てて終わるならサルでもできる。金儲けがうまくても、真摯に生きるのでなくては、人生がもったいない。幸福で楽しくても、進歩がなければ・・・。

空き家になった野鳥貸家を眺めてこんなことを考える。台風一過、午後から暑くなりそうだ。私は、暑さには強いようだ。だが、嫌いだ。金があれば南米チリと北米アラスカに家を買い、一年中冬を満喫していたい。

夏来たりなば冬遠からじ。しばしのがまんじゃ。早く薪ストーブに火を入れたい。


2015年6月27日土曜日

野鳥貸家 殺意 !

今、野鳥貸家別館でシジュウカラのつがいが営巣している。本館では、あの育児放棄事件以来、借り手がいない。折角中を掃除して玄関下が大きく開閉できるように、蝶番をつけたのに、である。(もっとも、この蝶番の目的は私が雛の様子を見るためのものであるが・・・)

五月から六月にかけては、植物の成長が一気に早まり、貸家も木々の葉に隠れて店子たちの行動が見づらくなっていた。私は、別館の営巣開始には気がつかなかった。冬場に頻繁に素泊まりのお客がいたことは知っていた。春先にシジュウカラのつがいが出入りするのも見た。しかし、それは長続きはしなかったので、この「物件」には彼らにとって、何か不都合があるのかもしれないと考えていた。

別館も、その完成後に若干の手直しをした。夏にかけての営巣では、室内が暑くなるだろうと思って、壁や床にドリルで空気穴をあけた。これがいけなかったのだろうか。店子には内緒だが、元々合板やブリキの切れ端で造った貸家であり、大工さんの腕前もおぼつかないやっつけ仕事で完成させた物件である。いたるところに自然の「換気口」は開いており、追加工事で穴をあけて、かえって雨水でも入るようになったのだろうか。

いまシジュウカラのつがいは、かなり頻繁に別館に出入りをしている。芋虫や蜘蛛のような虫をくわえて飛んで来る。近くの木の枝にとまり、近くを見回してそれから玄関に入ってゆく。私は、これを双眼鏡で観察しているのだが、この夫婦、やつれている。羽毛のツヤが悪い。これは昨年のつがいも同じだった。子育ては大変なのだろう。

この時期、シジュウカラは我が家の西洋濡れ縁にあるヒマワリは食べに来ない。目下の所、ヤマガラが唯一の客である。昨年は、この時期にはヤマガラも来なくなっていた。試しに手のひらにヒマワリのタネをおいて待っていたら、ヤマガラがこれをついばんで行く。相変わらず人懐っこい。ヒガラ、コガラは冬までは来ないだろう。スズメも来ない。彼らが来ると私は見つけ次第追っ払うから、近所中のスズメの間では回覧板が回っているらしい。

数年前、欧州から日本に居を戻したとき、日本ではスズメの数が減っている、と聴いた覚えがある。(いま電子頭脳網で検索したら、スズメの数が「激減」とある)しかし、我が家の地域は人里離れた別荘地であるにもかかわらず、スズメの数は多いようだ。日本全国から雀たちがここに引っ越してきているのか、と思うほど多い。

彼らは(スズメのこと)、おきている間中さえずり続けるので、うるさいことこの上ない。我が野鳥食堂では礼儀は守らないし、食い逃げはするし、すこぶる評判が悪い(^^;)。一番良くないのは、貸家で営巣中のシジュウカラに対する激しいイジメである。貸家に不法侵入を企てる。それが適わないと、徒党を組んで玄関前に陣取り、シジュウカラ夫婦を恫喝する。気がつくたびに私は、スズメをレーザーポインターで追い払う。しかし、最近これに動じないスズメがいる。

どなたかシジュウカラを怖がらせずに、スズメだけを追い払う方法をご存じないだろうか。一時、BB弾なるものを発射するおもちゃの銃を買おうと思ったくらいである。BB弾は人間にとってはドッジボール程度の大きさに匹敵するだろうか。しかし、スズメにとってはその威力は破壊的だろう。そのようなものは使えない。米をまいておいて、つっかえ棒とザルで捕獲してどこか遠くに離してしまおうか。

いま複数のスズメが、またしても別館の前に集まってシジュウカラ父さんとシジュウカラ母さんをいじめている。子供たちは、巣の中にいれば安全だろうが、巣立ちの時は危ないだろうな・・・こうなったら・・・(←これ、ゴルゴ13の吹き出しと同じ意味)


         写真は、別館で親鳥が給餌後、ひな鳥のフンをくわえて巣外に運び出すところ




                                春先の本館 スズメがしきりにちょっかいを出す。


2015年6月22日月曜日

イケアにいけや(おまけ)

イケアに行った際、(駐車場内の)車を停めた住所を間違って覚えてしまった。他のイケアは知らないが、イケア立川店の駐車場は三階ある。すなわち、P1、P2、P3である。しかし、すっかり田舎人となった私は、昇降機や自動階段などさえ久しぶりにのるものであり、まして超大型店舗の駐車場などはめったに行かなくなっていたのである。

用心深い(が、おっちょこちょいな)私は、車を停めた住所A-4をしっかり頭に入れて売り場に降りた。目指す獲物は三点。主なものは、居間におく長椅子。心地よく本を読み、電気紙芝居を見、うたた寝をするためには必需品であった。が、長く予算がつかなかった。

予算の優先順位などは、独り者の私には、そのときの気分次第である。実用品が必ずしも順位が高いとは限らない。金がないのは事実ではあるが、かといって実生活で汲々として人生を過ごすのもつまらない。自分の心に言い訳をして、時々優先順位をひっくり返して趣味のモノを買う。矛盾するようだが、長椅子は、自分の中では必需品とは思っていたが、絶対のものではなかった。そして、決して安い買い物ではなかったので、予算的にはかなり以前より先送りの連続だったのだ。

長椅子購入が先送りされていた理由は他にもある。長椅子は、イケアのEKTORP三人がけと決めており、しかしながら店舗が近くになかったからである。最初は、貸し自動車を借り、高速道路を使ってゆくつもりだったので、長椅子の実質的値段は五割近くも上がる筈だった。

※ちなみに、私の知っているEKTORPとはストックホルムの東郊外にある地域の名前である。(昔、ここにあるジムに通っていた)

私の持っている箱型軽貨物自動車の荷室は、奥行きがせいぜい185洋寸(cm)であり、EKTORP三人がけは、入りきらない。とは先入観で、助手席の背もたれを後ろに倒せば200洋寸のものでも載る。運転中、左の後写鏡が見えなければ、道路交通法違反はいいが、実際上危険この上ない。しかし、それは問題なかったのである。これに気がついて私は、すぐ立川行きを決定した。

売り場で実物を目で見て、座って試してなどして、それから売り場の美人の担当者に私の懸案を話したところ、最悪自分で運べない事が判明しても、戻ってくれば配送の手続きをしてくれると言う。

半ば安心して他の二点を探しに行った。一点は一万五千円だかの、長椅子寝台(ソファベッド)。普段は二人がけの長椅子だが、座面を引き出すと二人用寝台になる。これを客間におこうと思っていた。しかし、実物は値段相応のものであったので、早々に諦めた。

残りは、肘掛け椅子である。まったくと言っていいほど、同じ意匠(デザイン)で同じ掛け心地で、値段が3,999円から30,990円の品揃えである。26,991円の差がどこにあるのかはわからない。私は加藤遊民(※金も教養もない遊び人の意。「改名について」参照)なので、PELLOと言う3,999円の方をとった。既にスコットランド滞在中に使ったことがあり、構造や意匠にひどく感銘を受けていたからである。(あるいはあれは、30,990円のPOANGだったか。いづれにせよ、外見、座り心地はまったくと言っていいほど変わらない)

私は、階下の倉庫に降りて、PELLOの梱包を台車に積んで支払い場所に向かった。あたりの景色は、スウェーデンのそれとほぼ同じである。天井がやたらと高い。米軍横田基地が近いので、外人が多い。

支払いを終え、昇降機に乗ったら米国人らしい太った子連れ奥様二人に遭遇した。彼女ら、階上から降りてきて、また上に行くらしい。展示場と倉庫を間違えたのだ。迷ったのですか?と聞くと、私のTシャツを指して、そこが私の来たところよ、と陽気に誤魔化された。私のTシャツは、欧州の慈善店で99セントだかで買った中古品で、SANFRANCISCOと書かれていた(自分で知らなかった^^;)。

彼女らをからかった直後に、私は自分の間抜けさに気がついた。あれ、私の駐車階はどこだっけ?その階の中の住所は覚えているが、階数そのものを覚えていなかった。動揺を悟られないように、当てずっぽうで、P2の釦を押した。

誰にでも「ついている日」というものがある。その日が、私のついている日だった。階数は当たり。私が押しているのが大きくて重い長椅子の台車で、階数が違っていたらちと面倒だったに違いない。昇降機を降りてA-4に向かう。

金にいとめをつけず、場所を選ばず、時間を気にせず探せば、それはいくらでもいいものは見つかるだろう。しかし、私の手の届く範囲でこんな座り心地のいい椅子はそうはないと、ひとりごちるのである。


        イケアのPELLO、3,999円 (橙色は、汚れよけの西洋手ぬぐいです)



2015年6月18日木曜日

イケアにいけや

アイルランドのエンヤを日本人の歌手グループだと、ずっと思っていた。もとより芸能界には暗い。むかし、日本の歌手グループで、ショウヤと言うのがあったのだ。詳しくは知らない。知っているのは名前だけ。で、エンヤも同類だろうと思っていた。語感が日本語っぽいのである。大勢に影響はない。

アイルランドに住むようになってから、それらが別モノであることに何となく気がついていった。ショウヤについては未だ何も知らないが、エンヤについてはほんの少しだけ知っている。

彼女の歌の雰囲気は、例えてみれば、暗闇がせまる夕暮れの湖に靄がかかり、それを背景にボーっと光る妖精たちが湖面を遊弋(ゆうよく)している、そんな感じである。私が思っているよりはるかに有名らしい。

スウェーデンに出入りしていた頃、IKEAを知って、少し驚いた。「池谷」と言う日本の家具屋がこんな地の果てまで来て商売をやっているのか、と思ったのである。当時スウェーデンで知られた日本のモノと言えば、寿司と空手くらいなものだったから。

イケアは本家ストックホルム圏では郊外に2店舗あるだけである。確か両方に行ったことがある。両方に行っても意味はない。売っているものも配置もほとんど同じだから。たまたま、厳冬期に最北のイケアに行ったことがあるが、中身は同じであった。ただ、緯度的にはほとんど北極圏、隣接する川を渡ればそこはフィンランドであった。国境を越えても、旅券検査も何もない。ただ寒いだけだった。

ダブリンの北、空港近くにイケアができると聞いて喜んだが、私が在愛中には完成しなかった。そこは、きわめて治安の悪い地域で、店ができても万引きで潰れるぞ、などと陰口を言うものもいた。

さて、日本である。皮切りは千葉で、今は随分増えた。と言っても、私は長野の山の中、普段はニトリのお世話になる。ついでながら広告で、お値段以上ニトリ、と歌っているが、私に言わせればお値段相応。私個人の感想だが、イケアについては意匠(デザイン)や品質においてお買い得感がある。イケアは言うなれば欧州のニトリで、金持ちは行かない。日本でも金持ちは大塚家具に行くのだろうと思う。

イケアが立川にできた。立川は昔の縄張りの中なので、心安い。佐久からは距離的にも時間的にも一番近いイケアになった。近いといっても、我が御用邸からは片道180洋里(km)はある。

私は、ご幼少のみぎりより、床に座るのが苦手で、うちにも長椅子(ソファ)が欲しかった。でも、ニトリのものは気に入らなかった。イケアには値段と意匠で妥協できるものがあった。

電子頭脳網で梱包の大きさを調べ、我が愛車(軽貨物)の荷室を計って見た。入りきらなければ貸し自動車屋で貨物車を借りるつもりだったが、計算上は助手席の背もたれを後ろに倒せば、辛うじて積めることが判明した。

超早朝に佐久を出発し、国道をトコトコトと走った。途中一回だけ車中で仮眠をとり、多摩湖を経由して立川に入る。私がいた頃に工事が始まったモノレールは、あたかもそれが昔からあったかのように走っていた。玉川上水駅も様変わりして、立体交差になっていた。

店内は世界中どこも同じである。イケアの家具の大方は買った後、自身で組み立てなければならない。二階の展示場で、居間、寝室、そして台所などの雰囲気を再現した中に、組み立て済みの実物が展示されている。小さなモノは、階下の倉庫に行って自分で台車に乗せ、同じ階の支払い場所で清算する。大きなものは、展示階の担当にその旨を伝え、書類に記入する。その後階下の支払い場所に行って清算すれば、モノが台車に載せられて運ばれてくる。(展示場からの連絡で、既に台車に乗っている)

私の場合、長椅子を据えるのが狭い居間である。搬入経路は、どう考えても玄関も勝手口も狭すぎて無理である。居間のガラス戸からも無理。すなわち、どこからも搬入は無理なのである。これがミソ。イケアの家具は、基本的に自分で組み立てるようになっている。買うときは分解された状態で買ってきて、自分で組み立てるのである。難しくはない。はなから丈夫で、いい意匠(デザイン)で、使いやすく、安価な家具を(貧乏人にも)、と言うイケアの企業理念が窺える。

寸法上は乗るハズ、であった。が、一抹の不安があり、展示階の担当(すらりと背の高い美人であった。まったく絵に描いたようなIKEAの社員であった。ああ、あと20歳も若ければ・・・^^;)にあらかじめ話しておいた。もし、私のロールスロイスに納まりきれなかったら配送を、と。また、ここでは支払いが終わった時点で、店員さんは一切手を貸してくれない。たとえモノが重くて車に乗せられないとしても、彼らは何もしてくれない。支払い場所に戻って泣く泣く大枚をはたいて配送を頼まねばばらない。
※実際、配送料は大きさや重量の割には高くない

私の長椅子は、幅220洋寸、奥行き88洋寸、高さ92洋寸である。組み立て前は、二つに分けて梱包されている。大きいほうが骨組みと洋座布団が入っており、長さが199洋寸。この長さが昇降機(エレベーター)に乗るかは、支払いのときにあらかじめ確かめておいた。大丈夫の由であった。重量は66洋貫(kg)ある。もうひとつの梱包は、長椅子の被い(カバー^^;)であり、これは重量、寸法とも問題なし。

駐車場までたどり着き、車の後部扉を開けて積み込みを開始したが、66洋貫は、ひとりで積み込むにはなんとも重い。私は、欲に駆られて頑張った。これが配送依頼となったら、1万少々余計に払わねばならなくなる。

イケアでは、もうひとつやらねばならぬことがある。ホットドッグを食うか、ミートボールを食うか・・・。
ホットドッグと珈琲で150円。ホットドッグは欧州のIKEAで食べた味とまったく同じで、妙にうれしく、かつ懐かしかった。好物の鰊の酢漬けも欲しかったが、高かった。

帰路は、懐かしい場所などに寄り道をしたかったが、車が曲がるたびに、積荷が左右に揺れてゴットンと穏やかではない。よってほぼまっすぐ来た道を帰った。暗くなる前に佐久に着いて、長椅子の組み立てをしたかったが、それは叶わなかった。

翌朝、荷物を車から出すのがまた大変だったが、結果はすべて良となった。

もとより欧州人の体格に合わせて設計されており、座面が平均的日本人には少し高い。深く掛けると踵が心もとない。寝そべって電気受像機(テレビ)を見たり、本を読むときは、肘掛がちょうど良い枕となる。三人掛けなので、横になれば頭からつま先まで真っ直ぐにして寝られる。自分で選んだ色もこの部屋に合っている。難も無くはないが、気に入っている。






2015年5月21日木曜日

野鳥貸家 お葬式

あれ?親鳥が巣箱に入ってゆかない。貸家の玄関から部屋を覗いて、そのまま去ってゆく。このようなことが繰り返され、大家である私は不審に思った。そのくちばしに芋虫はない。また、芋虫をくわえた父鳥か母鳥が来ても、近くの枝にとまって、いつまでも巣箱に入る様子は無い。

何があの中で起きたのか、また起きつつあるのか・・・。私は蛇を疑った。もしかして蛇が入ったのではないだろうか。蛇が雛をすべて丸呑みにした結果、狭い玄関から出られなくなったのではないだろうか。

それでも私は彼らの無事に一縷の望みをかけて二日間待った。その間に様々な推測が頭に去来する。例のオオスズメバチ?でもあの後、親鳥たちは普段どおりに芋虫(実際には芋虫だけではないだろうが)を運び続けた。スズメの特殊部隊がとうとうダイエットに成功して、あの狭い玄関から中に突入したか?

実は私の野鳥貸家はここだけではない。もうひとつ、庭の東にある木に、すばらしい外観と住み心地の貸家別館がある。これは佐久御用邸野鳥貸家意匠大賞を受賞した優れものである。(出品数2点、審査員・・・わ・た・し ^^;)この貸家にもシジュウカラの夫婦が入っていて、時々私は観察しているが、どうもいけない。親鳥が芋虫を運んでくるたびにスズメが彼らを脅しつけている。結果、それほど頻繁には親鳥がこなくなってしまった。心配である。それにつけてもスズメの凶暴なことよ。

今回、シジュウカラの営巣が失敗に終わったとしても、昨年の例から考えれば、再度誰かが私の貸家を訪れる可能性はある。私は、貸家清掃のため、これを木から下ろし、解体することにした。

蛇が中にいることが予想されるので、床板の螺子をはずした後、恐々隙間から中を覗いた。蛇はいなかった。そっと全開にすると、親鳥の雛たちへの愛が見えるような巣が現れた。床から5洋寸(cm)ほどびっしりと苔をしき、中央にまるく凹みを作って、そこに獣毛と思われる白いものが、これもびっしりと敷き詰められていた。

雛が二羽死んでいた。私の親指の先くらいの大きさになっていたが、目は開いていない。頭頂部に僅かだが、産毛が生えているだけ。肌色の小さな塊である。各々の頭部に大きな灰色の丸がふたつある。あと幾日もしないうちに、ここが開いて目となり、彼らはこの世の景色を見るはずであった。くちばしは、二羽ともうす黄色で、閉じていた。胃には何も入っていないようだ。

腐敗もせず、アリにもやられておらず、巣ごとゆすると意外にも彼らの頭は揺れた。揺れても、彼らの目が開くことは無く、くちばしも閉じたままだった。

ため息をひとつつき、私はショベルを持って、貸家のあった木の根元に小さな穴を掘り、そこに巣ごと彼らを埋葬した。

佐久御用邸でのお葬式はこれで二度目である。最初は、オオルリであった。二年ほども前だったろうか。見るも鮮やかな青い色をした、スズメより少し大きな鳥が、来客用の部屋の窓の外に横たわっていた。おそらく窓の硝子にぶつかり、首の骨でも折ったのだろう。死んでなおその青色は鮮やかだった。
台所から調理用の紙(kitchen paper)を持ってきて包み、庭の片隅に穴を掘って埋葬した。
(墓標も建てたように思うが、既にそれは無く、場所もどこかは忘れた。これでいいのだ。)

貸家の中を刷毛で掃除をしながら、はたと思い至ったことがあった。今、お隣のS邸ではご主人が、薪小屋の改修中で、屋根に上って電動螺旋回し(impact driver)を使っている。大きな音である。そう言えば、昨年の初夏、シジュウカラの営巣中にS氏が、刈り払い機で雑草を刈りながら巣の近くまで来た。私は事情を話してその作業を中断して頂いたのであった。

これだ。我が野鳥貸家からお隣の薪小屋までは、ほんの5~6洋尺(m)である。ここ数日この作業が続いていた。雛たちの胃が空だったのはこれで説明がつく。残念だが、しようがない。

お隣の薪小屋改修工事は二期目の最終段階にある。これから私は野鳥貸家に若干の改装を加えて、また木に戻すつもりである。野鳥たちよ、たくましくあれ、と願いつつ。

佐久御用邸野鳥貸家意匠大賞受賞 野鳥貸家別館

2015年5月15日金曜日

野鳥貸家 大変だー

昨日「野鳥貸家 2」を上梓(?)し終わってすぐのことであった。寝室の窓から貸家を眺めていたら、大きな蜂が飛んできてその玄関にとまった。

私は、ここ数日の間、近所でオオスズメバチを複数回目撃している。少し大袈裟に言えば、その大きさは私の親指に羽を付けたほど大きい。周囲を威嚇するかのように羽音を響かせて飛び回っている。獲物を探しているのか、また巣となる場所を物色しているのかは知らない。

昨年はキイロスズメバチが近くの舗装路にある四角いマンホールの穴に巣を作り、お隣のS氏が別荘の管理会社に連絡、ほどなく殺虫スプレーですべて退治された。一昨年はそのS邸の軒下に直径50洋寸(センチメーター)ほどの見事な巣を作り、近所を怖がらせた。(蜂たちが出て行った後に、昨年スズメが巣を作ったことは前回の「野鳥貸家 シジュウカラ先生、スズメ先生」に書いた)

件(くだん)のスズメバチは、貸家の玄関から中を覗いている。緊急事態ハッセイ。私は大急ぎで居間にあった双眼鏡を手に戻って、それを目にあてた。まだ中を覗いている。私は、早くシジュウカラの親が戻って来、この事態の回避されることを願った。心の中で、早く、早くと、もどかしく思っていたら、ついにスズメバチは貸家の中に入ってしまった。

生き物に獰猛なものなど無い。人食いザメだって、キングコブラだって獰猛なわけは無い。言葉と言うものは人間の発明なので、人間の都合で勝手に使う。ロットワイラーだって、コモドドラゴンだって凶暴なわけは無いのだ。動物界に例外はただ二種、人類とオオスズメバチである。我が野鳥貸家に押し入った暴漢は、オオスズメバチに違いない。

獰猛、残忍かつ凶暴凶悪なオオスズメバチの武器は、強力な毒針とあごらしい。孵化直後のシジュウカラの雛など、彼らから見れば、おいしそうなご馳走に違いない。雛はまだ羽毛もそろわず、動きもままならないはず。目も開かず、大きな黄色い口ばしで親鳥にエサをねだるだけの存在である。今なら大きさもスズメバチと大差ないだろう。私の脳裏には貸家の中の惨劇が浮かぶ。オオスズメバチは、無抵抗な雛に毒針を使う必要はない。いきなりあの強力な大あごで、雛を自分が巣に運べる大きさに噛み切るに違いない。

やきもきしている時の時間の長さと言うものは、それは長く感じる。実際それでも数分は経ったであろうか。一羽の親鳥がエサをくわえて帰ってきた。それがオスなのかメスなのかはわからない。胸前のネクタイの太いのがオス、細いのがメスだと言う。ただ、大家としては、ツガイがそろった時でなければ比較判別は難しい。ともかく一羽帰ってきた。玄関の前の枝にとまり、周囲を窺っている。これはいつもの行動である。私は、一秒も早く中に入って雛たちを救ってくれるよう願ったのだが。

数秒の後、親鳥がエサをくわえたまま玄関から中を覗いた。中の異常に気が付いたのだろう、すぐには入らない。やがて親鳥は玄関を離れ、近くの枝にとまった。エサはまだくちばしにある。それなりに考えている様子が窺える。

野鳥貸家の大家は考えた。あの狭い空間で、シジュウカラがオオスズメバチと戦って勝てるものだろうか・・・。大あごはともかく、オオスズメバチの毒針を受けたらシジュウカラは助からないだろうと思う。

長考の後、意を決して親鳥は巣の中に入っていった。中で何が起きているのかはまったくわからない。勝負は一瞬でつくのではないだろうか。もし、シジュウカラがハチとの戦いに慣れていて、毒針をうまくかわすことができれば、勝算は大きい。

ヤマガラが直接私の手からヒマワリのタネをもってゆくことは以前書いた。以来私は、時としてヒマワリのタネを掌中に隠してヤマガラを誘う。彼らはやってきて、私の手のひらを調べ、わずかに見えているヒマワリのタネを引っ張り出そうとする。これに失敗すると、タネを隠している私の指を突っつき始めるのだ。飛び上がるほど痛いわけではないが、それでもよく見てみると、ついばまれたところに小さく血が滲んでいるのだ。(下の動画をドウガ見てください^^;)

彼らの「つっつき」はそれほど強力である。シジュウカラもこの点は同じはずである。オオスズメバチといえども、毒針さえかわせれば、何ほどのことがあろうか。

数分の後、親鳥が玄関から出てきた。無事な親鳥を見て、私はほっとしたが、そのくちばしにオオスズメバチはない。確か、ハチは死んでも、しばらくは針の機能は生きていると聞いた。大丈夫なのだろうか。

今日も我が野鳥貸家の店子たちは元気に巣箱にエサを運んでいる。よかった・・・。


             数年前に撮ったオオスズメバチの死骸写真。私の人差し指と比較されたい。



                    おまけ・・・ヒマワリのタネを手のひらの中に隠し、ヤマガラに・・・。



2015年5月14日木曜日

野鳥貸家 2

ここ佐久の御用邸も一昨日の台風を無事やリ過ごして、今日は文字通り初夏の好日となった。

2週間ほど前に、南にあった薪小屋を解体した。幾星霜と言えば大げさだが、数年の間薪小屋として使ってきたが、ついにその役目を終えた。屋根材を安く上げるために、色々工夫を重ねたが、限界を超えた。雨漏りが激しく、用をなさない。

金属や樹脂製の波トタンを張ればよかったのだが、農業用のマルチと呼ばれる真っ黒な薄いシートを張った。使い古しの合板の屋根に、雨さえ防げればよいのだとこれを張った。数ヶ月の洋行から帰って私が見たものは、切れ切れになって風にたなびくマルチの無残な姿だった。元より骨組みもまったくの有り合わせで作った。薪が一杯に入っているときは、薪と天井の間に車用のジャッキをかませて屋根を支えた。小屋が傾き始めるとそこいらにあった太目の木の枝などでつっかえ棒をしており、見苦しさでは天下の一級品であった。

一昨年の1mに近い積雪や、あまたの台風にも耐えて来たのだが、取り壊しを決行した。とは言え、近いうちに薪小屋を兼ねたあずま屋を建てようと思っている。優美にして堅牢、安価にして便利なものにするつもりである。中に手作りの木製の椅子と食卓を置いて、お茶を飲んだり、野鳥を観察したりするのである。

そう言えば、今年も野鳥貸家に店子(たなこ)が戻ってきた。昨年と同じくシジュウカラである。貸家は昨年のうちに分解清掃しておいたものだが、今年はやけにスズメが我が野鳥貸家に固執していた。スズメは入れない玄関にしておいたはずだが、ついには出入りを始めた。(彼らダイエットでもしたのだろうか@@)玄関の寸法は昨年と同じはずであるのに・・・。

あまりのスズメの図々しさに私は重い腰を上げた。四角い合板の真ん中をくり貫き、玄関の寸法を28mmから27mmほどに狭めて塗料を塗り螺子でとめた。これからがおかしかった。スズメが昨日と同じように我が貸家に入ろうと頭を入れる。が、それ以上胴体は入らない。どうしても入らない。何回も試みるのだが、入らない。同じスズメかはわからない。でも、これを彼らは日中何回も繰り返したのである。私は見ていた。おかしさと、ザマーミロと、少しの同情をもって観ていたのである。

実際この1mm前後の間の寸法が彼らには大きいのである。やって来たシジュウカラにもこの寸法は狭いらしく、しきりに間口を広げようと、キツツキのようにコンコンやっていた。気の毒におもうが、仕方なし。

つい数日前よりシジュウカラのつがいが交互に出入りをするようになった。シジュウカラはメスだけが巣作りをするそうで、オスメスが交互に出入りをするということは、既に中に卵があり、孵化しているということである。先ほど双眼鏡で覗いてみたら、どちらも口ばしに虫をくわえている。

一方、庭の東にかけた巣箱には誰も借り手が現れない。冬の間、シジュウカラとスズメが交互に訪れていたが・・・。(こちらはスズメは入れなかった)この玄関の寸法だと利用できるのは、シジュウカラ、コガラ、それにヒガラのみだと思われる。これ以上小さな野鳥は日本にはいないらしい。

なにか他にも書くことがあったような気がするが、思い出せない。

いつも私のブログを読んで下さっている海外と日本の方々、頑張ってください。そして頑張らないで下さい。

                (あら、怪しいオヤジが見てるわ。気をつけなきゃ)


2015年4月3日金曜日

木を伐る

我が領地の、道を挟んだ南側には雑木林があって、持ち主はいるのだが、一向かまう気配はない。日本がバブル景気に沸いた頃、投資目的か、あるいは本当に別荘を建てるつもりだったのか、いづれにせよ大枚をはたいて買った土地のはずである。2~30年前の話しである。

当時このあたりは、相当な値段だった筈で、それでも人気があって申込者を抽選で絞っていたと聞く。今は当時の値段の4分の一くらいまで下落し、そのお陰を蒙って私のような貧乏人が、土地を買って家を建てることができた。

新幹線の駅から20分少々。が、山中にあるので車は必須で、日常の買い物、用足しなどは必ずしも便利とは言えない。しかしながら、定住者は意外と多い。多くは年配者たちであるが、それはこの町に、町の規模に似合わない病院がいくつもあるからかも知れない。

大雑把に言って、数ある区画の三分の二くらいは空き地のままで、多くはまったく手入れがされていない。これらは荒れ放題の薮になり、雑木林となる。そう、我が家の南の土地がまさにそれなのである。正確にはわからないが、おそらくは楢、もしくはその類の大木が数本、そして無数の潅木が繁茂して、私の大切な日差しと景色を遮っている。

一昨年のある時、私は正当な苦情と、多少の下心を持って別荘の管理会社を訪ねた。南側の土地の木々が伸びすぎて、我が領土に来るべく日差しが遮られ、見えるはずの絶景が見えないと苦情を申し込んだ。土地の所有者にしっかり管理をするよう促して欲しいと。土地の所有者とは直接は接触はできない。管理会社が先方の連絡先を教えてくれるはずはないからだ。

私は、土地の所有者と管理会社を通じて何度も連絡をとる面倒を避けるために、あらかじめ計画を練っていた。すなわち、

「そちらの管理不行き届きで、こちらが痛く迷惑を蒙っている。しっかり管理すべく、責任を果たしてしていただきたい。ついては高く伸びた雑木を伐って頂きたい。もし、そちらで伐採をしないなら、こちらでその労をとるも吝(やぶさ)かではない。しかし、これによって生じた木材はこちらで適宜処理するが如何?」

と。結果、私に伐採して下さい。それによって生じた木々も私が処理してもかまわない。あの土地にこれ以上お金を掛けるつもりはない。これが管理会社から来た先方の返答であった。

かくして私は庭に有り余る日の光と、近場から約2冬分の薪を調達することとなった。

伐採と言う作業は、傍目で見るよりはるかに危険で困難である。すぐそばに電線が通っている。(万が一、これを切断するようなことがあれば、私はその晩のうちに持てるだけの荷物を車に積んで、忍び足でどこかへ引っ越して行くであろう)

楢(ナラ)や樫、椚(クヌギ)や欅(ケヤキ)など、良い薪材になる樹種は重い。おまけに、枝が好き放題の方向に伸びるので、ただ伐れば、その倒れる方向はまったく予想がつかない。この下敷きになれば、重傷を負うか、死ぬ可能性も高い。私が伐ろうとしている木々は一本何トンの代物だからだ。

ある日、頼んだわけでもないのに、近所の業者が来て、伐採の見積もりをさせろと言う。どうやら管理会社の担当とつるんでいるらしい。具体的金額を示されたが、それは決して高いものではなかった。私は金も惜しかったが、それよりも自分自身で伐採をやって見たかった。当然断った。自分でやってみてだめだったらその時に頼めば良いと思った。

伐採計画を実行に移し始めたのは昨年の秋である。原付鎖回転鋸(娑婆ではチェーンソーと言う)を買った。今まで使っていたものは、原動機の排気量が小さく、おまけに寄る年波で調子が悪かった。

ひとところに生えている木々を伐採するには効率的で安全な順番と言うものがある。ただむやみに伐れば、掛木(かかりぎ)と言って、伐採した木が他の木にもたれて、完全に倒れない場合がある。これの処理は非常に危険らしい。私が今持っている装備、つまりチェーンソーやロープなどだが、これでは足りない。かと言って梯子や安全帯(命綱付きのベルト)などは買っても元が取れない。幸いなことにお隣のSさんがこれらを貸してくれた。

考える日々が続いた。我が領地からその雑木林までは徒歩で3秒である。時々珈琲をもって林の中に立ち、案を練った。素人にできる最善の伐採は、木に登って上から少しずつチョキチョキ伐ってくることである。高いところは怖い。しかし、一番恐れることは、根元からいきなり伐って、電線を切断することである。

木を思った方向に倒すには、二つ方法がある。ひとつはロープで引っぱっておくこと。もうひとつは鋸を入れる際、倒したい方向にパックマンの口のように切れ目(受け口)を入れ、次にその反対側から鋸を入れる(追い口)。倒そうとする木が直立して尚且つ枝振りが均一で風がなければ、理屈上は、この方法でうまく行く。ところが、現実はかなり複雑で危険を伴う。

ひとり作業は効率が悪いだけでなく、危険である。が、やむを得ない。かなりの高さまで登り、ロープを結び、降りてその端を倒したい方向にある別の木に結ぶ。(逆に言えば、倒したくない方向に木が倒れるのを防止する策である)方向を見定めて受け口を切る。次第に心臓の鼓動が早くなる。アドレナリンが出ているな、と思う。追い口を切り始める。万が一を想定して逃げる方向も考えておく。口の中がからからに乾いている。水平に切っているつもりでも、受け口に近づくにつれ、刃先が下がる。このまま行けば受け口より追い口が下になり、木が逆方向に倒れるかもしれない。やり直しは危ないかもしれない。どうする・・・。

ほぼ狙い通り。うまくいった。軽い地響きを感じた。ほっとするあまり、高揚感とでも言うような、体が宙に浮くような感じがした。一本目を倒して自信を持ったのならいいが、私は伐採がこんなに大変なら、後は業者に頼もうかと思った。

後始末も大変である。薪にならない小さな枝はまとめて一箇所に集める。倒した木を玉切る(ストーブに入る長さに切ること)。玉切った木を我が愛車(二輪車)に積んで庭に運ぶ。楢の木は直径5~60cm、長さ40cmくらいで、その重量はおそらく50kg以上にはなる。愛車には一個しか載らない。薪割り機などないので、斧で割る。硬い木は一筋縄ではいかない。

気がつけば全身汗みずくである。薪ストーブの季節は終わったと言うのに、もう来期の心配をしている。

                     写真 伐採中の筆者




2015年2月6日金曜日

月下の雪キツネ

二日前の晩のことだった。満月だった。庭は、すっかり根雪に覆われて一面の白であった。月の光を反射してのことで、明るさは昼のそれとはまったく別の種類のものであった。居間の電気を消し、ガラス戸を通してみるその空間は、冷え切った大気に暗い透明な青を溶かし込んだような色合いに見えた。

早めに寝室に入り、読みかけの本を開いたが、数行読む間もなくまぶたが重くなった。本を枕元に置き、すぐに寝入ることができそうだった。湯を早めに浴びたので、体が冷え始めてでもいたのだろうか、実際にはなかなか眠りはやってこなかった。気長にまぶたを閉じていた。

ようやくそれが訪れようとしていたときに、外から甲高いけものの声が聞こえてきた。

ここに越してきて以来、寝る前に時々庭に餌をほおっておく。それは、ニンジンであったり、リンゴの芯であったり、古くなった鶏肉だったりした。そしてある時はテンが、ある時は狸が、リスが、ネコがやってきた。

ああ、外に何かが来ているなと、鈍くなった意識の中で思った。眠気を易々と払いのけ、上半身を起こした。そのままカーテンをそっと開けると、ベランダの向こうにキツネが来ていた。先ほどガラス戸から投げた古くなった菓子パンを漁っている。もうあの妙に甲高い声は、あげていない。明るい満月の雪原とは言え、逆光になっているので、キツネの黒い影はただ雪にじゃれついているようにも見える。

南東の浅い方角に大きな、寒々とした黄色い月があり、白い雪の庭には木々の陰が落ちて交差している。その中に一尾のキツネの影が無心に餌を食べている。

キツネと話がしてみたかった。

部屋の中から窓ガラスを小さくたたいた。キツネは気がつかない。少し大きくたたいた。キツネは一瞬間、辺りを見回したが、すぐに食事に戻った。

私は、心の中でキツネにお休みを言ってまた布団をかぶった。

                ※ 写真は今撮ったものです。