2015年8月22日土曜日

マルコよ

欧州最後となる四日間のドイツ滞在を終え、ハノバー空港からデンマークのコペンハーゲン空港に移動する。ここで、成田便までは5時間近くを待たねばならない。一旦コペンハーゲンの街に出てから戻ればいいのだが、乗り遅れを心配しての観光は落ち着かない。中央駅に隣接するチボリ公園やカールスバーグ美術館なら時間つぶしにはいいのだが、デンマークはユーロ圏ではないため(EUの構成国ではあるが、共通通貨のユーロには参加していない)、通貨両替が必要となる。ユーロが使える場合もあるが、つり銭などがクローネでは他での使い道がない。我が佐久の御用邸には、すでにデンマーククローネやスエーデンクローネの小銭が溜まっている。私にとってコペンハーゲンは、最近は単なる通過点に過ぎなくなっている。時間までは大人しく空港内で待つ。

どこでもそうだが、空港の中は何でも異常に高くなる。飛行機の乗客は籠の鳥で、わざわざ外に出て、安くてうまい食事にありつくことはできにくい。いやでも高いものを買わされる。欧州に出かけるために、目を皿にして格安航空券の渉猟に神経をすり減らすのに、空港内では選択の余地は少なく、高い飯を食わねばならない。

空港内の片隅に座り心地の良い椅子を見つけ、ここで文庫本などを読む。日本から4冊の続き物を持参したが、最後の一冊を読んでしまった。雑踏に目を向ければ、随分様々な人々が行き交う。

昨今飛行機は昔と違って、私のような社会の下層で、息を殺すようにして暮らしている人間にとってさえ、手の届かない移動手段ではなくなった。いつだったかは忘れたが、欧州のどこだかの空港内の雑踏で、ひとり目に涙を浮かべながら、荷造りのやり直しを試みている東欧系の若い女性を見たことがある。私は受付の列に並んで順番を待っていた。彼女は、旅行かばんを床に置いて、中身の出し入れをしていた。艶のない乱れた金髪をかき上げながら、時々すすり上げていた。あるものはかばんの中、そしてあるのものはその周囲の床の上に乱雑に置かれていた。額に入った写真やハイヒール、その他に様々な小物が目に付いた。彼女の服装やかばんから推察すれば、決して豊かな生活をしている人とは思えない。何らかの止むに止まれぬ事情があって、その空港から飛行機に乗る。家族や友人、そして恋人との別れの悲しみ、先々の生活のことなどが彼女の不安を掻き立てていたと思われる。そこに受付からの荷物の重量超過を言われたのだろう。

どれも置いてゆけない。しかし、何とかしなければ飛行機には乗れない。彼女は、彼女の人生を一所懸命に生きている。私はそのすぐそばを通りぬけた。そんな事が、あった。

長い待ち時間をやり過ごして後、私は早めに搭乗口に向かった。日本人が多い。当たり前であり、かつまた異様な光景もである。異邦人として海外に長く過ごした後(今回はたったの半月ではあるが)、同じ日本人の中に入ってゆくのは、一種の面映さがある。ここにも様々な人々がいる。季節柄団体旅行の人たちも多い。また少数ではあるが欧米人の家族連れも目立つ。

人の一生とは、新しい尺度の模索と、古い尺度の脱ぎ捨て、その連続なのだ。私は欧州に長くいた。無意識の中で、彼らの尺度に反発をしつつも、いつしかそれを少なからず受け入れてきた。それでなければ生きてゆけなかった。欧州に暮らしながら日本の尺度が抜けきらないように、日本に帰ってからは、身に着けた欧州の尺度が完全には抜けきらず、それがいわば宿痾(しゅくあ)のように日本での生活の思わぬところで顔を出す。

ついに搭乗案内が流れ、人々が立ち上がって列を作り始める。私の座席は機の後方なので、早めに乗り込みが始まる。搭乗橋から機内に入る時、いつものことながら、緊張感とも高揚感ともつかないものが、私の心に湧き上がる。

狭い混雑する通路を通り抜けて、私は戸惑を覚えた。私の席は通路側で、その隣の窓側の席には小さな男の子が座っていた。周囲に連れは見当たらない。成田までの十一時間の道連れが、この小さな男の子である。首から紐で青いケースをさげ、小さな窓から外を見ていた。頑なに顔を外に向け、私を見ようとはしない。

髪が暗い栗毛色で、頼りないほど細く柔らかく、癖のない直毛である。一番の印象は、モンゴロイドには少ない、上に反った長い睫毛であった。私は、小鳥の巣作りよろしく自分の席を心地よく整え、座って安全帯を締めた。気の利いた航空会社なら日本向けの便には、衛星を通じて印刷されたその日の日本の新聞が用意してあるが、この航空会社にはそれは望めない。それどころか英字新聞さえ用意されていないかった。無聊にまかせて少しの間、男の子を観察する。

機は成田に向けて概ね定刻の離陸となった。読む本も新聞もない私は、緊急用に持参しているスドクを開き、これに挑戦し始めた。縦横九つづつのマスを1から9までの数字で埋めてゆく。縦でも横でも同じ数字は入らない。結構な集中力を要し、頭の訓練と時間潰しには持って来いである。

子供がひとりで飛行機に乗る場合は、いろいろ制約があることと思う。おそらくこの子は、デンマーク人のお父さんが空港まで見送りに来ていたのだろう。日本から来た時、久しぶりに会ったお父さんに、最初は戸惑いながらもようやく慣れた頃、日本に帰らねばならず、見える筈のないお父さんの姿を、空港ビルのどこかに追っていたのだろうか。

私は、この小さな隣人のことで想像が膨らんでしまい、スドクには集中できなかった。途中から完全に行きづまってしまった。どこかに解決の糸口がある筈だがわからない。その時、私の頭にふとある考えが浮かんだ。

無理かとも思ったが、私は思い切って小さな道連れに話しかけてみた。

「キミ、日本語わかる?」

少年は肯きつつ、小さな声でわかると言った。その直後に私は自分の放った言葉に軽い後悔を感じた。この子はその顔つきと状況から、明らかに白人と日本人の混血であり、このことを問われるのは嫌なのではあるまいかと思ったのだ。しかし、私の思いは杞憂であった。少年は少なくとも表面上は平静だった。

※日本では混血児をハーフ(Half)と言うが、これは日本独特の通じない英語である。

「キミね、トイレに行きたいときは遠慮しないでいつでも言うんだよ。ところでおじさん、このスドク、途中でわからなくなってしまたんだけど、キミわからないかな?」

少年は肯いて、意外なほどあっさりと私の差し出したスドクとボールペンを、小さな手で受け取り、私のやりかけの問題に目を通し始めた。ものの一分も経つか経たないかのうちに少年は、私の過ちを指摘した。同じ列の上には二つと同じ数字は入らない。それが私の埋めた数字では、どうしても残った空のマスに同じ数字が入ることになり、どこかに間違いがあると、指摘されてしまった。

私は、心の中で舌を巻いた。このパズルが解るどころではなく、私の間違いを極めて短時間のうちに指摘してきたのだった。

私は、スドクを返してもらいながら引き続き彼に話しかけた。年齢は8才で、東京の小学校に通っていると言う。名前はマルコ。聖書からとった名前と思われる。大人になったら宇宙飛行士かデザイナーになりたいと言う。

客室乗務員は、当然彼のことを気にかけており、飲み物を配るときも、食事のときも何くれと声を掛ける。日本人の客室乗務員は日本語で話しかけ、(おそらく)デンマーク人の客室乗務員はデンマーク語で話しかけていた。マルコはその度に、小さな声で言葉少なに、しかしはっきりと答えていた。

※ 私は、デンマーク語はわからないが、スエーデン語は僅かながらわかる。二つの言語はかなり近いが、マルコと客室乗務員の言葉は、スエーデン語ではなかった。

話しの接ぎ穂がなくなると私は、映画を観ることにした。マルコも、前席の背もたれについているモニターを食い入るように見ており、時折タッチスクリーンや肘掛についた機器をいじっていた。

映画は、新旧取り混ぜており、私は未来の人造人間ものを観た。日本語の吹き替えはなく、仮にあったとしても切り替え方がわからなかった。みればマルコはディズニー動画を観ている。

※邦題「ブルー 初めての空へ」、原題「RIO」、日本での公開は10月で、ディズニーではないようだ。

マルコは、テーブルに置いた菓子袋に、頻繁に手を伸ばしながらブルーを観ていた。私は、今まで観ていたものに飽きて、日本の映画を観ることにした。ところが、日本語音声への切り替え方がわからない。マルコに聞くと、簡単に教えてくれた。今の子供たちがこういった機器の取り扱いに慣れていることには驚かないが、マルコが国際線の機上の画面操作に慣れていることに少し違和感を感じた。こんな小さな子供が国際線を飛び慣れているのだ。

いつの間にか私とマルコは寝入っており、私が目覚めたときに、彼との境界にある肘掛上で双方の腕が触れ合っており、私はこの子の肌のぬくもりに、一種不思議かつ複雑な気持ちにさせられた。私は、それが自分の中にある父性というものなのかと思った。子供の姿、行動、また匂いや声などは、大人の持つ母性や父性を刺激し、子供をかわいがったり保護したりしようとするのだろう。私はマルコの体温が私に伝わった時、全身が幸せに満たされたような感じがした。

マルコから私に話しかけてくることはなかったが、一回だけ例外があった。食事のときにマルコは、サラダにかけるオリーブ油のドレッシングの何かを知らず、また自分で開けることが出来なかった。彼は私に行儀良く尋ねてきた。確かに細長い包装容器の上部にミシン目が入ってはいるが、子供には簡単には破れそうになかった。私は初めてマルコのほうから言葉を掛けてきたことを嬉しく思った。ミシン目をひき破ってドレッシングをマルコに返した。

離陸後数時間した頃、マルコは思い出したように座席下のザックの中から夏休みの漢字練習帳をとりだして、これをやり始めた。体が小さいため、目と卓上の練習帳の距離が近すぎる。モニターのブルーと練習帳を半々くらいにやっている。いつの間に取り出したか、また別の菓子を食べている。漢字の書き写しは綺麗だが、ふり仮名の多くが間違っている。以降、最後の食事のとき以外は練習帳は常に卓の上にあった。練習帳の耳のところには、母親によるものと思われる日付が書かれており、それは随分前のものだった。いいんだ、マルコ。

ふと練習帳をするマルコの指の爪を見ると、どれも随分伸びている。2週間ほどは切っていないのではないだろうか。私の想像は膨らむ。

マルコのご両親は、母親が日本人で、父親がデンマーク人。私の経験上、これはおそらく当たり。マルコの伸びた爪を見ても、もしデンマークにいるのが母親なら、あそこまでは放置しないだろう。あれは、マルコの母親が日本で切り、デンマークで父親と過ごす間に伸びたものと思う。スクリーン上の飛行地図の飛行機が、シベリアの東端に差し掛かった頃、私はマルコに、もうすぐお母さんに会えるね、と問うた。彼はだまって肯いた。

手洗いに立った時、私はギャレーにいた日本人客室乗務員に、私の小さな隣人が離陸以来一回も手洗いに立たない、機会を見て彼に聞いてみてくれないか、と頼んだ。彼女はこれを了承し、後刻うまく処理してくれた。私は子供を持たないので、8才の子が7~8時間もの間に一回も手洗いに行かないことを普通なのか、そうではないのかわからなかった。

マルコはあまり眠らない子だった。かなりの時間をブルーに費やしていた。おそらく彼は、それを繰り返し何度も観ていたに違いない。私が、まどろみから覚めて隣を見ると、彼は眠っていた。頭を私のほうに傾け、心持口を開けていた。目を閉じていると、睫毛の長さが際立った。私は、騒音防止に効果のあるヘッドフォンで、ジャズを聴きながら寝ていた。マルコはビクッと体を震わせて目覚め、視線を泳がせながら、ここはどこ?ここはどこ?と繰り返しつぶやいた。不安げな様子だった。私はヘッドフォンを外し、ここは飛行機の中だよ。もうすぐお母さんに会えるよ。何も心配は要らない、と彼の耳に囁いた。

私は、マルコのご両親は離婚したのだろうと思った。



2015年8月11日火曜日

ダブリン再訪

ダブリンにいる。オコンネル通りを中心にリフィー川を挟んで、街の南北をそぞろ歩きに歩いてみる。アイルランドは、史上空前の経済興隆から転落して久しいが、ここへ来てまたそれがいくらか上向いてきているようだ。

私は、まったくの経済音痴だが、街を歩いてこれを肌で感じている。もっとも、それは八月と言う観光期で、欧州各国はもとより、世界中から人が押し寄せているからかも知れないのだが。

店に入れば、国籍の推測ができない店員さんたちが、流暢ではあるが訛のある英語で客の応対をしている。この国の名門大学トリニティーカレッジ周辺は、新しい路面電車の敷設工事でごったがいしている。空を見上げれば、建築用のクレーンが、かつてほどではないにしろ、再度そびえるようになっている。

ちょうど一週間前にここの空港に降立ったが、その時は曇りで八月と言うのに肌寒かった。異常に暑い日本から来たので、ここの気候だけは私を裏切らないと思った。先日街を歩いていて気がつくと、半袖で歩いているのは私くらいなもので、ほとんどの人たちは長袖を着て歩いているのだった。相変わらず雨もよく降るが、不思議と湿度は上がらず、きわめて快適である。これではこの国の人に、二酸化炭素の地球温暖化に対する影響をいくら説いても、説得力に欠けるだろうと思う。

街は、中心から郊外に至るまで満遍なくゴミだらけで、これは私がここで暮らしていた時と変わらない。道路も空き地も、川も運河もゴミだらけである。もったいないと思う。絵葉書などで見れば、ダブリンと言う街は、それは愛らしく美しい街なのだが・・・。

人類は、石炭や石油と言うものを燃料として空気を汚したように、これを原料にして造った合成樹脂なるもので、自然を傷めつている。これらが自然に帰るためには、地球の持つ浄化作用に依存せざるを得ないが、他のものと違って地に帰るには何万年も掛かるであろう。地に帰る速度より、生産、そし廃棄蓄積される速度のほうが何百倍も早いので、環境は急速に悪化する。この現象が近代、特に戦後の世界の目覚しい経済成長と人口爆発に比例して絶え間なく続いている。

海にも陸地にも空にも、自然界には無かった物、そして自然に帰るのには時間の掛かるものが溢れかえっている。あるものは目に見え、そしてあるものは目には見えない。しかし、それらは確実にこの地球上に住む生命の住環境を危機におとしめている。

人類は、神様から授かった知恵の使い方を知らない。それには使ってよい方向と、悪い方向があることを知らない。


      オコンネル通りを望む。郵便局前の喫茶店にて。ジェームス・ジョイスの銅像が見える。
                 (写真中の時刻は日本時間)