2011年7月28日木曜日

暖炉のにおい 4

観光客などとは無縁の鄙(ひな)びた村のパブにいた。

夕飯の後の一杯を楽しむ人達のざわめきも去り、店内は再び落ち着きを取り戻し、ゆったりとした時間が流れていた。大声で話す人もなく、時折パイントグラスが触れ合う音などが聞こえるのみである。バーマンは手持ち無沙汰にカウンターを拭いている。

田舎のパブである。全ては古ぼけて薄暗い。その店内には壁に取り付けられた電球でできた偽物ろうそくの赤い火明かりがそれらしく揺らめいている。客席は「コ」の字型になっており、真ん中がカウンターになっている。

都会の観光客目当てのパブならばアイリッシュダンスやアイリッシュミュージックの実演があるところだが、ここではときおり地元の人々が寄りあってギターやフィドラー、またティン・ウイッスル(ブリキ製の縦笛)やアコーディオンの演奏を楽しむのみである。もっともこれがアイルランドの普通のパブである。テーブルの上には彼らのギネスがある。マーフィーがある。スメゼックス(smithwick`s)もある。演奏の合間に舌と喉をこれで湿らせる。純粋な音楽としての評価などは私にはわからないが、とにかくいいのである。外れたことは一度たりともない。

しかし、今日はなにもない。スピーカーからはビートルズのレット・イット・ビーがブルース調で流れている。その音は決して大きなものではなかったが、静かな店内の隅々まで届いていた。

暖炉はカウンターの向かいにある。重なったターフの下のほうが赤い大きな熾(おき)になっており、その上の新たにくべられたターフが、白いかすかな煙をあげて燃え始めている。マントルピースは焦茶色で決して上等なものではないが、黄ばんでしまった漆喰の壁によくにあっていた。店内は程良く暖まっている。

時間と暖炉のターフの匂いだけがこの田舎のパブをつくったようだった。

一般に、暖炉には薪か石炭をくべる。私は薪が好きだ。薪はその姿かたち、はぜる音や炎までのすべてがいい。また、においもいい。

アイルランドではこれにターフが加わる。ターフは若い泥炭で、アイルランドには豊富にある。地表面にあって簡単に採取できる。石炭と違って、取り出したからといってすぐに燃やせるわけではない。地方を歩けば見晴るかす荒野の処々にターフが掘られて、その場で乾燥を待っている光景に出会うことがある。

ダブリンなどの大きな街のパブではたいがい石炭を焚いている。それもまたいいのだ。しかし、ターフの何とも言えない自然なにおいは石炭をはるかに上回る。残念なことにダブリンのパブでターフに出会うことは稀である。

カウンターでひとりビールを飲んでいた女性がゆっくりと立ち上がり、体を揺らせ始めた。レット・イット・ビーに体を委ねてステップを踏む。ひとりで踊り始めた女性に注意をはらうものは誰もいない。

30代前半、栗色の髪をざっくりと後頭にまとめている。小さめの青白い顔には化粧っけはない。細かなチェックのシャツに下はジーンズ姿である。こちらのその年令の女性にしては細身である。視線を下に落としたまま自分の世界に浸ったまま踊っている。

私はカウンターとは反対側のテーブルでひとりギネスを飲んでいた。最初はあっけに取られた。しかし、周囲が一向に頓着しないので、私もそれにならった。しかし、好奇心が頭をもたげて、これを抑えこむのは容易ではない。時折彼女を盗み見た。

彼女は時に眉をくもらせレット・イット・ビーを小さく口ずさんでいるようだ。踊りながら私に近づき、耳元に何かを囁いた。わずかに微笑み、そして去っていった。その後のことにつて、私は何も語らない。

ゆっくりと時は流れ、夜は更けていったのである。

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