2012年12月26日水曜日

本当の・・・・

喫茶店などというものは、それこそ昭和の響きににも似た、いわば前世紀の遺物となりつつある代物である。そこでコーヒーを飲む。ネルの赤と黒の市松模様のシャツにジーンズをザクっと着こなした初老の店主らしき人が、勿体をつけてカウンターの客の前でコーヒーを入れる。この御仁の、他の客との会話を聞くともなしに聞いていると、「コーヒーを点てる」としきりに言う。点(た)てる、と言う言い方は抹茶を淹れる時以外使わないのもで、コヒーにはおかしい、と言うのが私の意見である。が、ここの店主は自分のやっていることの特別で高尚であることを、他人に訴えたいらしい。これだけなら私はこの店とその店主に思うことは何もなかったであろう。

ところがこの店主、時々「本物のコーヒーとは」と言う。これが偽学者ミッチー教授の逆鱗に触れた。聞き捨てならん。そこへなおらば成敗してくれるところである。本物のコーヒーだ?お前さん、お馬鹿タレ。本物の何々、とか本当の何々、などということはめったに使ってはならない言葉なんだぞ。なんであんたが「本物のコーヒー」を知っているんだ?見たのか?飲んだのか?いつ?どこで?誰が淹れた?で、それがなんで「本物のコーヒー」とわかった?

残念ながらこれに類することは巷に星の数ほど散らかりまくっている。そしてプラネタリウムの天井に投影された光を実物の星とでも思うように本物のコーヒーが実在すると思っている。本当の幸せ、本物の男、真実の愛云々。

世の中の人で、真剣に「本当の・・・」と言う人は多い。が、いくら真剣に言ってもそれはあやしいのである。真剣であることと、本当であることはまったく別物である。

私たちは神様が目前に現れたら、それが神様とわかるだろうか?答えは否である。あらかじめ神様を知っていないと目の前にそれが現れた時に神様と認識できないのではないだろうか?

これが人の真の生き様だ、などと指し示すことはできない。が、何も疑わずに流されて生きることは、私にはできない。

2012年12月24日月曜日

iPS細胞に寄せて

今年(2012年)の流行語大賞は「ワイルドだろ」だそうな。一年の三分の一以上日本を留守にしていたので、これの意味が皆目わからない。そもそも流行というものにはとんと興味はない。電気受像機は好きでよく見るが、俳優さんたちは最近競って襟巻きをしている。これが流行らしい。私も外に出る時はバンダナやスカーフをアスコットタイ代わりに首に巻く。これは実用からである。頭のバンダナや回教徒が被る帽子を着けるのも実用からが主で、決してハゲ隠しではない。(私は毛髪が薄くなって以来毎日頭を剃っている。おまけに言うことが理屈っぽくて抹香臭いので、前世は坊主だったに違いないと思う)とにかく毛が無いと冬は寒いし夏は暑い。容易に怪我をする。帽子やバンダナは私にとっては全くの実用である。

私とて枯れたわけではないので、おしゃれはする。するが、それは実用の延長線上にあらねばならぬ、と言うのが私の考えである。だから女性のおしゃれは大嫌いである。ある旅番組で、ご当地の名物料理を食べる景色があった。器やフォークを操るその指の爪が空色に塗られていた。私はその料理に同情した。爪は実生活に差し支えないように長さを整えるべきで、色を塗って料理をまずくするとは言語道断である。

女性はまつげをおもちゃにする。一所懸命にまつげを黒く塗り、あまつさえ他から持ってきて自分のそれに付け足したりする。

面白うてやがて悲しき付けまつげ。

滑稽を通り越して悲しくさえある。某国営放送の朝の番組の女性司会者がいい年をして付けまつげをしている。これだもの女子高校生が勉強を放ってところ構わず鏡とにらめっこするわけである。

私はどうせ女性に持てないのでもう一つ。ハイヒールというやつである。馬鹿も極まれり、というのがこれである。いっそのこと竹馬にでも乗ればいいではないかと思うのである。見かけ一番実用は二番。文明堂もびっくりである。危ないし、健康に悪いことは医者に聞かなくてもわかりそうなものだが・・・。女子高校生は丈の短いスカートをはく。彼女ら知ってか知らずか、目的はひとつ。男の視線をひきつけたいのである。で、見れば怒るし、見なければもっと短くするだろうし。自然なこととは言え、サカリがつく年頃というものは大変だなと思う。

私は装飾品というものが嫌いである。指輪は例外はあるが純粋に装飾品としてのものは嫌いである。耳飾りも嫌いである。その類を身に着けてチャラチャラ歩いている人を見ても敬遠することはあっても惹きつけられることはない。そもそも装飾品をつけたからといってその人が綺麗になるということはあり得ない。人が綺麗になるのはやはりその人の「生き方」や「想い」によるものであろう。

人が流行を追いたがったり、装飾品を付けたがる訳を私は知っているつもりである。前者は「群れ」に従属して安心安定を得たいからであり、後者は群れの中でより多くの異性を惹きつけたいからに違いあるまい。種の繁栄と言う観点から見れば大変重要なことではあるが、人間という特殊な動物としてはどうか・・・。

人は精子と卵子が合体して動物としての新たな生命が活動を始める。母のお腹の中で、ひとつだった細胞が倍々と数を増やし、無脊椎動物から魚類になり、魚類から両生類や爬虫類となり、やがて哺乳類から霊長類の進化の過程をたどって、最後に人間の赤ちゃんとしてこの世に生まれ出る。栄養や酸素が体中に行き渡り、循環がうまく作用して大過なく動物としての身体は成長する。しかし、果たして心はどうであろうか。人としての心を養うのは容易ではない。心とは目に見えないものであるが、これもいつどのようにかは私には知る由もないが、ある時物理的身体に宿り、原初のこころから始まって徐々に進歩を重ね、次第に人の心になってゆくに違いない。

良くも悪くも人にも生物多様性の原理は働き、様々な人ができてくる。ひとつの見方としての話しではあるが、人はその心や魂の発達段階で自らの成長を止めてしまう場合があるようだ。裏で何が起きているのかは知らない。十分人になりきる前に成長が止まると、その人は体は人間、でも心は動物として生きるよりほかなく、これは不幸なことこの上ない。体は人間とは言っても、人間に一番近いチンパンジーとでもDNA的にはほんのわずかな違いしか無い。これで心が人の領域に達していなければ、動物としての二大本能である種の保存と、自己保存の本能にしたがって行きてゆくしか無い。「サカリ」を理性で操縦できない女性たちはしきりにスカート丈を短くしたり、目にニセまつげをつけたりするのである。男性はしきりに力こぶを見せたがるわけである。

少し大げさな表現を使って書いたが、基本はほぼ正しいと思う。そこでどうするか・・・。

私の持論は人の心もまた山中教授のiPS細胞と同じことが言えるのではないかと、と言うことである。いま鼻毛を司る細胞だったとしても心筋や脳幹細胞に生まれ変われる可能性を秘めており、それを成すか成さぬかは状況次第である。老齢に達してさえも人は赤ん坊だった頃の心の可能性を持っている。今は少しだけその柔軟性を失っているだけなのだ。でも、それは間違いなく取り戻せる。

今晩はクリスマス・イブ。ディケンズのクリスマス・キャロルのエベネーザ・スクルージだって元から暖かい心を持っていたのである。近道をしても、遠回りをしても最終的には人としての心を発現させることが大切だと思う。

2012年12月18日火曜日

いかに生きるか その4

欝を発症したのは3年前の今頃であった。それが果たして医学上の「鬱病」だったのか、はたまた「欝状態」だったのかはわからない。「健康な状態」と「病的な状態」と「病気の状態」はそれぞれ違うはずだ。各状態の境界は必ずしもはっきりしない。私は病院で診察の結果、担当医に鬱症状が出ています、と言われた。

当時は欧州から日本に生活の基盤を移すことに期待と不安の両方があった。欧州にいれば安定した仕事と収入はほぼ保証されていたが、私にとっては彼の国は住み心地のいいところではなかったのである。かと言って当時の日本が私にとってなお住みよいかどうかはわからなかった。苦節はあったものの10年近くも欧州で生活していたのである。

人の持つ尺度というものは絶えず揺らぐ。揺らがない人に進歩はない。苦労して獲得した尺度であっても人はそれを常に疑わなければならない。疑った結果、それが大丈夫と思っても機会を得て再度疑う。これの繰り返しが大事だと思う。信じていることのすべてが正しいなどと言う人はいないわけで、進歩向上の道を無限に歩むことを期するのであれば、確信できそうなことならなお疑う。疑って、さらに疑って、それでも疑う。そして取り敢えずはその尺度を「仮合格」とする。滑稽なことにこの合否の判定尺度が結構いい加減である。尺度を判定する尺度などあるのだろうか・・・。

例えばいま流行りの原発問題である。賛成にしろ反対にしろこれに関する情報や知識をマスコミ等から得て判断し、その是非を断言する。多くの人は、自分がどのような問題を、どのような尺度で測っているかを知らないと思う。自分の中の正誤是非が決まれば自説に有利な知識情報、そして自説強化のための理屈を並べる。そしてこれに気づく気配はない。傲慢な言い方ではあるが、私はこのような人々を羨ましくも思い、また気の毒にも思うのである。

さて、外地で生活すればその時の自分に都合の良い尺度は身に付ける。それが10年という歳月の間に積もり積もった。それがすべて普遍的且つ公正なな基準であればいいのだが、欧州(と言ってもアイルランドであるが)の尺度がそうである保証などあるわけはない。が、私は帰国後かなりのものを欧州の尺度で計っていた。日本の社会は欧米の尺度をすべて良しとし、あこがれ、盲従する。しかしながら、本能的にこれに反発する風もある。私はこれを知っていたので、用心深く「知っている筈の日本」を再観察し、軟着陸を試みたつもりであった。

が、コケた。欧米は「個」を主張し、これを重んじる。そして「理」の世界である。日本は「他」を尊重し、「情」を重んじる。どちらが正しいかという問いは「リンゴとブドウのどちらが美味しいか?」と言う問いに等しい。正誤で答えられる問題ではない。永く日本を留守にすると祖国恋しさのあまり、過剰美化に走る。それまで住んでいた国が決して住み心地のいいところではなかったから尚更である。

ある時、所用で一時帰国していた時のことである。新宿から湘南新宿線に乗った。私は一日東京で過ごし、疲れていた。座りたかったが、立席の出る混み具合でそれは望むべくもなかった。座っている、そして次の駅で降りそうな人の目星をつけてそれとなく前に立った。あろうことか池袋で私の前に座っていた人が立って降りたのである。自動的にこの席は私のものになる、と思った。不文律である。ところが私の横に立っていた中年のおばさんが自分の手提げをポンと空いた席に放り、そこを確保してしまったのである。私は文句を言うことも忘れ唖然とした。

他人の幸福な姿を見ると自身も幸福になるが、このように他人の醜さをあからさまに見せつけられると思わず自分の心も醜くなる。理性を失いそうになった。自分の利益がかかると尚更である。おばさんは醜い顔をしていた。これは(私の思い描いていた)日本人ではないと思った。この人にも両親がおり、そして子供もいるだろう。どんな育てられ方をし、どんな育て方をしているのだろうと思った。こんな人に限って子沢山で、ねずみ算式にこのおばさんの複写を日本中にばら撒かれたら日本の退歩に繋がるは必定と見たものである。

どんなところにもこんなおばさんはおり、またどんなところにも天使のような人はいるものである。この双方の比で国民性とかが決まるのだろう。(アイルランド人がいい加減というのは間違いないが、すべてそうだというわけでもないように)ただ、私の場合、帰国してこのようなことに連続して遭遇してしまった。日本とは何という窮屈で醜い世界だろうと思った。一回や二回なら神経質な私でもそれほどは気にしなかったであろう。しかし、度重なったのである。そしていつの間にか欧州移住の頃にはあったはずの精神的な柔軟性を失っていた。いま思うに、これが「鬱症状」発症の引き金になったと思う。

私は「欝」を発し、これをきっかけとして様々なことを思い、感じ、考え、人や人生というものの考えを新たにした。抽象的な言い方ではあるが、人として少しだけ大きくなれたと思う。相変わらずの明日をも知れない貧乏暮らしではあっても、金に不自由しなかった頃よりいくらかはマシな人間になったと思うのだ。