2011年12月28日水曜日

暖炉のにおい(大人の火遊び2)

アイルランド生活の開始はウイックローの山の中だった。バスエーランと言う国営のバス会社のバスが村のはずれをかすめて通る。ダブリンから来ると、その停留所でバスを降りて村の中心部、と言ってもカトリック教会ひとつとそれに対抗するプロテスタント教会ひとつ、それに2軒の居酒屋と一軒の雑貨屋があるっきりの、ただそれだけの村だった。

そう言えばこの村の中心に近い家の白壁には小銃をかたどった小さな絵が描かれており、その下に「IRAのメンバーでかつ密造酒をつくっているぞよ」と書いて宣言していたものだ。密造酒はポチーンと呼ばれ、ジャガイモの焼酎であった。アルコール度数は極めて高い。自慢するようだが日本人でこのポチーンを飲んだ者は私を入れてもそんなに多くはないだろうし、ポチーンそのものをほとんどの人は知らないであろう。

バス停から村の中心部まで徒歩で30分、そこから教授の家まではさらに30分の道程(みちのり)である。私はそんな山の中に住んでいたのである。

教授は変わり者で、人と接するのが好きであったが、人は教授をあまり好ましく思わなかったので、知人は少なかった。その少ない知人の中に一組の夫婦がいた。夫のジョンはアイルランド人で、非常に小柄で年の割にはしなびた顔つきをしていた。妻のカレンは英国人ではあるが、明らかに白人以外の血が混ざった細面の浅黒い顔をしていた。二人は貧しくはあったが人柄も温厚で礼儀正しかった。彼らの生業はどうも鋳掛屋(いかけや・・・鍋釜の修理をしたり、包丁を研いだりする便利屋さんのようなもの)らしい。教授に聞くと、元はトラベラーではないか、とのことであった。トラベラーとはアイルランド流ジプシーで、多くは乗用車でキャラバンをひっぱって旅から旅の生活で生涯を終える。本当かどうかは知らないが、周囲を汚したり、人様のものをくすねたりするので、嫌われているという。アイルランド政府は彼らの定住化政策を進め、最近はめったに見かけなくなったが。

もちろん、ジョンとカレンは荒地の中ではあったが自分たちの家を持っていた。ある日、私と教授は彼らにお茶に呼ばれた。何一つ贅沢品のないつましやかな住まいであったが、ひとつだけ私の目を惹いたものがあった。やけに平べったい形をした薪ストーブであった。ジョンに聞くと、彼は自慢そうにこれは船舶用のストーブで非常に珍しい物だといった。幅が65cm、高さが30cm,奥行き40cm位だったと思う。そのかたちでは確かに揺れる船内では倒れにくいであろう。しかし、もっとも特徴的だったのはそれが四角い枠の中に入っており、枠自体が傾いてもストーブはある程度までは傾かない構造になっていたことだった。龕灯(がんどう・・・昔の探照灯)の中のろうそくのようになっていたのだ。

しばらくして彼らが教授に挨拶に来た。引っ越すのだという。なかなか保守的な土地柄で、彼らのような異端の徒に世間は冷たかったかも知れない。ジョンは私があのストーブを舐めるようにして見ていたのを覚えていて、 あげるから持ち出すなら早めにしたほうがいい、と言ってくれた。私は喉から手が出るほどあの船舶用ストーブが欲しかった。しかしその時は、こちらも教授の家に間借りしている身分で、運搬ひとつにしても思うにまかせなかった。本当に惜しかった・・・・。せめて写真でも撮っておけばよかったものを・・・。

おまけ 
暖炉のにおい 3 で書いた、私が子守に行った家、そこにもすごいストーブがあった。台所にあった大きな薪ストーブで、常にお湯が沸いており、オーブンがあり、煮物もできるようになっていた。これだけならそれほど珍しくはない。そのストーブは本体から銅パイプが引かれており、この中をお湯が循環して、なんと各部屋の暖房までこなしていたのである。これに比べると日本の竃(へっつい、かまど)や火鉢、囲炉裏など調理暖房器具の貧弱さはどうであろう。もっとも、昨今はIHやら電気空調が安全で低価格で手に入るが。

写真は今年2011年6月スコットランドの知人宅で見た小さな薪ストーブ。大きさがわかるようにストーブの横に私の手を広げてみた。私の親指の先から小指の先までは20cmである。開いた扉からもわかるように、遠近の錯覚を利用してストーブを小さく見せているわけではない。これでも実用なのだった。これならくれるといわれれば、ポケットに入れて持ち帰れたのに・・・(無理です)。

2011年12月23日金曜日

日本人は滅亡した

政権公約をマニュフェストと言うらしい。政権公約とは選挙の時に、その党が政権担当をすることになったら、このようなことを実行します、と言う公の約束事である。欧米の選挙のマネである。新聞などはマニュフェストと書いてその後に括弧書きで政権公約と書いてある。はなっから政権公約と書けば事足りるではないか。バカバカしい話しだ。国会では率先して外来語を使って議論などをしている。バジェット、インフラ、サマータイム、ガバナンスなど。テレビの世界ではDV(家庭内暴力)、MC(司会)などさらに英語の頭文字をとって短くしている。だいたいなぜ日本の国営放送がNHKなのだ?旧国鉄がJR,家庭ではパパ、ママである。本州にある大きな山脈を日本アルプスという。歌手が歌を歌っている。その最中にまったく何の必然性もないのに歌詞が英語に変わる。聞く方もこれに異を唱えるふうは見えない。

日本の職業蹴球や野球のチームは松本山雅を除いてみなカタカナが入ってる。(ばかじゃないの、あんたら・・・)
郊外にある集合型商業施設では店舗の名前は多くがカタカナかアルファベットである(漢字を使っているのは呉服屋と中華料理屋くらいなものである)。寿司屋なんてめったに入らない((入れない^^;)が鮭をサーモンと言う。外来語だけでなく日本語さえ外国語に置き換えたいらしい。必然性はない。ただ客受けを狙っているのだろう。

日本は第二次世界大戦に負け、貧しい暮らしから這い上がるとき、その目標は欧米であったに違いない。彼らの言葉を使えば自分たちも彼ら並みになれると信じた。自分を教養のある人と見てもらいたい、と言う願望もあるだろう。

会話や文章の中に外国語を多用して自国を非難する日本人がいる。それで自分が白人になったつもりの人がいる。白人の言葉を使ったからと言って鏡を見てみれば白でもない、黒でもない、その顔は黄色人種なのだが。それが何か不満なのだろうか。

自分の名前を外国のそれにして喜んでいる人達がいる。芸能人に多い。一般人も海外に出るとこれをやる人が多い。日本人以外には日本人の名前は覚えにくい。当然である。ではそれが故に日本にいるアメリカ人が日本人のために太郎だの花子だのに名前を変えてくれるだろうか?

※ちなみに「みっちー」は私の幼少の頃からの呼称である。みちおだから愛称(?)としてみっちーが定着した。カタカナで書かないのは私のこだわりである。

自宅の表札をアルファベットで書く人も多い。おかしな事だとは思わないらしい。外国人の訪問者などは一生涯来ないにもかかわらず。

むきになって貶(けな)すことでもないが、敗戦後日本人は世界に互して行ける民族ではなくなった。欧米に決まりごとを作る役割を頼り切るようになったからだ。率先して規則を作る側にはなれなくなってしまった。日本人は汲々として規則に従う側に回っている。この心根が問題である。

アメリカを見よ。毎年銃による死者が一万数千人にのぼる。公的保険がないので病気になっても医者にかかれない人がたくさんいる。

英国を見よ。世界中に争いの種をまき、水までくれて我関せずの涼しい顔をしている。日本の国会は英国をお手本にしているそうな。噴飯物である。そんなにいい制度を採用しているならさぞ首都であるロンドンの治安はいいことだろうな。民族も歴史も違うのである。日本は日本の民主主義があってしかるべきだ。我々には何も参議院という有給高級老人倶楽部で金持ちを遊ばせる義理はない。

福祉は北欧が定評がある。日本の福祉の貧しさを語るとき、(実際日本の福祉は悪くないのだが)政治家やテレビでは北欧を引き合いに出す。お偉い議員さんたちは視察旅行と称して北欧を見てまわる。北欧の福祉を日本に持って来て日本人は幸せになれるだろうか。

それでも欧米に憧れる。自身の哲学がないのである。人の世に関する問題はその根底に「人とは」、「幸福とは」、そして「人生とは」などの基本的な哲学がないといい答えは見いだせない。もっとも大切なことは「自分とは」であろう。自分を構成する要素の一つに「日本人」ということが厳然としてある。

日本人は今、かつてない速さで独自の言葉を失いつつある。言葉と文化は密接なつながりがある。言葉を失うということは文化を失うということだ。それは古くから保ち続けてきた日本人の精神的柔軟性がいま外来語の襲来によって軽薄性に取って代わられつつあるからである。テレビを見ると日本が軽薄時代の全盛期であることがわかる。面白ければ、そして視聴率が取れればこれを良しとする。

かつて大宅壮一という人がマスコミの堕落を指して「一億総白痴化」といった。54年も前のことである。人は自分でものを考えることができなくなってる。意見を言ったとしても、それはマスコミからの借り物で、下手をするとさっきテレビで見たことを自分の意見のようにして語る。語った本人も気づいていない。自分の頭がやられていることに。

日本人はすでに滅亡したかも知れない。恐ろしいことである。

2011年12月7日水曜日

死を考える 2

市の誕生月検診というものをK病院で受けた。市が住民の誕生日が来たら毎年健康診断を受けてもらおう、というのが狙いらしい。健康診断の受診率向上を狙うにはいい方法である。昨年も受けてその結果は割りと早く来た。が、今回は待てど暮らせど結果が来ない。

私の住んでいる市は有難い事に医療や福祉の体制が比較的充実している。大病院が中核となって地域の医院と連絡を密にし、成人病予防対策などを行なっている。この誕生月検診は市が大きな補助を出してくれるらしく、私が実際に支払った金額は検診項目の数と内容の割には安い。今回は一般の検診項目に肺がん、大腸がん、それと前立腺がんの検査も加えた。各々500円だったからである。

私は若い頃から十二指腸潰瘍が持病で、これはアイルランドの病院で治した。ヘリコバクター・ピロリという菌が胃や十二指腸にいて悪さをするという。これを退治したらあっけなく治った。当時日本ではまだヘリコバクター・ピロリを殺す治療が保険適用ではなく、意を決して当時住んでいたダブリンの国立病院にいったのである。色々あったが、結果として治った。胃潰瘍や十二指腸潰瘍をやると生涯そこの癌にかかる確率が高くなると言われたので、本来ならば一年に一回は胃カメラを飲んだほうがいいらしい。今回はこれを受けなかった。慢心したのである。

さて、検診から一か月が経ち、ようやく結果が郵送されてきた。昨日(2011年12月6日)のことである。要精密検査というのが2つあった。ひとつは脂質に異常があるとのこと。もう一つを見て私は全身の力が抜けてあたりの景色がすべて灰色になったような気がした。肺がんの可能性があるので、早急に精密検査を受けるように、とのことである。

いろいろ統計はあるようだが、日本人はたしか三人に一人は癌で死ぬ。しかも、かつては胃がんが死因の一番だったものが、いつの間にか肺がんが胃がんを抜いて一位になっているのである。自覚症状などがなく、たまたま検診などで発見されて早期治療を受けたとする。それでも5年後の生存率は7割だそうな。素人でもインターネットですぐこれらの情報が手に入る時代である。私の回りのありとあらゆる全てのことが意味を失いつつあった。

仮に手術を受けるにしても、私は一人住まいなので病院への行き来は車になる。予後の生活をどうするか・・・・。世の中、大概の事は金でどうにでもなる。地獄の沙汰も金次第。病院への行き来もタクシーを使えばよい。手術も入院も心配ない。しかし、私にはこの金がない。家を売ると住む所がなくなる。第一、この不況下こんな別荘を買う人はいないだろう。

ウツ期を脱しようとしていた私は再びひどく落ち込んだ。K病院で撮った私の肺のレントゲン写真には影が映っており、これを肺がんの疑いありとみて精密検査を勧められたのだ。しかと根拠のある話である。末期はかなり苦しむらしい。様々な考えが頭に浮かぶ。あと数年でがん治療は格段の進歩を遂げそうである。しかし・・・・私には間に合わない。

自裁(じさい)、と言う言葉がある。少しかび臭い言葉だが、平たく言うと自殺のことである。元気なうちに多少なりともやり残したことをして、あとは自ら命を絶つ。これがいいだろうと思った。自殺は私の宗教に背く行いである。しかし、自殺には許される自殺とそうでない自殺があると思う。生きられる命を逃避の手段として絶つのは許されまい。もっとも自殺者の9割以上はウツ病などの精神疾患を患っているという。頭が正常な状態での自殺で許されるのは、人のために自らの命を絶つ場合、それとごく近い将来に自分が確実に死ぬことがわかっている場合だと思う。

散る桜残る桜も散る桜・・・良寛禅師の辞世の句と言われる。さっぱりと諦めるか・・・。自分の死に際のことを考えた。今こうして限りなく心細い思いでひとり机に向かっている。パニックにこそならないが、暗澹たる思いが心を支配して「いやぁ、これは何かの間違いだ」とも「早く治療を受ければ助かるさ」とも思えないのである。結局、苦しみや恐怖から逃れるための方法論を考え始めた。精神的に弱いのだ。

つい3ヶ月ほど前、スコットランド滞在中、日本語の本に飢えて、たまたま読んだ本がある。「美しいままで」。日本からオランダに嫁ぎ、病を得て安楽死を選んだ女性の話しである。文字通り美しい愛情物語と凄まじいばかりの闘病生活、そして生き延びる可能性を絶たれた挙句の安楽死選択の話しであった。この場合の安楽死は人間としての尊厳を考えたとき、当然の結論として許されるべきものだったと確信する。安楽死は自裁の一種である。

※安楽死と尊厳死は違うらしいが、ここでは同義語として扱う。

自裁はいいが、ジッサイ(^^;)にできるのか?人に迷惑をかけてはいけない。痛いのはイヤ。血が出るのはイヤ。

そうだ、カナダに行こう。私はまじめに考え始めた。カナダは私の若いころからのあこがれの地であった。カナダの大自然を少しだけ旅して雪山に入ろう。そんなことを(も)考えた。

日頃私は今までやりたい放題をやってきたので、いつ死んでもいいな、などと思っていた。親もすでに逝ってしまったし、妹には自分が先に逝くだろうけども絶対に葬式などしてはいけない、海外で死んでも遺体など引き取ってはいけない、などと言ってあった。しかし、実際に死を目の当たりにするとこの狼狽ぶりはどうだろう。

今朝(つまり12月7日の朝)眠れぬまま早起きして朝湯に入り、身だしなみを整えた。食欲はなく無理やり湯漬にして朝食を済ました。車を運転して近くのS病院に向かう。

様々な想像や思考が入り交じって頭の中でウズを巻く。悪い方へと傾いてゆく。良い方を考えないではない。しかし、こんな時は悪いほうが当たるのだろうと思ってしまう。私の「順番」はまだ先だと思っていたのに・・・。

病院は混んでいた。改めてX線写真を撮り、担当医から話があった。K病院で撮ったX線写真の影は、軟骨が老化して硬くなったものが映っただけ。今回の撮影では何の異常も認められません、とのことであった。私は自分の顔がほころんだのがわかった。ウツを持っているので昨日から辛かった、と話すと担当医は理解を示してくれた。

あとで知ったが、担当医は内科の医長で、芥川賞作家の南木佳士(なぎけいし、筆名)氏であった。氏もまた芥川賞受賞後にウツを患ったらしい。医家、作家の兼業(?)がもたらすものなのだろう、初対面の私にもかかわらず、言葉は少ないが深く温かみのある態度で接して下さった。ただ、がんの疑いが晴れて嬉しいだけでなく、このような「人物」にお会いできたことに無上の喜びを感じた。

2011年12月2日金曜日

辛いでござんす

いま、ウツである。金銭問題、人間関係、先々のこと云々。これらを考えてウツになっているのか、或いはウツだからこれらが問題になるのかはわからない。そもそもこの自分の辛い精神状態が精神医学上のウツに当たるのかどうかさえわからない。医者によっても見立ては違う。医学上の病気の名前が決まったとしても、私の辛さが和らぐわけではない。幸いなことに医者から処方された薬(抗鬱剤でなく、精神安定剤)は効く。気分がどうしようもなく落ちこんで辛く、眠れない時などは、これを服用する。30分で効き始める。私はこれをきつく信じる。これを飲めば症状が和らぐというのは私の辛い時の拠り所になるので、自己催眠のようにこれを念じる。

思えば人の生とは苦の連続である。子供には子供の悩みがあり、大人には大人の悩みがある。ウツでなくともつらいことはたくさんあるのに、ウツはこの辛さを増幅する。そして悪いことにウツには理解者が少ない。悪意はなくとも頓珍漢な励まされ方をするとさらに落ち込むような気がする。

私の幼い時からの性癖で、ひとたびその人が嫌いになると、四六時中心のなかでその人の欠点や犯した間違いなどを並べ立てて罵る。表面では「良い人」を演じていても、人が許せない嫌な性格である。小さな人間である。

そもそも人の犯した過ちなど、いくら言い立てても暴きたてても、自分の精神や魂が進歩するわけではなく、その行為はむしろ退歩荒廃につながるのではないだろうか。自分の魂は高潔で人のそれは汚いなどどと考えて何になるのか。私の魂は小さい。苦しいのである。こんな事は頭では百も承知のはずなのにこれが心底から理解出来ずに人を憎む。

人の魂の成長度合いは様々であろう。実年齢に関係なく、幼い人も長(た)けた人もいるであろう。しかしながら、これらはみな同じ進歩向上の道を歩む仲間ではないのか・・・・。自分が先に行く人から手を差し伸べられたように、後から歩んで来る人に手を貸して共に進もう、と声をかけるのが人の道ではないのか・・・・。(わかっていながらそれができないこの情けなさ、苦しさよ)

肉体を纏(まと)って暮らすこの間には物心両面の欲得が幅をきかせ、心の目が文字通り「暗んで」いる。これをいやな時期だと感じるのはウツもその一因であろう。

人であるということは動物的本能への挑戦なのかも知れない。食べられるからと言って好きなだけ食べて良い訳はない。自分の体に悪いだろうし、どこかで飢えている人にも悪い。他の動物的本能にしても整えられた制御なしに奔放に生きるわけには行かない。自分だけ良ければそれで良い、というのは人の形をした悪魔である。

人は生まれながらにして自由という呪いを受けている。食べるも自由、寝るも自由である。しかし、この自由は自らの、そして共に同じ道を歩む仲間達の魂の進歩向上のために生かさねばならない。しかし、これが言葉の上では如何様にも言えるが、現実の生活の中で実践してゆくのは至難である。だからこそ呪いなのだ。

※1 今、ウツの自覚があります。でも、ウツの人の自覚ってあてになるんだろうかと思ってます。ただ落ち込んでいるだけで、たまたま持病としてウツがあるからこれもウツと思っているのかも知れません。(ウツは病気、落ち込みは単なる精神状態だと思います)

※2 これを公開すべきか、迷っています。・・・・ドチラニシヨウカナ、カミサマノイフトオリ・・・・。え~い、公開だ(後悔かもしれんが^^; )

2011年11月25日金曜日

おもしろいですか?

私はこのブログを文章練習のつもりで書いている。先輩諸氏のものとは違い、写真も少ない。その分、文章量は多い。内容は私の過去から現在に至るまでに経験したこと、それと日頃考えていることなどである。

人一倍安定志向の性格なのに、実際に歩んでいる人生はその反対で、日本人の平均的なそれからは少しだけ離れているらしい。不安ではあるが・・・仕方がない。

私は特定の宗教を持たない。しかしながら自身非常に宗教的な人間であると思っている。私の中には私自身の意志とは別の・・・言うなれば守護霊的な存在があると思っている。大脳生理学や精神医学、また心理学が発達して人がこれまで神秘としてきたものまで科学で解明される時代になった。それでも99のものが科学で解明されたからといって残るひとつも従来型の科学で解明されるとは私は思わない。

私を非安定生活へ導く存在は、私の為を思い、試練の道を歩ませんと必死なのだと思う。私という人間は誰もが望む安逸な生活によっては魂の進歩は望めないのであろう。私は思う。魂の進歩より安逸な生活がしたいと。その存在は言う。人によっては安逸な生活からでも魂の進歩を勝ち得る人がいる。でも、お前はだめだよ、と。

文章練習のためとは言え、人は自分が考えること、経験したこと以上のことは書けない。つまり、私が書く文章は私そのものなわけで、これを見ず知らずの人々にさらけ出すのは少々おもはゆい。しかし、せっかく人様と違った経験をしている、これをほおっておく手はないと思うのだ。

今このブログの読者を国別多い順に並べると、日本、アイルランド、UK、US、マレーシア、ドイツ、フランス、ロシア、ウクライナ、カナダ、オランダ、ベルギー、セルビア、ブラジル、その他。(南極に読者ができると自慢になるのだが・・・)である。私は自分のブログを人に薦めることはあまりしない。従って読者の多くはひできす、Snigel両氏のツイッターから来た人々である。他にも検索エンジンから直接来られる人もいるようだし、定期購読の方もぼちぼちおられるようだ。(まんざらのコバンザメブログでもないのだ。エッヘン)

私には個人用電子計算機を使いこなす技術も能力もない。従って前述両氏のように器用なデザイン変更の「キッタ、ハッタ、ナイタ、ホレタ」ができない。(これはグーグルの無料ブログだが、広告がないのは天才ひできすのおかげである)そして私はSnigel氏とは違って極端な遅筆である。これは文章を考える速度が遅いのと、ああだこうだと逡巡するからである。自分の文章流儀も決まっていないので、固かったり柔らかかったり、まちまちである。書き溜めも少しはあるが、書き直しや書き足しが多いので発酵を待っている。発表した後も手を加えることもある(この直前の「大人の火遊び」には写真まで追加した^^;)

文章中心のブログなんて時代に逆行しているような気がするのだが・・・。世界各国の皆さん、これっておもしろいですか?

2011年11月19日土曜日

暖炉のにおい 5

その頃、私はストックホルムにいた。そこには日本人の友人Aがおり、私はお金もないのに日本からしじゅうAのもとに遊びに来ていた。欧州型の生活に魅了され、次第に欧州移住計画を頭の隅に描き始めていた。

スゥエーデンに住むならスゥエーデン語が必要であるが、既に中年のまっただ中にいた私は、今更初歩からスゥエーデン語を始めるつもりはなかった。世界の共通言語は好むと好まざるとに拘わらず英語であった。生活に必要な程度の英語であれば日本の中学や高校で習う英語で十分である。もっとも、日本の学校で習う英語は勉強のための英語であり、試験のための英語だから実用にはやや難がある。しかし、これをしっかり勉強して基礎にすれば、あとは実践訓練だけで英語はモノになる。私の実感として日本人の話す英語は、非英語国民としては世界でも一級の正確さである。

ともあれ、欧州生活には英語である。私は英語を習得すべく、英国行きを決断した。

当時Aにはマレーシア系スゥエーデン人のKと言う友人がいた。Kは真面目な性格であり、勉強が好きで、長く大学に留まっていた(しまいには博士号までとった)。欧州で同じアジア人ということで親しみもあったのだろう、口さがないAも陰ではKの悪口を言いながらも彼と親交を保っていた。

Kは離婚したばかりであったが、すぐに次の彼女ができた。私とAは彼らと時々食事を共にしたりした。AとKはスェーデン語は流暢である。が、英国人の彼女はそうではなかった。私たちの共通言語は自然と英語になった。Kも子供時代はマレーシアにおいて英語で教育を受けており、英語は母国語といって良かった。Aはいいかげんではあったが、そこそこの英語を話した。スェーデン語が英語に近いため、彼らにとって英語は「ひとかけらの洋菓子」なのであった。

概して非英語圏の人々の話す英語はわかりやすい。差別的発言だが、英語圏でも教育程度の低い人の英語はわかりにくい。Kとその彼女は英語圏で高等教育を受けており、そのぶん彼らの英語は私にはわかりやすかった。

口の軽いAは私の計画を聞くやいなや、それをKに話した。Kは自然自分の彼女にそれを話した。彼女の名前はアン、「暖炉のにおい 3」に登場する。

アンの父親Sは英国人で、ダブリンにある名門大学(と言われている。真偽は知らない)トリニティカレッジで教鞭をとっていたという。当時既に退職しており、ダブリンの南西にある小さな村のはずれの農家を買い取り、子供たちと一緒にひっそりと暮らしていた。(2011年現在彼がいまだ存命か否か、私は知らない)

ある時、私はたまたまKとアンにあった。アンは、もし私が英語を勉強するならアイルランドがいい、英国に比べると物価が安く、自分の父と弟妹がダブリン近郊に住んでいるので(彼女の母親、つまりS教授の奥さんは既に他界していた)、いろいろ便宜を図ってくれるだろう、と提案してくれたのである。

私はアンから彼女のお父上であるS教授の電話番号と住所のメモをもらってアイルランドへの出発の途についた。

ダブリンで語学学校に入り、私のアイルランド生活が始まった。我が師Snigelがその日記(http://www.ikikou.com/new/)でアイルランドを「いい加減王国」と表現しているが、これは極めて控えめな表現である。この頃彼と知り合っていれば、私のアイルランド生活はもっと(良い意味で)安易になっていたであろう。彼は世情によく通じていたからである。おもしろいことに、後年彼と話しを合わせてみると、偶然にも彼も私と同様、この頃ダブリンに語学留学をしており、さらには若干時期はずれるものの、通った学校も同じなのであった。

※私は最初、トリニティカレッジに近い語学学校に入ったが、生徒をたんに金のなる木としか扱わない態度に嫌気がさして別の学校に移った。それが彼と同じ学校だった。ちなみに、ななつのあだ名を持つ男、ひできす(http://irishpot.net/blog/)はその頃は多分英国で怪しげな生活を送っていたはずである。彼のななつのあだ名とは、ひでかす(唯一Snigelのみが使うことを許された呼称)、ひで菌(唯一みっちーのみが・・・)、ひできんぐ(ひできすの自称、彼以外だれひとり使わない)、以下省略。

ともあれ、この短期留学が半ば近くなった頃、私は儀礼的にS教授に挨拶状を書いた。すると教授からすぐ返事が来た。曰く「ようこそアイルランドへ。私の代わりに次女をダブリンに使いに出すので会われたし」。

教授の長女アンは長身で端正な顔立ちの、ちょっと若い頃のいしだあゆみ似の落ち着いた美人である。その妹である。名門大学の教授の娘である。語学学校で南欧系のスットコドッコイ達に辟易していた私の心臓は早鐘のように鳴り出した(て、てーへんだぁ・・・)。

私たちはテンプルバーというダブリンの繁華街で待ち合わせをした。あれ?長く書きすぎた。では続きは次回ということで。

2011年11月16日水曜日

犬猫論争(さても人間の愛とは)

犬と猫は人の日常の生活の中で最も人気のある動物の双璧であろう。犬は猫よりも家畜としての歴史は古いであろうことは想像に難くない。なぜならば、犬は一緒に暮らす動物としては人にとって実用的だからである。

原始の昔、狼から別れ、人に寄り添って生きる道を選んだ動物が犬である。生物の進化を測る尺度を多様性に求めるならば、犬は人と暮らす道を選択して以来、人と肩を並べそうなほどに多様性を増した。人の手によって都合の良いように改良されたため、愛玩用から狩猟、介助、輸送(犬ぞり)、麻薬探知、ギャンブル(ドッグレース)、芸能(携帯電話の広告に出たり、映画に出たり・・・)、用心棒、果ては宇宙飛行士までやる(1950年台から60年台にソ連は数十回も犬をロケットに乗せた)。

猫も人によって改良されたに違いないが、犬ほどの実用性はない。せいぜいネズミを捕るくらいなものであった。この点で、猫が人に飼われるようになったのは人が農耕を始めて、収穫物を蔵に収めるようになってからに違いない。人の居住区のネズミ番がその役目であったろう。。(犬については人の狩猟の心強い相棒であったはずで、猫よりも古くから人と生活していたであろう)が、近年に至ってはその用もない。それでも猫の人気が衰えないのは猫も人の持つ本能の何かを刺激するからであり、また共に生活するペットとしては扱いやすいからだろう。手頃な大きさ、給餌の容易さ、穏やかな性質、トイレ処理の容易さなどがあげられるだろう。

いわゆるペットとしての人気は果たしてどちらが上なのかはわからない。ペットフード協会の統計によれば犬のほうに軍配が上がる。しかし、その差は大きなものではない。ペットとは愛玩用の動物であり、最近ではコンパニオンアニマルなどと呼ばれるようになってきたらしい。中には犬猫を生活のパートナー(相棒)として捉える人もいるだろう。

動物を実用目的以外で飼う理由はなんであろうか・・・。

ペットを飼うのは人類の持つ特性のひとつである。人間以外にペットを飼う動物はいない。私は人類の特徴をわかりやすく説明するときに、「愛の大きさ」を挙げる。唯一人類のみが同種はおろか他の生物まで愛する(私などは無生物にもかかわらず、ピカピカに光る金の塊をこよなく愛するのだが・・・)。人類がサルだった頃、ペットを飼っただろうか?答えは明白である。地球上のいかなる類人猿もペットは飼わない。人類は進化の後にペットを飼うようになったのだ。

何故人類は単なるサルから進化を遂げたか、ペットを飼ったから進化を遂げたのかはここでは問わない。人類は他者をも愛する。否、愛さずにはいられないのだと思う。社会構造が変革を遂げ、それにともなって人間関係も複雑化した。うっかり人を愛すればむしられる世の中になってしまった。しかし、人の心の中には大きな愛のエネルギーがある。これは放出せねばならぬものであるがゆえにペットに向けるのであろう。

ペットを人のように愛するのであれば、これをコンパニオンとかパートナーと呼ぶのもわかる気がする。しかし、犬猫はあくまで動物である。それなりの飼い方をしないと気の毒な気がする。飼う側がその動物の特性をよく理解してペットが人との生活に馴染めるような妥協点を正確に把握するべきである。

追記
私の畏友たるSnigelが犬猫の話題を彼の日記である「アイルランド真実紀行」に載せたので、私もこの記事を書いた。書いたが時期を逸した。何故か。彼が最近異常に早い速度で日記更新を続けているからである。http://www.ikikou.com/archives/1042 
(やいやい、人のことも考えて更新しろ。ひできすを見習いたまえ。年に3回しか更新しない。あれ、彼も更新してるわ・・・。http://irishpot.net/blog/2011/11/09/701ともあれひできすは何かいいことが重なった様子で最近「ヤニ下がっている」が・・・)

2011年9月30日金曜日

みっちー氏がアイルラントを表敬訪問

去る9月24日、統一地球防衛軍参謀長みっちー氏がアイルラント在住のSnigel 師とひできす氏を表敬訪問しました。氏は同日スットコランドの首都エンジバラよりダフリンに、あろうことかライアンエイヤーで飛来し、この度の電撃訪問となりました。

みっちー氏はアイルラント経済危機救済のために孤軍奮闘している両氏を表敬と激励のため今回の訪問となった模様です。

関係筋では同氏の健康状態が幾分持ち直したために3食昼寝付きの両氏の館(やかた)に長期居候を決め込むのではないかと危惧しています。

なお、これを迎えたSnigel師とひできす氏の側ではろくな食事も出さないようにして懸命の対応に追われているようです。

なお、当のアイルラント政府の関係者は日本からウルトラマンを招聘してみっちー氏との対決姿勢を強めるべく、対応に追われています。

※よもやこれを本気で受け取る人もいないでしょうが、私は両氏に歓待を受けております。「さても人間とは」の読者諸氏に於かれましては、これらを事実として受け止め、両氏におひねりなどを投げられては、私の立つ瀬がありません。みなさん、軽挙妄動はくれぐれもお慎み下さい。
ちなみに私はSnigel師に日にビールを9本飲むように強制され、ひできす氏からは親切にも空港まで送るので早くアイルラントから出ていくよう要請を受けています。(な、なんといい人達なんだ。とうちゃん、おれは今最高に感動している(涙) )

2011年9月10日土曜日

死を考える

知人の、そのまた知人の絵描きさんの展示会に招かれていった。オープニングだということで、少々のお酒と(キリンの一番搾りがあった!)日本のお菓子、そして食事がでた。

居合わせたのは少数の既知の人達だけであった。テーブルで、私の隣には友人のAがいる。Aはデンマーク人で、私が転がり込んでいる団体の大ボスのひとりでもある。こう書くと青い目の金髪で毛むくじゃらの大男を連想するかも知れないが、それは小柄な金髪であるがどんぐり眼の、そして私と同い年の女性である。口さがない人が此処にもいるので気を付けなければいけないが、我々は友人となって日は浅いが、あ・うんの信頼関係が成り立っている。

最初に書いた知人とは当地の名物日本人のKさんである。Kさんは度量の広い肝っ玉かあさんである。Aとは十数年来の仲良しだそうな。

要は少数といえども様々な人生途上の人がそこには集まったということである。

そこにはハナちゃんという何とも可愛い5つくらいの女の子も両親に連れられて来ていた。ハナちゃんのお父さんはイギリス人で、お母さんが日本人である。

ハナちゃんは学校に通い始めてから日本語を忘れるようになり、今改めて特訓中なのだそうな。確かに可憐な彼女の日本語には英語訛りがある。子供のこととてこのような集まりでは興奮する。はしゃぎまわってはお父さんやお母さんに注意を受け、お菓子を食べ過ぎては叱られている。しかし、・・・活発である。

ハナちゃんの将来に想いを馳せると、それに対比して自分の死が見えてくる。ハナちゃんは伸び盛り、私はせいぜいあと20年の人生である( 私はまだ30歳であるが←うそ^^; )。過ぎ去った20年とこれから迎える20年を比べることは意味が無いが、それでも比べる。あっという間であった。

20年後のハナちゃんはそれでもまだ20代の半ばである。人生の基礎を終え、独立して応用問題に取り組んでいる頃であろうか。

私が20代の頃は迷いの連続であった。否、迷っていることにさえ気がつかず、ただ悶々としていたような気がする。ただそれは私とって必要な過程であったのだろうと思うのだが。それ以上のことも出来なければ、それ以下の事にもならなかったと思う。

論語の中に「40にして迷わず、50にして天命を知る」という一節があるが、私は孔子に遅れることわずか20年、今にして天命らしきモノを感じている。と、言うより自らの「ぶん」を知ったらしい。「ぶん」とは周囲の環境の中で、自分の性格に合わせて進むべき道、などといった漠然としたものであろうか。

神経質で気が小さい割にはやりたい放題やって来た。これといった特技はないようである。それでいていまだのほほんと生きている。このまま行くのだろうか?それともどこかでドンデンガイシがあって泣くか笑うかになるだろうか・・・。

私の「ぶん」とは「沈香も焚かず屁もひらず」である。つまり、平凡に生きることである。人間、ぶん以上のことはできない。「人は自身を知るを人生の第一義とする。また、世を知るをその第一義とする。これを知らずばすなわち踏み外す」とはみっちーの言葉である(@@)。

踏み外したって踏み外さなくたって人は時期が来れば自動的に死ぬ。病気や怪我で奇跡的に助かったとしても時期が来れば死ぬ。助かったのは奇跡でも何でもない。時期早尚だったにすぎない。
どうせ死ぬなら踊らにゃソンソン。

どう踊るか。人のために踊る。人のために踊っているうちに自分の踊りがうまくなる。そうするともっと人のために踊りたくなる。人間は人の喜びを見るのが最高の幸せになるようにできている。

※この文章はスコットランドで8月23日に書いた(ものらしい)。本日は同年9月10日(土)まだスコットランドにいる。加筆訂正などなしにそのまま発表します。後刻書き直しの可能性がありますのでお知らせをしておきます。また、私の病気柄、このタイトルからもしかしたらみっちーは自殺予告をしているのではないかと勘ぐられる方も居られましょうが、その予定は今のところありませんのでご了解願います。                          筆者みっちーでした。

2011年9月9日金曜日

復活なるか@@

ウツ期に入ってひと月近くなる。日によっては異常に辛く、すべてを悲観的に見てしまう。私のブログの読者の性格が悪いのも、日本の総理大臣がなかなかやめなかったのもみんな私が悪いと思ってしまう。(自分のブログの読者にいちゃもんを付けるのは私くらいであろうが、これはみんなウツが悪いので、私そのものが悪いのではない)

最近いくらか調子が上向いてきたが、それでも日常に嫌なことがあるとかなり落ち込む。そんな中でアイルランド行のチケットが素直にとれたのは良かった。しかし、後で知人からリバプールからダブリン行の船便が有ることを知らされ、ヒコーキの手配をする前だったら考えたかも知れないと思った。不精で、ヨーロッパに長く暮らしても旅なんぞは滅多にしなかったから。

ヨーロッパ暮らしに見切りをつけて日本に戻ったときに、古くからの友人が軽自動車とフェリーを使った北海道旅行に連れて行ってくれた。昔ならいざしらず、今や船旅は時間とお金のある人々のものである。それでも一番安いチケットで結構楽しめる。一等席だろうが船底だろうが向こうに着く時間は一緒で、デッキに出れば見える海の景色も同じである。

藤沢周平の文庫本などを数冊持っていけば最高である。潮風に吹かれて飽きるほど海を見て、船室でまったく違う世界に浸って時を過ごす。これに飽きても船内を自由に歩き回れるのはいい。

子供の頃、夏休みで母の郷里に行くために函館から青森まで青函連絡船に乗った。それが初めての船旅であった。船室は雑魚寝で、枕と毛布だけが借りられた。エンジンの振動が床から伝わり、それは地獄の亡者の叫びのように聞こえた。想像力たくましい多感な年頃であった。

一番長い船旅はスゥエーデンのヨーテボリからイギリスのハーリッチまでで、随分かかったが、ほとんどおぼえていない。なぜならハーリッチについてから入国審査でひどい目に会って記憶のほとんどがそれに取られているからだ。

話しがそれた。世界の関心はいつみっちーはウツを脱してブログを再開するかに集まっている。正直に言うと書きためたモノはいくつかある。しかしながらこれをそのまま発表するわけにはいかない。もう少々お待ちを頂きたい。

2011年8月13日土曜日

業務連絡

スコットランドの北部の山の中に隠れていましたが、退屈で海側に出て来ました。
晴れていても風があると寒いくらいです。ここに長くいる人もこんな夏は珍しいと言います。
Snigelおじさんやひできすおじさんもしきりにアイルランドは涼しいと言っていますが、ここも同じです。
大陸(ヨーロッパ大陸)にいる友人たちも今年は涼しいと言っておりました。

引っ越したはいいのですが、周りの環境に慣れるまでは少々時間がかかります。ここでの生活のリズムをつかめばいくらか余裕も出てくるのでしょうが・・・。

それまでは更新は難しいかも知れません。せっかく世界197カ国に読者ができたというのに残念です。←ウソです。実際には10カ国。うちデンマークは私がここに来る道すがらコペンハーゲンのホテルで自分のブログをチェックしたから統計に乗ってしまいました。ですから実際には9カ国です。定期的に覗きに来てくれる方、そしてたまにでも覗きに来てくれる方、有難うございますが、今しばらくのご辛抱を。(って、誰も期待してないか・・・さみしいなぁもう!)

2011年7月28日木曜日

暖炉のにおい 4

観光客などとは無縁の鄙(ひな)びた村のパブにいた。

夕飯の後の一杯を楽しむ人達のざわめきも去り、店内は再び落ち着きを取り戻し、ゆったりとした時間が流れていた。大声で話す人もなく、時折パイントグラスが触れ合う音などが聞こえるのみである。バーマンは手持ち無沙汰にカウンターを拭いている。

田舎のパブである。全ては古ぼけて薄暗い。その店内には壁に取り付けられた電球でできた偽物ろうそくの赤い火明かりがそれらしく揺らめいている。客席は「コ」の字型になっており、真ん中がカウンターになっている。

都会の観光客目当てのパブならばアイリッシュダンスやアイリッシュミュージックの実演があるところだが、ここではときおり地元の人々が寄りあってギターやフィドラー、またティン・ウイッスル(ブリキ製の縦笛)やアコーディオンの演奏を楽しむのみである。もっともこれがアイルランドの普通のパブである。テーブルの上には彼らのギネスがある。マーフィーがある。スメゼックス(smithwick`s)もある。演奏の合間に舌と喉をこれで湿らせる。純粋な音楽としての評価などは私にはわからないが、とにかくいいのである。外れたことは一度たりともない。

しかし、今日はなにもない。スピーカーからはビートルズのレット・イット・ビーがブルース調で流れている。その音は決して大きなものではなかったが、静かな店内の隅々まで届いていた。

暖炉はカウンターの向かいにある。重なったターフの下のほうが赤い大きな熾(おき)になっており、その上の新たにくべられたターフが、白いかすかな煙をあげて燃え始めている。マントルピースは焦茶色で決して上等なものではないが、黄ばんでしまった漆喰の壁によくにあっていた。店内は程良く暖まっている。

時間と暖炉のターフの匂いだけがこの田舎のパブをつくったようだった。

一般に、暖炉には薪か石炭をくべる。私は薪が好きだ。薪はその姿かたち、はぜる音や炎までのすべてがいい。また、においもいい。

アイルランドではこれにターフが加わる。ターフは若い泥炭で、アイルランドには豊富にある。地表面にあって簡単に採取できる。石炭と違って、取り出したからといってすぐに燃やせるわけではない。地方を歩けば見晴るかす荒野の処々にターフが掘られて、その場で乾燥を待っている光景に出会うことがある。

ダブリンなどの大きな街のパブではたいがい石炭を焚いている。それもまたいいのだ。しかし、ターフの何とも言えない自然なにおいは石炭をはるかに上回る。残念なことにダブリンのパブでターフに出会うことは稀である。

カウンターでひとりビールを飲んでいた女性がゆっくりと立ち上がり、体を揺らせ始めた。レット・イット・ビーに体を委ねてステップを踏む。ひとりで踊り始めた女性に注意をはらうものは誰もいない。

30代前半、栗色の髪をざっくりと後頭にまとめている。小さめの青白い顔には化粧っけはない。細かなチェックのシャツに下はジーンズ姿である。こちらのその年令の女性にしては細身である。視線を下に落としたまま自分の世界に浸ったまま踊っている。

私はカウンターとは反対側のテーブルでひとりギネスを飲んでいた。最初はあっけに取られた。しかし、周囲が一向に頓着しないので、私もそれにならった。しかし、好奇心が頭をもたげて、これを抑えこむのは容易ではない。時折彼女を盗み見た。

彼女は時に眉をくもらせレット・イット・ビーを小さく口ずさんでいるようだ。踊りながら私に近づき、耳元に何かを囁いた。わずかに微笑み、そして去っていった。その後のことにつて、私は何も語らない。

ゆっくりと時は流れ、夜は更けていったのである。

2011年7月24日日曜日

暖炉のにおい 3

教授の次女ケイトには躁鬱の気質があって、躁の時には気が向けばティン・ウィッスル(ブリキでできた単純な縦笛。アイルランドが発祥の地と言われる)を吹く。なぜか同じ所を繰り返し吹くので、いやが上でも私の頭にそのメロディーとリズムがグルグル回り始める。敷地は広いものの、家自体は大した広さではないので、どこにも逃げられない。彼女が吹くのを止めても私の頭の中にはグルグルと同じメロディが回っていて不愉快である。トゥッティリ~ラ、トゥッティリ~ラ、トゥッティリ~ラピィ~ラ~ラ~、トゥッティリ~ラ、トゥッティリ~ラ、トゥッティリ~ラピィ~ラ~ラ~、先へ進まないのである。

ある時、皿を洗いながら自分がこれを口笛で吹いているのに気がついて顔を顰(しか)めた。しばらくこれが私の頭の中から去らずに閉口した。今でもその半端な曲は覚えているが、またぶり返しそうなので思い出したくない。

前述の話しは1999年の秋の話であるが、それから10年ほど経った頃、日本にいて私は心身の不調を感じて医者に行った。問診と簡単なテストで欝が出ていると言われた。鬱病と言うほど重くはないが、欝症状であるとのことだった。ショックではあったが同時に安心もした。症状に気がついて以来、私はずっとわけのわからない不安にかられ続けていたからである。

この話しを書いている今は以前よりもかなり自分の精神状態に感心を持つようになった。そして最近に至って私は、自分が欝だけではなく躁も持っているのではないかと疑うようになった。私は精神医学や心理学の知識があるわけではない。気分の浮沈は誰にでもあるものだろうが、正常の範囲をわずかに越える躁が自分の中にあるような気がする。

自分が躁鬱の症状を持つ人間だとすれば十数年前に教授の次女ケイトがとった行動には同情すべき点があった。当時は他人の迷惑ということをまるで考えないひどい女だと思い遠ざけていたから。

教授もケイトの躁欝に早くから気がついていたようであるが、なんら手を打つこともなく過ごしてきた。教授には6人の子どもがいるが、誰も学校にやらなかった※。それがために誰も客観的にケイトを見ることをしなかったものと思われる。

※唯一例外は長女のアンであった(アンは英国で生まれているので、兄弟中唯一英国籍である)。子供たちはみな親から基礎教育を受けた。アンも例外ではなく、義務教育さえ終了していない。が、アンだけはロンドンの大学に入った。教授が直接学長宛に手紙を書き、面接の結果、入学が許されたとのことである。

教授には子供の教育にそれなりの考えがあったらしい。大学を早期退職しており、経済的に苦しかったことも子供を学校にやらなかったことの一因として挙げられるだろう。英国のボーディングスクール(寄宿学校)からケンブリッジ大学に進んだ彼には自ら子供たちを教育する自信があったに違いない。それにもかかわらず、ケイトの心の病気にはなんら手を打つこともなく時が過ぎてしまった。分らないでもない。ケイトのそれも最初は明らかに異常というほどのものではなく、ボーダーをほんの少し越えた程度であったのだろうから。

とにかく躁になるとティン・ウィッスルを吹きまくり、すぐに飽きて絵を描きはじめる。熱中して描くがすぐに飽きて別のことを始める。何をしたにしても後片付けはしないので、家中はとんでもない散らかしようになる。教授は何も言わない。気が向けば三女ルーシーと共にケイトのあとを追って片付けている。

私も最初の頃は後片付けをした。ある時、暖炉の中に靴が片方だけ置いてあり、その靴の中に何故かサンドイッチの食べかけが入っていた。一階の客間をのぞくと一面絵の具と描き散らかした画用紙で床が見えないほどになっていた。彼女の移動範囲は家の中に留まらない。庭であろうが物置であろうが関係ない。かと言って突然大掃除が始まるときもある。すぐ下の弟ジャックに大号令をかけて掃除を強要する。時には喧嘩になってハラハラすることもあるが、小一時間もすればまた忘れたようにティン・ウィッスルを吹いている。そんな時のケイトの目にはある種の輝きが見える。

ある時、ケイトが私のところに来て頼みがあるという。目が怪しく輝いている。明日の夕方友人と一緒にパブに行くのだが、その間友人の子どもの面倒を見てくれる人がいない、頼めないだろうかと言う。パブは11時半には店を閉めるから間違ってもそれ以上遅くなることはないと言う。内心疑いながらOKを出した。

その日、私はケイトの友人宅に行って子供の面倒を見始めた。9時になって子供を寝かしつけ、持参した本を読み始めた。11時になり、そろそろ彼女らが帰る頃だと心待ちにしていた。ところがである。彼女は一筋縄ではいかないのである。深夜になっても帰らない。子供は変りなく寝たままである。ところがこちらは心配しつつも腹も立て始めている。ケイトのあの目の輝きを軽視した自分に限りなく腹を立てたのである。

彼らが帰ってきたのは翌朝9時前だったと記憶している。ケイトには自分が躁鬱の気質であることの自覚はなかったようだ。従って周囲がこれによって迷惑をこうむっているなどとは夢想だにしなかったに違いない。私には自覚があるようだ。私は同じ躁鬱でも彼女とは違う。

私の場合は感覚で言うと中くらいの欝が<5>続き、正常が<2>続き、軽い躁が<1>、そして正常が<2>で終わるサイクルらしい(無理やりサイクルで表してみた)。ケイトも欝の時はおとなしく沈んでおり、躁になると俄然元気になって周囲に迷惑をかけまくる。私も欝の時はおとなしい(当たり前か・・・)が躁になると気が大きくなって、もしかしたら自分は「何者か」なのではないかと思ったりする。周囲に迷惑をかけないようにしてるつもりでも、結構無神経だったりするようだ。

みなさん、ごめんなさい。

2011年7月21日木曜日

バブルでござんす(アイルランドの往時を偲ぶ)

時節はアイルランド史上最初にして最後の経済バブルであった。EU政府がヨーロッパでもっとも貧しい国のひとつに巨額の投資をしたのだ。なぜか最初に来たのは中国人だった。次にポーランド人をはじめとする東欧人が来た。ダブリンには建築のためのタワークレーンが林立した。仕事はあったが、住むところが追いつかなかった。

家賃は瞬く間に高騰し、アイルランド人は豊かになった。特に不動産持ちはあっという間に豊かになった。車庫や倉庫、物置を改造し、それを貸し出せばすぐに借り手は現れる。新聞に広告を出せば問い合わせが殺到した。電話で問い合わせると常に「もう決まった」と言う返答が帰ってきた。

中国人はしたたかである。彼らは外国に於いてはかなり強い結束をしめすようだ。日本人ほど社会的な地位に恵まれる訳ではない。多くは社会の底辺で暮らす。小売商の店員や掃除夫などをする。想像ではあるがそれで辛抱して小金をためて自分の店を持つパターンが多いようだ。小なりといえども、一国一城の主である。どちらが良いかは一概には決められない。

彼らに孔子や老子などの子孫たる自負やメンタリティーはない。後年発生した禅思想などとともにそれは日本で花開き、受け継がれたが本家中国にはもうないのだ。従って同じような顔をしているからと言って同じ傾向の考え方や情を持つと思うのは大きな間違いである。彼らは歯ブラシ一本あれば親類を頼って世界中を歩くと言う。

あるアパートや貸家でひとり中国人を見かけたら、陰にその数倍の中国人がいる、等と言われていた。実際彼らは一部屋を確保すると次々と人を呼び、大人数で暮らす。家賃を頭数で割れば、ダブリンの高額な家賃もそれほどでもなくなる。私などは部屋が借りられなくて随分長い間ホステル暮らしだったが、中国方式の方が安く、安全であったろうと思うのだが。

もし、私が中国人だったら部屋を確保した段階で、次々と人を呼んで頭数で割った家賃にほんの少しだけ各々に上乗せして自分の分をタダにしたであろう。←こんなことを考えるからSnigelやひできすなどの大人(たいじん)以外は相手にしてくれなくなる。

さて、バブルの狂気はそれが破裂してその破片を拾い集めたときにしみじみと感じられるものである。このブログを読まれている読者数はひできすとSnigelの両氏のTwitterのつぶやきで、一挙に増えた。地域もヨーロッパ、アメリカ、東南アジアまで広がった。日本語でしか書いていないので、読者のみなさんの大半は日本人であることと思うが、その中にも日本のバブルを肌身で感じた方々もおられることと思う。それが異国に暮らす私の目の前で再現された。

私が目撃したアイルランドのバブルは例えば首都ダブリンのリーフィー川に浮かぶ観光船である。平底の屋根が透明なやつである。隅田川に浮かぶ屋形船をモダンにした感じである。私は当時、川の南岸にあるジムに通っていたので、ランニングマシンで走りながら、この船の試験航行をながめていたものである。船着場がそこからはよく見えたのだ。当初からこの事業には首をかしげていた。

船着場を出て河口近くの折り返し地点まで行って引き返しても全行程は2kmそこそこである。両岸はコンクリートで固められている。干満の差がある。橋がある。見るものがそれほどないなど、素人が見ても成り立たない事業である。

行程が短い・・・・・・・・お金がとれない。
両岸コンクリート・・・・風情がない。
干満の差・・・・・・・・・・干潮の時はこれに阻まれて景色は見えないだろう。おまけに川底の堆積したゴミ(ショッピングカート、古タイヤ、ミイラetc)が露呈する。満潮時は船の屋根がつかえて橋の下を航行出来ないであろう。
見るものがない・・・・・カスタムハウスとオコンネルブリッジくらいである。

船を新造し、川に浮桟橋を作り、人件費をかけ、念入りに試験航行を繰り返しているうちにバブルがはじけてしまった。その後どうなったかは知らない。

もう一つ。ダブリン市内を走るバスである。市内は二階建てバスが走るように出来ている。これは言うまでもなくイギリスの影響で合理的である。ここに2両連結のバスが走り始めた。大量に購入され、長いことバス会社の駐車場に新車のまま雨ざらしになっていた。運行は開始されたが、走れるルートは限られる。普通のバスの2倍まではないが、かなり長いので街角を曲がりきれないのだ。おまけに運転が難しい。信号で先がつかえているとその長さ故に簡単には前に進めない。無理に進むと交差点を完全にブロックしてしまう。(他にもあるが今日は勘弁してやる)いずれにせよ金余りか賄賂の結果だと思われる。

車である。少し金ができる。しかし、家を買うほどにはなっていない。こんな時に人々が買い求めるのは車である。最初にたくさんの人が日本の中古車にむらがった。新聞にも日本車の部品があります、などと広告が出ていた。当地は右ハンドルの国であるため、中古車の輸入は日本からが便利だったものらしい。何よりも故障しない、燃費がいい、きれい、この3点だったと思う。これ故、タクシーなどはほとんどが日本車かドイツ車であった。フランス車やイタリア車などはないのであった。この後さらに豊かになると、こんどはドイツ車が多くなったようだ。小金ができると人は次に見栄にはしるものらしい。

その頃、我が師Snigelはカローラのセダンに乗っており、確か中古ながら日本から直輸入したと言っていた。随分世話になったものである。いい師であった。(おいおい)

バブルでござんしたよ。

いまやダブリンは至るところ新築されてそのまま買手も借り手もないまま時間がたったビルが散見される。

2011年7月18日月曜日

めっちーとSnigal のでこぼこ道中

昔々、今の私たちの住む銀河ができる、ちょっと前くらいの昔、その近くの別の銀河に地球そっくりのある惑星があった。そこでも動物が進化を遂げて人間とそっくりの生物が出現し、やがて車を発明した。この物語は、それから100年ほどたった頃の話しである。

めっちーとSnigalとひでかすの3人は大きな大陸を挟んだ遠い国からこの島国に来て、たまたま知り合った。Snigalとひでかすは一軒の家を借りて一緒に住んでいた。同居人には他の国から来た人たちもいた。めっちーはひとりで都心の高級アパートに住んでいた。

ある時、めっちーとSnigalは車で島の反対側を旅してみようということになり、ひでかすを誘ったがひでかすはなまけもので一緒に行こうとはしなかった。めっちーとSnigalの二人は車で出かけた。小さな島ではあったが、島の反対側までは随分と時間がかかった。車はSnigalのもので四輪駆動車だった。車の前部には動物よけの大きなバンパーがついていた。彼はこの車が自慢だった。

彼らは島の真ん中辺りまで来たときに道の横に大きな水たまりを発見した。Snigalは水たまりに車を入れて四輪駆動の性能をためしてみたかった。彼はそれまで車を通勤に使うだけで、舗装道路以外を運転したことがなかった。水たまりはわずか15mほどの楕円形で、雨が溜まっただけのようだった。

Snigalは水たまりに3mほど車を乗り入れた。わずか10cmほどの深さで問題はないようだった。彼は俄然張り切り始めた。地球で言えば20世紀後半の日本で流行ったガンダムの操縦者になったような気になった。なんのこれしきの水たまり、グォーッ!

めっちーが止めるまもなく、車は深みにハマってしまった。前にも後ろにも進めない。アクセルを踏めばタイヤは泥をかき、ますます深く埋まっていった。Snigalはあきらめてめっちーと運転を交代した。めっちーはかつてジモニーという四輪駆動車を運転して荒野を駆けまわっていたことがあり、こういう状況には慣れていたからだ。

水溜りというのはどれも水面下の状況はわからない。いきなり深くなっているかも知れないし、ズーッと浅いままかも知れないし。浅く見えても泥が堆積してるだけで、入ると抜けられなくなったりする。Snigalはこの人生の哲理のような水溜りの状況をまるで理解していなかった。

めっちーは慎重にアクセルを踏み、タイヤが空回りしないようにつとめた。車はオートマチック車で、逆にこういう状況では操作が難しかった。いろいろ試みたが状況は好転せず、めっちーも諦めた。彼らには助けが必要だった。

めっちーはそこに来る途中で農家があるのを見ている。そこ行けば誰かが助けてくれる。めっちーは歩き始めた。幸い農家には人がいて、事情を話したらトラクターで駆けつけてくれると言う。が、トラクターは小さくて、何よりもオンボロだった。運転席の屋根も、エンジンのカバーもない、恐ろしく古い型のトラクターで、ふたつの大きな車輪だけが目立った。エンジンキーを回すとモーターが回り、エンジンがしぶしぶといったように回り始め、真っ黒な煙を吐き始めた。

Snigalはオンボロトラクターを見るやめっちーに一瞥をくれた。ソンナオンボロデ大丈夫デアルカ?しかし彼は人柄が良く出来ていたので、その不安を農夫には見せなかった。農夫は体が泥で汚れるのも厭わず、水の中に入っていって、Snigalの車にロープを結んだ。そしてオンボロの錆だらけのエンジンの後方にまたがった。後ろを見ながら慎重にアクセルを踏む。エンジンの回転がたいして上がらないうちにSnigalの車は動き始めた。

トラクターはタイヤこそ大きいが、車体はSnigalの車の半分ぐらいしかない。自らの足元がぬかっているにもかかわらず、あっさりとSnigalの四輪駆動車を水溜りから引き上げてしまった。めっちーとSnigalは農夫に駆け寄って仕切りと礼を言ったが、農夫は無口であった。田舎の人の素朴さか照れ屋なのか、ニコッと笑っただけであっさりと引き上げて行った。

旅は続いた。やがてめっちーとSnigalは島の西の果てに着き、そこから北へと向かった。左手は渺漠(びょうばく)たる大洋で、その果てにはデシャバール大帝国があった。彼らには行きたい場所があった。この島の出で、世界的な歌手となったエンヤコラと言う人の実家がパブをやっているというので、訪ねてみたかったのだ。エンヤコラはいなかった。パブのバーテンに聞くと彼女はお金が儲かったので今はこの国の首都ダボリンの郊外に暮らしているとのことだった。

エンヤコラをあきらめて二人はそこからわりと近くにある空港に向かった。Snigalとひでかすはヒコーキが大好きだった。めっちーもヒコーキが好きだった。しかし、その空港にはヒコーキはなかった。週に何回か旅客機が飛んで来るだけで、それ以外は何も飛ばないのだった。長く広い滑走路だけが退屈さのあまり、あくびでもしているように見えた。

退屈になってめっちーとSnigalのふたりは空港のフェンスに沿って車を走らせた。滑走路の端に来ると大きな建物が見え始めた。近づくとフェンスの内側に2台の消防自動車が停まっており、さらに建物の中に別にの一台があった。めっちーが車を降りて作業をしていた人に話しかける。どうやら消防士らしい。聞くとここはヒコーキがたまにしか来ないから出動はない、だけど消防車の整備はしておかないといけない、とのことだった。めっちーはもっともだと思った。そして、建物の中に入っているもう一台が気になった。それは丸みを帯びたモダンな形で、いままで見たことのない消防車だった。めっちーはフェンス越しに消防士に、あれは変わった形をしているね、と言うと消防士は我が意を得たりと言わんばかりに話し始めた。

残念なことにめっちーはその国の言葉がよく解らなかった。特に地方の訛りは解りづらいのだった。要約すると、あの消防車は最新式で、大陸にあるワシンダ国のものだという。めっちーが目を輝かせてフェンスにとりつき、さらにそれを見ようとしたら消防士が手を上げてちょっと待ってと言った。そして胸に付けている無線機で何かを早口で話した。するとどうだろう、建物の中にあった最新式の消防車が動き始め、こちらに向って来るではないか。運転席にいる消防士は笑いながらフェンスのそばにいる消防士と無線でなにやら話している。

四輪駆動車からはSnigalが出てきてめっちーに何事かと尋ねた。めっちーが経過を話すまもなく、最新式の消防車の屋根に着いている放水銃が動き始めた。消防車はいよいよちこちらの近くまで来て停まり、驚いたことに彼らの目の前で放水を始めた。目標は・・・・Snigalの四輪駆動車が狙われている。放水はフェンスを通して楽々四輪駆動車に到達した。その勢いはすざましく、すぐに車体が揺れ始めた。よく窓ガラスが割れないものだと思うほどの勢いと水量である。

めっちーとSnigalは小躍りして喜んだ。(総入れ歯、しばらく洗車してなかったなぁ。どうせなら車の反対側にも放水してくれればよかったのに・・・・)消防士たちも自慢気にニコニコしていた。彼らも遠~い東の国から来たヒマ人に一刻の無聊(ぶりょう)を慰められて幸せそうであった。

続く(かもしれない)

2011年7月15日金曜日

オッチョコチョイは治るか?

アイルランドを出て久しい。たまにダブリンにもどるときは我が敬愛すべきひできすとSnigelの両氏の隠れ家に投宿する。

ダブリンの郊外にある両氏のお宅は、アイルランド史上最初で最後の経済バブルを迎えた頃に建てられた高層アパートである。半円形をしており、見下ろす中庭もモダンなデザインである。寝室は2つ。つまり私が転がり込んでも、私の寝る所はない。居間が広いのでそこで寝ることにした。

気心が知れていると言ってもそこはやはりお互いの気遣いは欠かせない。居間を通らないことには彼らは台所に行けない。私が遅くまで寝ていては彼らが気を使うであろうから一計を案じた。私が都心のアパートを引き払うとき(私はオコンネルストリートから徒歩数十秒の文部科学省に隣接したビルに住んでいた)、キャンプ用のテントを彼らの家に持ち込んだのだ。使う当てはなかったが、捨てるのも惜しかったのである。そう、居間にテントを張った。これで私も独立した部屋の主になった。表札でも掛けたいくらいだ。しかし、そんなことをしなくても十分異様である。

当初両氏は私を指さして笑った。(特にSnigelは指差しのプロである。詳しくは彼のブログを御覧頂きたい。ちゃっかり広告が載っている。http://www.ikikou.com/new/)彼らは私をバカにしたいのだが、なに彼らも居間に張られたテントに入りたいのである。特別許可を与えると、嬉々として入っている。私よりもむしろ彼らのほうが喜んでいる。

何しろ物の多い家で、自室に収納しきれないものを居間に置いている。居間の入り口には本棚があり、あらゆるジャンルの本が並んでいる。懐かしいものでは昔郊外にあった日本人学校の図書室の、その蔵書のハンコが押された本まである。Snigelはほぼ10日から2週間に一回の割合でドイツに行くが、時々妙に大きな縫いぐるみを買ってくる。巨大ニシキヘビはいい。まっすぐに伸ばしておけば場所はさほど取らない。しかし、セントバーナードはソファの1.5人分を占領している。文句を言う勇気は私には無い。

文句を言えばたちどころに出て行け、と言われるのは間違いないからである。世界中の人々に対して親切で温厚を絵に書いたような人柄のSnigelも、こと私に対しては厳しい。私はかつて彼のガールフレンドを横取りしたこともなければ、食糧棚の奥に隠してあるウイスキーを盗み飲みしたこともない。少しは飲んだかも知れない。(Snigelは高級ウイスキーでも平気でコーラで割って飲む男である。勿体無いではないか?)

テントの出入口は壁に面しているが、その壁ぎわにひできすのシンセサイザーが置いてあり、出入りには非常に邪魔である。これはひできすが前の家にいたときに通販で買ったもので、当時は気に入って弾いていたが最近はとんとその音を聞かない。

テントから出るときは床から這い上がるようにする。真正面にシンセサイザーがあり、自然とこれにつかまらざるを得ない。ドッコイショ。(ひできすは怒るだろうな・・・)

ある朝のことである。私は日本から着いたばかりでろくに寝られない。時差ぼけでふらつく体を台所に運んで紅茶を入れるためのお湯を沸かす。ケトルに水を満たし、コンロに置く。居間に戻ってパソコンのスイッチを入れる。これはSnigelのもので、みんなで居間でDVDなどを見るときに使う。

私が朦朧とした頭でメールやニュースなどをチェックしていたその時である。なにやらイヤなにおいがする。顔を上げると台所方面から気のせいかうっすらと煙のようなものが漂い出ている。

台所ではにおいが一層きつく、なんとコンロから煙が出ている。驚いてケトルを持ち上げる。コンロは熱線ヒーターに丸い鉄板をかぶせた、こちらではありふれたものであるが、その表面に黒ぐろと丸い跡がついており、そこから煙が出ている。

おバカなケトルだなと訝(いぶかし)しく思う。底のほうを囲むようにしてプラスチックが張ってある。これでは焦げるのは当たり前で、こんなバカなケトルは見たことがない。時差ぼけの頭で考える。これではお湯が沸かせないではないかと思う。

持ち上げたケトルを置こうと周囲を見回すとすぐ横にちょうどいい大きさの黒いプラスチック製の皿がある。あれ、コードが付いている・・・。なるほど、そういうことであったか・・・。

私の長野の家では台所のコンロはIHである。コーヒー一杯分ぐらいの水ならヤカンをかければすぐに沸く。

私はそのまま逃走しようかとも思ったが、テントがある。置いて行けない。結果、私は元のものよりも数倍高価な電気ケトルを彼らにプレゼントした。

2011年7月14日木曜日

続 暖炉のにおい

12月24日の夕方に私は、天からの贈り物である特大サイズの薪を暖炉の奥に据えた。こんな巨大な薪を燃やせる暖炉などそうざらにはないだろう。朝から火がついているので、暖炉も煙突も十分温まっている。それは徐々に燃え始めた。

暖炉の天井から吊るされた自在鉤からは、大きな鋳物の鍋がぶら下がっており、その中には例の七面鳥が他の野菜たちと一緒に蒸されつつある。家中に香ばしい匂いが広がり、子供たちだけでなく、そこに居合わせた人々の心はみなそぞろである。

巨大薪は、一週間は燃え続けるだろうと思われたが、わずか二日で燃え尽きて天に帰っていった。(元々植物を構成する分子の大半は空中の二酸化炭素を取り入れたもので、燃えて天に帰るという私の表現はロマンチックでもなんでもない^^)意外とあっけないものであった。

この暖炉であるが、煮炊きにはいいが、肝心の暖を取るモノとしてはいささか欠点がある。すなわち、物が燃えるということは酸素が消費されるということで、消費された酸素はどこからか供給されねばならない。いま暖炉を作るとすれば外気の取入口を暖炉の入り口辺りにつくるであろうが、この建物にはそんなことを考えられた形跡はない。では、どこから空気は来るか???
(こんな理屈っぽいことを書くと女性の読者は離れていくだろうな・・・)
すきま風である。煙突の上下の気圧差で煙は吸い上げられる。その分暖炉内はわずかに陰圧になり周りの空気を吸い寄せる。家中のあらゆるすき間から文字通りのすきま風が暖炉を目がけて吹いて来るのである。

暖炉はその火に直接当たる人のみが暖かい。さらに言うと、あたっている人の暖炉側のみが暖かい。つまり背中は寒いのである。そして、焚けばたくほどすきま風が入ってくる仕掛けである。暖房としては、野原の焚き火よりはマシといった程度かも知れない。まして教授の家は床が石である。ラグ(絨毯より小さい部分的な敷物)のないところはかなり寒いのである。

人が入れるほどの大きさだといった。実際私も子供の真似をして何回も入ってみた。そして好奇心から暖炉の中から上を見上げてみた。真っ暗な中に小さな四角い明るいところがある。それが空。
空が見えるということは・・・・雨が降ったら、雨が暖炉に降り込むだろうに。しかし、現実に雨は降り込みはしない。火を焚いている時ならまだわかる。強い上昇気流があるから雨はそれに負けて入っては来れないかも知れない。でも、火を焚いていない時でも雨は入ってこない。

よく観察すると煙突は上に行くにつれて狭くなっているようである。これなら暖炉の辺りが煙突の先端より少しでも暖かければ上昇気流が起き、上に行くにしたがって空気の流れる速度は早くなる。これだろうか?

もう一つ。高い煙突は下からそれを望遠鏡のように覗けば昼間でも星が見えると聞いたことがある。試してみれば良かった。教授の家の暖炉は至る所煤だらけで、特に煙突は激しく煤だらけである。それどころか煤で煙道が狭まっている。煤は燃えるので、一度教授に気をつけるよう注意を促したことがある。がしかし、それは既に何回か燃え上がったことがあるそうである。一度火がつくと相当な勢いで燃え、煙突の先端からは火の粉が激しく吹き出したそうである。

教授は歳はとってはいるが長身で、いつも背筋が伸びている。古い言い方をすれば「ツルのような」痩せた老人である。髪は真っ白で額はそれらしく禿げ上がっていて広い。髭を剃ることは稀で、伸びた分だけハサミで切っている。歯は無い。いかにも大学教授を務めたようにきれいなブリテッシュ・イングリッシュを話す。

教授は今晩も暖炉の横の木製の椅子に座り、枯れた長い樹の枝のような足を器用に組んでその膝の上で手紙を書く。世界中に向かって平和を訴える手紙を書く。アメリカの大統領にも書いたことがあるそうな。ノーム・チョムスキーとはケンブリッジ時代の同窓生だそうで(※)、始終手紙を書く。そして、その返信を見たものは誰もいない。

※先ほどチョムスキーについて彼の学歴を調べたら、どうもケンブリッジは出ていないらしい。これは我がほら吹き教授のホラか、私の聞き違いだったかも知れない。

2011年7月13日水曜日

暖炉のにおい

昔、アイルランドの田舎に暮らしたことがあった。大学を退官した老教授の元に呼ばれて行ったのである。教授は英国人で、一応ケンブリッジを出ているが、自国が嫌いで第二次大戦後ダブリンのトリニティカレッジに職を求めた。早期に退職して田舎の古い農家を買い求め、奥さんと住み始めた。英国時代にひとり、娘をもうけ、アイルランドに来てからさらに一男四女を追加している。奥さんは下の子供達がまだ小さいうちに亡くなり庭の片隅に土葬された。

私が彼、S教授に呼ばれて行ったときは彼は既に七十の半ば近くになっていたはずである。私は彼のケアラー(ケアーをする人、の意)という名目で地元の警察に届けを出して滞在許可をとったのである。実際には教授は介護などを必要とする状態ではなく、至って健康なのであったが。

さて、その家である。2~3000坪はありそうな敷地に母屋、納屋、ガレージなどが並んでいる。いずれも半端な年代物である。古いは古いが、何百年というほどではない。一階には客間がひとつとバスルームがあり、それに居間である。台所は居間の片隅にある。二階には寝室が3つ。

英国植民地時代の水呑のそれであったのであろう。調度品なども高価そうな物はなにひとつない。居間のソファもスプリングが飛び出しかかっている有様で、肘掛けなどは長年にわたるお茶やコーヒー、鼻水やよだれでガビガビである。床は石敷きでなかなかいい。特にへっこんでいるところなどなく、それでいて適度にすり減っている。天井は二階の床下がむき出しで、真っ黒に煤けている。ところどころを黒く汚れた電線が碍子とともに走っている。中央から電球がぶら下がっており、辛うじて陶製の傘らしきものがついている。照明といえば他にもフロアースタンドなどがあるが、ほとんど使われてはいない様子である。

他に茶箪笥らしきものがあった。どれも手垢で汚れ、傷だらけである。引き出しなどもまともには出てこない。こつがいるのである。とにかく真っ直ぐ引っ張ってはダメである。窓は何年も開けた様子はなく、緑のペンキの剥げかかった窓枠に歪みのあるガラスがはまっていた。石造りの家なので、壁の厚さはある。その分室内側は飾り棚のようになっており、つまらない真鍮製の器や足のとれた小さな人形、古銭など様々な物が埃とともに雑然と置かれていた。

その家には大きな暖炉があった。田舎の村の中心からさらに外れたところにあった家なので、当時ガスや電気があったとは思われず、暖を取るにも調理をするにもこの暖炉が欠かせなかったであろう。私は170cmには欠けてしまうほどの背丈であるが、その私が軽く腰を屈めればすっぽりとその暖炉に入れた。いわんや教授の幼かった4女、5女などは寒いとよく暖炉の左右に入っていたものである。(教授はかなりの晩婚で、それを取り戻すべく頑張って遅くまで子づくりに励んだものらしい)

暖炉の中央からは自在鉤代わりの太い鎖が下がっており、これにSの字型の鈎をつけ、ヤカンなどをぶら下げていた。ティーポットなどはぶら下げるのに不都合で、火床に直接置いて薪や熾火などを少し手前に寄せて沸かすのだ。

長女は外国に行っており、母親が早くに亡くなっているので、実質的な家事は二女(当時二十歳くらいか?)と三女(同じく16歳くらい)が担当していた。二女は躁鬱の気質で、それでも気が向けば自在鉤に直径60cmほどの円形の鉄板をかけてスコーンなどを焼いてくれた。

クリスマスが近づくと近所の農家の人が七面鳥を持って来てくれる。昔、教授がひょんな事でその農夫の父親の難を救ったことがあり、それ以来毎年季節になると七面鳥を持ってくるという。身長は私と変わらない。ずんぐりとした体型で、首が文字通り胴体にめり込んでいる。教授が暖炉の前の椅子をすすめるとこっくりと頷いて座る。冬というのに粗末なシャツの胸をはだけ、汗でもかきそうに赤い顔をしている。お茶を勧めても、スコーンを勧めてもこっくりと頷くだけで、何も言わない。ティーカップを持つその指は太い。小指でも私の親指くらいは優にある。とにかく何も言わない。子供たちは気詰まりであるが、教授は頓着しない。たまに何かを話しかけるが、農夫は頷くか頭を横にふるばかりである。

当時、敷地の中に昔の納屋があり、これに手を入れて住んでいた流れ者の居候がいた。私は、その男とクリスマスの日用に特別大きな薪を用意しようということになり、古いノコギリをもって近所の農家の敷地に忍び込んだ。獲物は予め調査済みである。直径90cm程もありそうな木が切り倒してあるのだ。それはまるごと頂戴するには荷が勝ち過ぎるので、運べる大きさに切って持ってこようという作戦である。

結局、1m程の長さに切ったが重かった。居候が(私も居候同然だったが)助けを呼びに行った。妙に靴をピカピカに磨き上げるのが好きなユダヤ人の J が来た。教授に何故彼はそんなに靴を磨くのか聞いたところ、明快な答えは得られなかった。田舎の泥道しか歩かないのに、彼はピカピカの革靴を履いて居候と共に走ってきた。細身を黒っぽい服で包んであごひげを風になびかせて、その助っ人は来た。が、頼りにはなりそうもない。

私たちは倒けつ転びつ(こけつまろびつ)、しかし、密やかに獲物を運び出し始めた。が、地主に見つかると大変なので、最初は話もせずに作業に熱中したが、ふとお互いの顔を見ておかしくなり、途中で笑をこらえることができなくなった。力が入らず、持つのを諦め、薪を転がし始めた。道に出た頃には辺りを憚ることなく大きな声で、お互いを間抜けだ、ドジだと言っては笑い転げた。

教授は貧乏なので、ちゃんとした薪は買えない。近所の農家に頼んで切り倒した雑木や根っこなどを買う。お金がある時はターフを買う。ターフはピートの若いやつである。アイルランドではイギリスの植民地時代に多くの木々が切り倒され、植林も積極的にはされなかったようで、今や薪は貴重品である。一方、ターフはそこここに無尽蔵と言っていいくらいある。ただ同然だが、掘り起こす手間と、乾かす時間、そして運ぶ手間がかかる。木々の細かい枝などはいくらでも手に入るが、火にくべると瞬く間に燃えてしまう。

※ターフ(Turf)・・・辞書をみると泥炭とある。ピートはスコットランドでは麦芽をこの煙で燻してウイスキーに薫りをつける。ターフはピートより若い泥炭とのことである。

話しは佳境に入りつつあるが、今日はこれまで。「続 暖炉のにおい」は後日ということで。

2011年7月11日月曜日

ゴドーを待ちながら

庭に芝を敷きたいと思った。しかし、敷きたい場所はおよそ150坪はある。金は・・・ない。

一週間後にはしばらく日本を離れる、という5月のある日、芝生が天から降ってきた。そんな訳はない。頂いたのである。家のリフォームやら庭仕事をたまに手伝っている、その親方から頂いた。あるお宅から依頼されて広大な庭に芝を敷き詰める仕事をやっていて余ったのだそうな。芝は植えたからと言ってその全部がきれいに育つわけでもないし、隅々まで必要とされる面積を正確に見積もれるわけでもない。だから常に多めに見積もるのである。

※芝は種で売っている物と、ある程度育てて土ごと40cm四方位に切り、これを10枚を一束にして売っているものがある。値段は品種によって違う。頂いたのは束になったもので、隣家のご主人によると、「姫高麗」だそうな。高いものらしい。

突然降ってこられても、どの場所がいいのか、どう植えればいいのかさっぱりわからない。時間が経てばその分芝生は元気を失ってゆき、やがては枯れてしまう。すでに親方の現場で長く放置されて出番を待っていたに相違なく、一刻も早く植えて水をやりたい。こちらもヨーロッパ行の準備がいろいろあって忙しくなってきた。(これは子供の夏休みの宿題と同じで、早くからやっておけば問題ないものを・・・)

我が家の庭は、ゆるい北向きである。それを削ってある程度平にしたので、段々が出来ている。これが雨や冬場の霜で少しずつ崩れてゆく。これを芝をはることによって防ごうと思った。丹念にやっているとキリがないので東西方向に水糸を張っていきなり芝をはり始めた。

始めると面白い。夢中でやっていると時間はあっという間に経ってしまう。気がつけば辺りは夕闇が漂い始めている。終えた仕事を満足気に見渡し、ひとりほくそ笑む。まだまだ修正が必要だが悪くない。芝を植える時期もこれで終わりである。間に合った。

振り返ってみれば幼い頃から「待ち」が得意であった。意識して何かを待つわけではない。

ダブリンにいた頃、ベケットの「ゴドーを待ちながら」を見たことがある。聞けばその監督も配役もかなりいいものだったと言うことだ。演劇など普段見ることはない。たまたま友人が誘ってくれたから行ったに過ぎない。

田舎道に二人の男が立っていて、何かを待っている。男は何を待っているのかを尋ねられるが、男は「ゴドーを待っている」と答えるのみで、それが何なのかは男自身もわからない。そのうち男は忘れてその場を去ろうとするが、もう一人の男にゴドーを待っているのじゃなかったのか、と言われ、またその場に立ち始める。

そんな内容だった。

若かった頃に一度だけこれを文庫本か何かで読んだ記憶がある。さっぱり解らなかった。その演劇もさっぱり解らなかった。もともと抽象演劇であるし、文学や芝居などには縁のない非学浅才の輩である。しかし、魅かれるようにみた。

それから十数年が経った。最近になって自分のことで気がついたことがある。私は「待ち」が得意なのではないだろうか、ということである。

何をなすにも「機」は重要である。天にはたくさんの果物が生っており、これが機を得て熟し、自然とポトリと落ちてくる。誰のもとにも、そのタイミングでポトリと落ちてくる。地上では人々が口を開けてこれを待っている。小さな果物に大口を開けて待つ人もいれば、果物のないところで口を開けて待つ人もいる。せっかく果物が落ちてきたのに口を閉じている人もいる。その姿は様々である。

私の場合、なんとなく口を開けたら芝が落ちてきたり、仕事が落ちてきたりするのである。「棚ボタ」などとは違う。この「なんとなく」が人智では計り知れない何かが働いた結果のような気がしてならない。

2011年7月9日土曜日

続 英国

まだ、英国にいる。夏の間は日本に帰るつもりは・・・ない。

ここはスコットランドの北部である。緯度は北欧ストックホルムやアラスカのアンカレジと大差ない。日本の近くで言えばカムチャッカ半島の付け根のあたりである。樺太の北端よりかなり北であることは間違いない。気候は温暖である。意外に思われるかも知れないが、メキシコ湾流の影響でここより緯度の低い(つまり南の)ヨーロッパの内陸よりはかなり暖かい。しかし、緯度が高いということは夏は日が長く、冬は日が短い。先日夏至を迎えたときは深夜近くなっても外で新聞が読めるほどであったし、朝は3時過ぎにはもうすっかり明るい。

夏は暑くなくては、という人にはここは向かない。毎日イチゴが食べきれないくらい赤くなっても朝夕は長袖のフリースが必要なほどで、雨など降れば暖房が必要になることも稀ではない。ここは夏が短い。夏が短いところはそれが急にやって来る。一斉に草花が芽を吹き、花を咲かせ実を結ぶ。暑い夏はここにはない。しかし昼の時間が長いのと雨がよく降るので植物がよく育つ。

ここは日本に比べると虫が圧倒的に少ない。(蚊やアブ、危険なライム病を媒介するダニはいる)ゴキブリやバッタなどは見たことがない。ガも蜘蛛も少ない。蛇やトカゲなどはいるらしいが私は見たことがない。(そのかわり湖にはネッシーがいるが)

自然は好きだが虫が苦手という人にはもってこいの場所である。物価は安くはないが、人々は親切である。問題は彼らの早口と訛りである。

私の初めてのスコットランドはセントアンドリュースである。ゴルファーたちのメッカである。ゴルフ界で「The Open」と言えばここで行われる大会のことだそうな。またチャールズ皇太子の息子ウイリアム王子が卒業した古い大学の街でもある。繁華街は小さく、賑わいはないが古い建物が多く、清潔で落ち着いた雰囲気であった。わずか一週間ほどの滞在だったと記憶しているが、一番心に残ったことが彼らの訛りである。

私はエジンバラで飛行機を降り、バスに乗ってセントアンドリュースに着いた。そこから知人宅まではタクシーである。ところがタクシー乗り場が見つからない。標識どおり歩いても場所がわからず、同じところを行き来した。するとひとりの男性が私に近づいて来て、何かを言った。わからなかった。3回ほどだったか聞き返すと男性は途方に暮れたようだった。そこにもう一人男性が現れ、何か言った。私には解らない。私はほんの少し英語ができるだけで、他の外国語は解らない。2人の男性は何か話している。この二人は同じ国から来た人たちらしい。

私は二人にタクシーと繰り返し、行き先の住所を書いたメモを示した。すると彼らのひとりが地面を指し何か言った。見ると確かに薄くはなっているがアスファルトの上にペンキでTAXIと書いてある。見つからない筈である。私はタクシー乗り場にはポールが立っており、そこにタクシーと書かれてるものだと思って探していたのだ。

そこに折よくタクシーが来た。なんと男性は私のメモを取り上げてタクシーの運転手に何事か話しているではないか。驚いたことに彼らの会話は成り立っていたのである。私は二人の男性は最初から外国人だと思っていた。しかし、ここで気がついたのである。大都会ならいざしらず、タクシー運転手は地元の人に違いないと。そして地元の人間と話しが通じるなら二人の男性もまた地元の人間に違いないと。

彼らはスコットランド人だったらしい。そして彼らが運転手に話していたのは、この東洋から来た紳士がこの住所のところに行きたがっている、ついてはよろしく頼みたい、とこう言うことだったらしいのだ。

かねてから聞いていたスコットランド訛りの洗礼をあびたわけであった。出発目前に、ある人は私のために真剣に彼らの訛りの強いことを心配し、またある人はニヤニヤしながら私をからかった。

それにしてもこの訛りの強さはどうだ。人々の優しさはどうだ。この気候の良さはどうだ。(私のいるところはスコットランドでも海流の関係で特に気候がいいらしいが)

追記
ある時、街のある団体の食堂で昼ごはんを食べていたら、日本人の団体が押しかけてきて断りもなく人の食事風景をカメラにおさめ始めた。日本でだって勝手に人にカメラを向けるのは失礼だと思うのだが、カメラを持っていると何か特別な権利でも自動的に生じるのだろうか。非常に不愉快な思いをした。

2011年7月7日木曜日

英国

いま英国にいる。英国では食洗機がない場合、日本では考えられない不潔な方法で食器を洗う。

一般家庭の台所には30cm四方くらいのシンクが2つ並んでおり、双方にお湯を満たし、一方には洗剤を入れる。汚れた食器を洗剤の入ったシンクで洗い、それを隣のシンクにあるお湯にざっと通して湯切りのためにラックに立てる。流しっぱなしのきれいなお湯ですすぐことはしない。程々のところで、ドライアップと言って乾いた布で拭き、それでオシマイ。(これはまだましな方で、多くの家では洗剤で洗い泡だらけのまま乾いた布でドライアップする)最初のうちはまだ双方のお湯がきれいだからいいが、次第に汚れてきてシンクの底が見えなくなっても平気でこの作業を続ける。不潔だし、洗剤の成分が食器に残るは必定と思われる。これ故に私は食洗機のない家での食事はスムーズに喉を通らない。(私は食にあまり興味がないので、英国名物の料理の不味さはあまり気にならない)

日本では英国をめくら信仰している人が多い。政治も英国をお手本にしているそうな。西洋の民主主義をそのまま日本に持って来て機能させようとするから無理がある。自分の国のことは自分で研究して考えればいいではないかと思う。いま日本は未曽有の危機にみまわれているが、小田原評定という民主主義の悪弊ににっちもさっちも行かない。この民主主義の取り入れ方は<お隣が新車買ったからうちも買わねば主義>と大して変わらない。

英国がそんなにいいのなら何故英国にはあんなにたくさんの監視カメラがあるのだろうか。異常な数の監視カメラに我々は見張られている。犯罪が多いのである。英国がいい国なら犯罪が多いわけがない。移民の問題も大きいだろうが、その原因をつくったのは誰なのだろう、と言いたい。

多くの日本人はお馬鹿な日本人が英国滞在した経験を本したものを読み、それを鵜呑みにして憧れる。一旦インプリントされてしまえば鰯の頭も、犬の糞も英国製なら彼らにはかっこいいのである。英国を知りたければ労働階級の人々の暮らしも知るべきだ。言葉などは労働者階級のものはさっぱり理解出来ない。学校や英会話学校で習った英語は相手に通じはするが、聞き取りにはまったく役に立たない。彼らの言葉遣いはかなり下品だ。マナーも悪い。群盲象を評す、と言うが英国礼賛の本を書いたおえらい先生方も間違いなく「群盲」の一部であろう。

英国の建物は素晴らしい。ウエストミンスター寺院やバッキンガム宮殿などは有名で、何回見てもその素晴らしさは変わりはない。ロンドンだけではない。地方に行っても教会から古城、そしてもう少し規模の小さな館などもある。小さな町に行っても必ずと言っていいほど博物館があり、それらの殆どは無料で観られる。

ローマが一日にして成らなかったように、ロンドンも長い時間と労力、そして金をかけて造り上げられた街である。そして、ローマがそうであったようにロンドンも・・・・自力でというよりは植民地から吸い上げた血で成り立っていると言っても過言ではないだろう。

アフリカ、オーストラリア、カナダ、アメリカ、インドなど、世界のかなりの部分を英国一国で占めた時期があった(世界の四分の一の人口と面積だったらしい)。それらから絞り上げた富を持ち帰り、本国建設に投じた結果が我々の見るロンドン塔であり、ロンドンブリッジなのだ。大英博物館などは無料どころか、見学をしたらお金をくれてもいい位なのだ。

英国の世界に対してしてきたことを羅列するとプラスよりはマイナスが遥かに多いことだろうと事は想像に難くない。阿片戦争などはその典型である。お茶が欲しくて中国から輸入し、対価を銀で支払い、これを取り戻すためにインドで栽培した阿片を中国に売りつけた。形の上では中国はインドの阿片にやられた。しかし、中国がインドに阿片の対価として支払った銀は当時の宗主国である英国に行ったのである。中国はボロボロになった。頃合いを見計らって英国は戦争を仕掛け、楽勝して香港を巻き上げた。(戦争の仕方も狡猾で汚い)近くはアルゼンチンの領土であるマルビナス諸島で起きた戦争である。英語ではフォークランド諸島と言う。みなさんには地図を見て欲しい。英国はかつて武力と屁理屈を使い分けてこの島々をとった。アルゼンチンは武力では英国にはかなわない。

英国人はカナダやアメリカではどれほどの先住民を虐殺してその土地を奪ってきたことか、オーストラリアやニュージーランドではどれほどの先住民をを虐殺してきたか、アフリカでどれほどの人々を虐殺してきたか・・・。これらの総数はおそらくアドルフ・ヒトラーのユダヤ人虐殺より多いかも知れない。(また、アフリカではどれほど多くの人が奴隷として悲惨な目に遭わされたことか)

不思議なのはこれだけ英国に酷い事をされても被害にあった国々は英国に恨み言を言わないことである。中国などは日本に対しては第二次大戦をネタに今だに金をゆすろうとしているのに、英国には一切文句を言わない。英国自身も過去に行った地球規模の残虐行為には反省や謝罪どころか口を閉じたままニンマリと笑っている。

斜陽と言われながら今でも原子力潜水艦や優秀な戦闘機を持っている。どこにそんなお金があるのだろう。この国は陰で何をしているかわからない。(日本がおマヌケすぎるのか?)
この国が過去にしてきたことの善悪はともかく、端倪すべからざる国である。

2011年7月6日水曜日

そんなモノだ、を疑う。

女性が化粧をするのはなぜだろう、とずっと前から考えていた。男性が強くなりたいと思うのはなぜだろう、とも思っていた。

最近になってそれは本能のせいもあるだろうが、もしかしたらそんなモノだと思っているからではないだろうかと思うようになった。欧米では居間にはソファが当たり前である。日本でもそれが当たり前になってきた。これも戦後にアメリカの文化が強烈に入ってきて、圧倒的な「ものの力」を見せつけられ、恐れいって何もかもアメリカをよしとするするようになった結果ではないだろうか。そのうち時間の経過と共に押し付けられたものを疑うこともせずにそんなモノだと思うようになったのではないだろうか。

何でも外国語にすれば格が上がる、と思っている人が大半である。国会のエライ先生方もそうである。みんなそんなモノだと思っているらしい。

日本の国会でマニフェストだの、バジェットだのと言っているのはバカである。この程度の政治家がりっぱな政(まつりごと)を司(つかさど)れるわけがない。また、こんな政治家を選ぶ国民も国民だ。
新聞もバカである。記事の中にマニフェストと書いてその後に括弧でくくって政権公約などと書いてある。括弧で政権公約などと説明を入れるくらいなら最初から政権公約のほうがはるかに多くの国民に伝わりやすいではないか。

悲しいほど軽薄な国民性である。意味もわからずに集合住宅をマンションと呼ぶ。タダのアパートに外国語の頭飾りをつけて箔をつけようとしている。メゾン青木などというからどれだけ立派な建物かと思ったら、オンボロの木造アパートだったりする。はやりのショッピングモールとやらに行って店々の看板を見るとあ然とする。そのほとんどはカタカナで外国語。ひどいのはアルファベットである。そりゃ読めないことはないが、何で日本国内で外国の名前にする必要があるのだろう?

私が嫌いなもののひとつに、自分の名前を外国人風にして得意がっている人たちが多いことがある。芸能人が多いが、一般人にも多い。マイケル・古賀などというから、バタ臭い日系二世かと思いきや典型的な蒙古型の日本人であったりする。己の固有性を放棄する愚かな行為だと思うが。

言い訳がましいが、私の名前のみっちーは道生(みちお)から来ている、幼い頃からの呼び名である。同じバカでもあのような軽薄なバカとは一緒にしないでもらいたい。

だめ押しの一発。歌の歌詞である。突然外国が混じる。日本人が日本人向けに歌ってる歌に突然である。これをほとんどの人は疑わない。中には日本語の歌詞を外国語調で歌う軽薄人もいる。これをカッコイイとしてカラオケで真似る。何の必要性もない。単純に外国語をかっこいいと思っているのだろう。

さて、自分を取り囲むすべてのものをそんなモノだと思っていたら、あなたという存在はどこにあるかわからなくなるのだが、それを承知だろうか?自分の力で疑って初めて自分があるのだが・・・。さもなくば一生騙されたままで終わってしまう。自分の頭を盗まれても気がつかないのはやはりバカとしか言いようがない。

我疑う、ゆえに我あり。これである。

2011年5月25日水曜日

生物多様性の観点から見る行政怠慢の一考察なんちゃって

私はある別荘地に住んでいる。やむなく自宅を持つに至り、一定の地理的条件を満たす中で、ここが一番良かったからである。(もうじき芥川賞を受賞するので編集者のために東京から新幹線で1時間前後であらねばなかった^^)

別荘地である必要はなかったのだが、結果的には正解であった。管理費は収めなければならないが、一応午前と午後のパトロールがある。路傍の草刈もやってくれる。(宅地内から山菜は盗まれるが・・・)しかし、田舎にありがちな隣近所の付き合いの必要がない。避暑地であれば、ここに定住している人は少数であり、季節を外れれば随分と静かなのがいい。

ここに上がってくるにはいくつかの道がある。主な道は国道にもその標識が出ている。それに従って山道に入ると、いきなりいろは坂になる(私は曲がりくねった坂道はいろは坂と呼ぶ)。

このいろは坂が汚い。春夏は草木が生い茂っていて見えないが、それ以外は至る所ゴミだらけである。坂の途中の車の待避所は粗大ごみをはじめ、なにやら残土まで捨てている。実は東京から軽井沢に至る碓氷峠の旧道もかなり汚い。車に乗っていると判らないが、降りて谷側を見るがいい。軽井沢と言っても日本の避暑地はその程度である。

車窓から捨てられたゴミはたいがいビニール袋に入れられたままである。想像するに、それは車内ではゴミ袋であったと思われる。大方の人は自分の車はきれいにしておきたい。妙な話しだが、きれい好きの不心得者が多いのだ。そこで車窓から袋に入ったゴミを捨てる。

ところで、行政に携わる人間は生物多様性ということを知らないのだろうか。生物の世界はうまく出来ていて、いかなる環境においても、生き残るように種に多様性をもたせている。

人の世界も同じで、いつの世も一定の割合で様々な特色を持った人が生まれる。どんなに豊かになっても、どんなに教育がよくなっても一定の割合で不心得者は生まれてくるのである。

近年になって日本の田舎は薄汚れてきているような気がする。観光地にゴミ箱がない。公共施設にゴミ箱がない。何とかのひとつ覚えのようにゴミはお持ち帰りください、と書いてある。

はっきり言おう。行政はバカである。ゴミを持っていたい人はいないのである。ゴミは持っていたくないからゴミなのだ。この単純な人の心理を行政は理解していない。だから私なんぞにバカと言われる。

観光地で発生するゴミは観光地が処分すべきであり、お金だけ落としていってくださいと言う態度は恥知らずである。公園で出たゴミでも、家庭で出たゴミでも処分場は同じである。

破れ窓理論というのがある。あるビルの窓がひとつ破れていて、これを放置すると次々と石を投げられて他の窓も割られる、と言うのである。

先にゴミが捨てられていると、次の人はそこにゴミを捨てることを躊躇しなくなるのだ。路上にゴミを捨てさせないためにはゴミ箱の設置と綺麗な環境である。

2011年5月17日火曜日

さても女とは・・・。

髪の毛を茶色にし、つけまつ毛をし、目の周りを真っ黒に書き、爪をうんと伸ばして染め、人を喰った後のように唇を赤で縁取る。

洋袴をうんと短くし、耳に穴をあけて光り物をぶら下げ、首と手首、そして指にもワッカをはめる。

機能的でないばかりか危険でさえある、かかとの高い靴を履き、欧州の無用に高価な有名鞄屋の物入れを肩からさげ、高い西洋食堂で飯を食いたがる。

電気式受像機で通信販売の健康器具を買い、3回使って押入れにしまい、悪意からか香水をごってりつけて満員電車や昇降機に乗る。

一か月にいっぺん位美容室に行って髪を整えるのは身だしなみであろう。が、髪を茶色に染めるのはどうしたわけだ?つけまつ毛や目の周りを真っ黒にするのも、みなこれ白人を尺度とし、これに近づこうとしているに違いない。

爪をあんなに伸ばしては茶碗も洗えないだろう。あまつさえ、落書きをした爪でお茶を出されても、げんなりして飲む気は起きない。

女だから何とかいい男を獲得しようとあの手この手を繰り出すのはやむを得ない。しかし、程度というものをわきまえるがいい。男はそんなに簡単に騙され・・・るなぁ。

動物の世界には「さかり」の時期がある。繁殖期のことである。人間とて動物と同じ身体をまとっているわけで、子孫を残すことは大切である。だから人間にも「さかり」はある。年頃と呼ばれる時期である。発情期のことであるよ。だからと言ってあからさま前述のような行動をとるのはどうかと思われる。

口紅はつけるもんだ、耳には光モノをぶら下げるもんだ、とマスコミや化粧品製造会社に踊らされ、かつ騙されている。よーく考えてみるがいい。そんなことしてもキミの人間性はちっとも向上しないよ。

2011年5月11日水曜日

ドロボー、その2

軽井沢にいた。何でも軽井沢と名がつけば格が上がる。軽井沢の北には群馬県の長野原町や嬬恋村があるが、そのあたりにある別荘地はみな「軽井沢ナントカ」である。明治乳業の軽井沢工場はなんと佐久市の平賀というところにある。軽井沢からは車で小一時間もかかるような、軽井沢とは縁もゆかりもないない土地柄である。フッフ(鼻でせせら笑った音)。

ついでに書けば長野新幹線(正確には北陸新幹線)佐久平駅からJR小海線に沿って国道141を清里方向に向かう途中右側に洞源湖という案内標識がある。これには驚いた。葦の疎らに茂った、小さな池である。また、近くに美笹湖というのがあり、これも案内標識があるが、ただの溜池である。双方佐久市の観光名所らしい。一見の価値は・・・まったくない。

そう、私は軽井沢の知人宅の庭にいた。四方を林に囲まれ、別荘が点在する。と、道の右手より前掛けをしたおばあさんとその孫と思しき女の子がやってくる。私にはまだ気がついていない。女の子を道端に残しておばあさんは向かいの別荘の敷地に入っていった。周囲を気にする風は見えない。

そのおばあさんはそこで何をしたか?山菜ドロボーである。タラの芽ドロボーをしたのである。道に戻ったおばあさんと私は目があった。おばあさんは悪びれるでもなく、女の子を促して去っていった。

明らかにあのおばあさんと女の子はその別荘の人間ではない。子供を迎えに行ってその帰りに人様のモノを失敬したのである。

良い事をしても、悪いことをしても、誰が見ていなくても、自分の中の神様が見ている。このおばあさんの悪い所は、可愛い孫に「それはなんでもない事だ」、と見せたところにある。そんなことを吹き込まれた孫こそいい迷惑である。

2011年5月8日日曜日

誰が象を見たか

群盲象を評す、という言葉がある。古代インドから伝わる寓話だそうだ。目の見えない人達が象に触り、その感触から象というものの印象についてそれぞれが意見を言う。象の腹に触った者はそれは壁のようなものであると主張し、足に触った者は柱のようだと言う。耳に触ったものはそれはウチワのようなものであるという。

みんな言っていることは正しいのだが、その形全体を表さなければやはり象を表すことにはならないだろう。「目明き」が象の形を言葉にしたところで、それでも動物学者に言わせると形を表しただけでは象を評したことにはならない、と言うかも知れない。さらに獣医は象の体の組織まで知らなければ象を知ったことにはならない、と言うだろう。

これを発展させてみれば、何のことはない、我々が知り得ることは宇宙全体のほんの僅かの部分に過ぎないことがわかる。で、あれば「知っている」と言う人に我々は注意をしなければならない。日常の生活の中で、私は☓☓について知っている、と言う人がいたら用心である。それが「斉藤寝具店がどこにあるかを知っている」程度ならいいのだが・・・。

「シッタカ」が世の中には多いのである。故意であるかどうか、悪気があるのかどうかはともかく、人はすぐシッタカになる。なぜか?私は、人の中の動物性がそれをさせるからだと思う。「知っている」ことによって相手の優位にたてるからである。

話が逸れた。私たちは何も知らない、ということを知るべきだ、というのが今回の論旨である。

テレビで、この度の天災と人災で命を奪われた人々のことを私も本当に気の毒に思う。でも、それは自分がいま生きているからそう思うので、いつかは死ぬ。まるで自分は死なない側の人間のように思って亡くなった人々を気の毒がるのはおかしい。

肉体が滅んで魂だけの生活があるとすれば、少なくとも肉体を養ったり、管理する苦労からは開放されるわけで、それはとてつもなく楽チン生活ではないかと想像する。

人が死んだからと言って悲しむこともなく、生きているからと言って特別喜ぶこともない。ま、多少は仕方ないか・・・。あまり唐突なことを言っても変人扱いされるだけだから。

そうして今日も私は、人が見たという象の姿の断片をかき集めてはその全体像を想像して死を待つのである。

ドロボーさん、ごめんなさい。

桜も散り始め、若葉の季節になり始めた。春爛漫である。

暇なときには早朝に庭を散策するのが好きである。楽しみにしていたタラの芽がいよいよ膨らみ始め、今日明日に天ぷらにでも・・・あれ、ない、先っぽがそっくりない。やられた。噂には聞いていたが、山菜ドロボーにやられた。

                    ※ ドロボーの利き足は右だ!


ここは避暑地で入り口には樹木等の採取は「窃盗罪」である旨看板により明示されている。

次の日の朝もやられた。ちゃんと採取の頃合いを知っていて来るようである。それでも初日はまだ道路際であった。二日目は完全に庭に侵入しての犯行である。

タラはここでは「ヨタ」と呼ばれるらしい。「与太」のことであろう。しかしてその意味は「ならず者」である。生命力が強く、切っても翌年芽を出す。山菜の王様のイメージとはほど遠いのである。

一昨年引っ越してきたときは、それでも珍しくて、敷地内にあるタラを切らずにおいた。それでいながら他の雑木などは切ったので日当たりがよくなり、やたら増え始めた。

これに散歩偵察を抜かりなく行なっていたドロボーが目をつけたのだろう。生物多様性の原理に則り、人の価値観も多様である。人の庭から盗んだ山菜の王、タラの芽がひとしお美味しく思う人もいるのだろう、このあたりには。

追加 在、不在に限らず敷地に断りもなく見知らぬ人が侵入するのはイヤなので、タラはすべて根元から切ってしまいました。ドロボーさん、あなたの窃盗の楽しみを奪ってしまいました。ごめんさい。 

2011年5月1日日曜日

太郎うさぎ

春がきた。日の出はますます早くなり、日の入りはますます遅くなる。斜向かいの鈴木さんのしだれ桜もその蕾を濃いピンクにふくらませて満を持している。
長野では梅も桜も水仙も、辛夷もレンギョウもユキヤナギも一斉に咲く。

4月の中頃の早朝のことであった。いつものように人目を避けて日の出直後くらいに散歩に出かけた。よく整備された別荘地ではあるが、早春のこの時期はさすがに人の気配は稀である。東進すれば太陽は出ているが、その位置はまだ低く、近場の森に阻まれてばらばらになった光の筋を投げかけてくる。

いつものコースをたどって、その折り返し地点まで来た時である。30mほど前方の舗装道路に小動物の影があった。私は東に向かっているので、その影はオーバーに言えば逆光の中にあった。痩せた中型のテリヤのように足の長さが目立った。それは立ち止まっており、逃げようともしない。私のほうが先に気がついたようなので、私は路上で足を止め、息をひそめた。早朝散歩では時々動物と遭遇する。と、その影は私のほうにひょこひょこと跳ねるようにやってきた。私はそれがうさぎだと気がついた。確かにうさぎである。長い耳を立て、毛を夏用のそれにかえてやってきた。目前数メーターでうさぎは私に気が付き、歩みを止めた。真っ黒な黒曜石のような目で私を見つめていた。面白いことに、私にはうさぎの動揺が見えたような気がした。3秒も見つめ合っていただろうか、うさぎは道の左手の藪の中に入っていった。

ここに来て早くも一年と8ヶ月になるが、数々の動物に遭遇した。シカ、キツネ、テン、タヌキ、モグラ、ジネズミ、ヤマカカシ、アオダイショウ、シマヘビ、ヒキガエル、ニホンカモシカなど。鳥などはこのところ毎日庭に来るアカゲラやヤマガラをはじめ、数えきれない。しかし、うさぎだけはその足跡しか見たことがなかった。

私がうさぎで最初に連想するのは不思議な国のアリスの、あの懐中時計をもった白いうさぎであるが(なぜか因幡の白兎ではなかった)、散歩の途中で見たのは絵本のピーターラビットにそっくりであった。が、ここは日本、あれは太郎うさぎだったのだ。

2011年4月28日木曜日

和菓子・・・ち、違う、我が師

ベランダへ通じるガラス戸の上部に蜘蛛が巣を作って店開きしていた。風に巻き上げられて引っ掛かった木の葉などにもめげず、長いこと営業していた。私はそれを知りつつ掃除の折も見なかったことにして放置した。巣はゴミにまみれ、修理を重ねて形もいびつになっていた。

昨日思い切って蜘蛛の巣を取り払った。ガラス戸は綺麗になった。夜来の雨、庭は湿り気をおびて今日は春らしい朝となった。

ガラス戸の上部は・・・あれ?前よりも綺麗な蜘蛛の巣がかかってる。小さな水玉が掛かり、逆光の太陽を使って見事な芸術になっている。

ははぁ、蜘蛛は私より働き者だな、と思った。あの姿を見習わなければ、とも思った。

2011年3月18日金曜日

マスコミ禍

ヘルメットを被り、マイクを片手に悲痛を装って被災地の隅々まで行くテレビのレポーター達。その数は無数である。彼ら曰く「ここでは水も食料も足りません。救援物資が届かないのです。ちょっとお話しを聞いてみましょう」と。

マスコミは視聴率、聴取率、または発行部数でなんぼの世界である。その前に正義も常識もない。交通が遮断されて物資が届かない筈のところにもマスコミはおしかけて「知る権利」をかさに被害者をメシの種にするのだ。現場が悲惨であればあるほど彼らは儲かる。

マスコミが行けるなら支援物資も届くだろう。支援物資も届けられないような所ならマスコミも行けるわけがない。マスコミが行くならせめて物資を満載した小型トラックを同道するがいい。

2011年3月8日火曜日

ああ、6万円

知人宅を訪ねた帰り道、地元のいろは坂の登りが緩くなったあたりで、左手谷側のガードレールからいきなり鹿が跳び出して来て私の車にあたった。あまりにも突然のことで、大きな音と衝撃で初めて鹿に気がついた。

鹿は数頭おり、一頭はそのまま道路を横断し右手の崖を登って逃げ、他のものはまた谷底に下って行ったようだ。

鹿はこの辺りでは「ならず者」である。集団で畑を荒らしまくる。私の住む別荘地でも度々見かけ、人々が丹精した野菜をタヌキとタッグを組んで食い荒らす。もちろん彼らにプロが作ったものであろうが素人が作ったものであろうが区別も容赦もしない。私が彼らを「ならず者」と呼ぶ所以である。

日本狼が絶滅した後、ここの食物連鎖の頂点に立つのは人間様であるが、その人間様である猟師の平均年令が上がり、或いは後継者不足で害獣駆除が思うにまかせない。もっとも、狼を絶滅に追いやったのは人間様であろうから、昔の日本人がしたことのしっぺ返しを現代の日本人である私が受けていると言えなくもない。人間が自然界に介入してそのバランスを崩してしまう、このような例は世界中にあるのだ。

と、そんなことより私の車である。私はビンボーなので、車はダイハツハイゼット。そのバンパーを大破、フェンダーは小破した。壊れた部品のそこここ鹿の毛が付いている。(もし、鹿がその場で血を流して死んだら私はその後処理で大変だったろうと思う)自走できるのでこれを知り合いの板金屋さんに持っていった。新品部品を使っての修理は10万円、中古部品を使っても6万円だと言う。一瞬で消えた6万円の憤懣のやり場がない。

そう言えばつい2週間ほど前に市の主催する「罠猟講習会」で無料の鹿肉のカレーを食べたっけ。シカも美味しくておかわりまでしたっけ

考えようによっては自然豊かな人里を離れた所に住んでいるのだ。有名人は有名税を払っている。田舎者は田舎税を多少は払わねばなるまい。

それにつけても馬鹿鹿の憎さよ・・・ああ、6万円。

追記
実は鹿をはねた後、車の損害を調べていたら左手の斜面にハンターがいて、鹿はこのハンターに追われて私の車にあたったらしいのだ。彼らには責任は無いのかなぁ ←未練がましい

追記2
ヨーロッパの僻地に隠れ住むSnigel氏は自慢の四駆車にアニマルバンパーを装着している。ほとんど街中シカ走らないのに、である。斯く言う私の車には左様なモノはない。私の御用邸は鹿や猪が跋扈する山の中である。無用なところにあって必要なところに無い。おかしいではないか!
訂正  御用邸 → 山小屋

2011年2月26日土曜日

さても男とは・・・

歯医者の話である。
ここ十年あまり歯医者に行かなかった。最後に行ったのはヨーロッパの僻地、某国でのことであった。甘党のこととて、ジェリービーンズを食べていたらガリッと歯にあたったものがある。丁度その国の諸事に腹を立てていたところなので、ジェリービーンズにも腹を立てた。

「バ※ヤロー、どこの国でジェリービーンズに石を混ぜるやつがあるか!」

結論から言うとそれは石でもダイヤモンドでもなく、しかして銀の塊であった。私の奥歯にかぶせていた銀がジェリービーンズのねちっこさに負けたのだった。大変なことになったぞ。そこが日本であったなら私の不安はそれほどのことはなかったに違いない。

私は友人や火星人にまで聞いて回った。どっかいい歯医者はないかと。火星人の同僚が情報を持ってきてくれた。いいところがある、しかもタダだと。そんなうまい話があるわけはない。当時私は自分の英語能力の低さに自信満々だったから、再三確認してみた。何度聞いてもタダだと言う。曰く、大学の歯学部附属の歯科医院だと・・・。(←この点々は文字ではないが、この場合いかにも雄弁ではないか?)

治療の前に一筆取られるのは必至である。「この歯の治療に関しては当該歯や命を失うことがあっても一切不服を申し立てません」などと書いてあり、そこにサインさせられるのだ。

幸いにして他のちゃんとした同僚から有力な情報をもらい、事無きを得た。その歯医者は隣国であるB国で学び腕も確かなセンセイだったが、街中で出会うと通りの向こうからでもあたりはばからず大声で私の名前を呼ぶので閉口した。

さて、今回故障したのは前述のセンセイに治療してもらった歯であった。その治療が悪かったのではなく、ひょんなことから歯にヒビが入り、欠けたものと思われた。

私は当地(長野県某所)は1年半前に越してきたばかりで、行きつけの歯医者はなく、しかしてお隣りのサイトーさんの紹介で、ある歯科医院に通い始めることとなった。

当たり、である。いい先生に巡り会えた。治療が早く正確。予約が短期間の間に容易に取れる。時間に行けば、まったく待つことなく即治療開始。事前説明も十分。が、これだけではブログのネタにはならない。

かわいい歯科衛生士がいた。これである^^
俗に「夜目、遠目、傘の内」などと言う。しかし、当たり前であるが、彼女はマスクをしている。マスクをしている女性はヤローから見るときれいに見える。女性が事実を偽るための作業を念入りに行ったとして、それを差し引いてもこの 歯科衛生士さんはきれいでかわいい。

患者である私は大口を開けたマヌケ面で仰向けになっている。彼女は私にかぶさるようにして真剣な表情で私の歯の掃除などをしている。困るのは目のやり場である。彼女の目を見ないようにすればするほど私の目は彼女の目に吸い寄せられる。私の顔面上を横断して彼女の手がのび、あのチューチューホース(名前は知らない。唾液を吸い取る管のこと)をとる。彼女の二の腕の白くてきれいなことよ。私はさる欧州の伯爵の子孫なので、きれいな女性の二の腕やうなじを見ると遺伝的に噛み付きたくなる。

残念なことには今日で治療が終わってしまった。ああ、また歯が痛くならないかな~。

さても男とは・・・

2011年2月24日木曜日

もしもし・・・

もしもし、これを読んでいるキミ、何処へ行くの?え、わからない?ふ~ん・・・・、で、キミは誰?
それもわからない?それは問題だよ、キミ。自分が誰でどこへ行こうとしているのかわからないのにご飯はおかわりするんだねぇ。ん?腹が減ってはどこへ行こうにも歩けない、自分が誰かを考えることも出来ない?そりゃもっともだ。

さても人間とは異なものだなぁ。

我が家の庭に現れるタヌキやテンはエサを求めて毎夜毎夜さまよい歩く。鼻や耳、目の命ずるままに右に行ったり左に戻ったり。彼らは自分が誰かを考えることはしないし、どこへ行こうとしているのかもわからない(と思う)。それでいいのだ。彼らは神様の子達だから。

でも、キミはそうではない。口を開ければいっちょ前の理屈を並べるのだ、自分が誰でどこへ行こうとしているのかは答えられるだろう?わからない?じゃ、キミは何という半端な生き物なんだろうね。

人が人とは何かを知らずに生きるってなんかおかしくないかい?生き物だからメシは食うさ。でも、メシを食うために生きてるんじゃなくて、生きるためにメシを食うんだろ?

あいつはダメだ、などと言う。人間って人のことは見えるが自分のこととなるとからっきしみえないねぇ。逆だろ?人のことなんかどうでもまず自分ってモノが見えないと自分の存在の意味が怪しくなるだろ?いいの?それで。

ロシアは汚い。条約守んないし、野蛮だし。そうだよ、そんなこたぁ世界中誰でも知ってる。でも、北方領土取られたのは日本にも責任があるよ。ちゃんとセコムして、留守をしなければドロボーだって入ってこないでしょ?日本にはセコムする能力も金もあるよ。でも、やらなかったんだ。なぜか?

政治家のせいにしちゃだめなんだよ。政治家は我々が選んだんだから。買い物に行くときに、財布にいくら入ってるかを知らずに行くのは馬鹿だよね?日本人はそれを平気でやるんだ。ただし、逆をね。財布に500円入ってるのに、100円位だと思って99円のでん六豆を買って帰るんだ。本当はどら焼きを買いたかったのにね。こんなだからロシアや中国や北朝鮮はニヤニヤしながら日本をかまってるのさ。

さても日本人とは・・・

2011年2月23日水曜日

さても人間とは・・・

猫も杓子もブログである。最近はツイッターか・・・。その心とは・・・。

目立ちたい、わかってほしい。ブログとはこれらの内なる欲求を満たしてくれる、そして誰でもすぐ「即席モノ書き」になれる便利な道具なのだ。(お湯もいらないし)

しかしながら猫や杓子に名文を求めてもそれは酷というもの。ブログに名文なし。(名文書けるなら一文にもならんブログなんかやらない)かくしてブログの世界は駄文、迷文の花盛りになっている。

この混沌たるブログの大洋で孤軍奮闘しているのが我が生涯の友である(と、少なくとも私の側は思っている)二人のヤローどもがいる。彼らは私が幾分年上なのにもかかわらず、そんなことに頓着せず私を虐めては喜んでいる。が、小心な私の反撃は心のなかでのみ。

彼らは長くヨーロッパの僻地に隠れ住み、ブログをもってして日本の読者に欧州文明の悪口を喧伝して恥ずるところを知らない。しかしてその文章である。

ひとりを仮にその名を Snigel (スニッゲール、或いはスニーゲルと発音。スエーデン語でカタツムリのこと) とする。彼はブログ界の古参である。彼の文章は立板にイカ墨を流したように明快で、その内容(ネタ)は多少偏質的ではあるが、万人を幸せにする。
「才あるものは才に溺れて赤誠足らず」などとは言わせない。彼は才が溢れていても赤誠がある稀な人である。

さて、もうひとり、仮に彼の名を ひできす とする。長身でイケメンで頭と性格がいいだけの、他に何にも取り柄のないおっさんである。この御仁、さる大学でプラズマ何とか学を修めただけのただの無教養かつビンボー人でもある。にもかかわらず彼の文章は・・・いいのだ。理系の人間はまれに文系の人間のそれを凌ぐ文章力を持っていることがある。彼がその典型である。

このふたり、お互い助け合い、足を引っ張り合いながら同居すること約10年である。ホームズとワトソンだってそんなに長くは同居していないはずなのに。
いかにも二人はブログ界の白眉である。ここまで書けばこの文章を読んだ大姉大兄に於かれては彼らのブログを読みたくなるであろう。が、私は彼らに嫉妬するのあまり、ここにそのURLなんぞは掲載しない。彼らの名前を検索すれば失念のあまりオシッコをちびるくらい沢山ヒットすであろうから。(検索の折にはそれぞれの名前とアイルランドと入れて欲しい)

なんでこんな事書いたんだろう・・・。今日は歯医者に行ってかわいい歯科衛生士に歯石を取ってもらった話しを書くつもりだったのに。奴らの呪いか・・・。くわばらくわばら。