2012年12月18日火曜日

いかに生きるか その4

欝を発症したのは3年前の今頃であった。それが果たして医学上の「鬱病」だったのか、はたまた「欝状態」だったのかはわからない。「健康な状態」と「病的な状態」と「病気の状態」はそれぞれ違うはずだ。各状態の境界は必ずしもはっきりしない。私は病院で診察の結果、担当医に鬱症状が出ています、と言われた。

当時は欧州から日本に生活の基盤を移すことに期待と不安の両方があった。欧州にいれば安定した仕事と収入はほぼ保証されていたが、私にとっては彼の国は住み心地のいいところではなかったのである。かと言って当時の日本が私にとってなお住みよいかどうかはわからなかった。苦節はあったものの10年近くも欧州で生活していたのである。

人の持つ尺度というものは絶えず揺らぐ。揺らがない人に進歩はない。苦労して獲得した尺度であっても人はそれを常に疑わなければならない。疑った結果、それが大丈夫と思っても機会を得て再度疑う。これの繰り返しが大事だと思う。信じていることのすべてが正しいなどと言う人はいないわけで、進歩向上の道を無限に歩むことを期するのであれば、確信できそうなことならなお疑う。疑って、さらに疑って、それでも疑う。そして取り敢えずはその尺度を「仮合格」とする。滑稽なことにこの合否の判定尺度が結構いい加減である。尺度を判定する尺度などあるのだろうか・・・。

例えばいま流行りの原発問題である。賛成にしろ反対にしろこれに関する情報や知識をマスコミ等から得て判断し、その是非を断言する。多くの人は、自分がどのような問題を、どのような尺度で測っているかを知らないと思う。自分の中の正誤是非が決まれば自説に有利な知識情報、そして自説強化のための理屈を並べる。そしてこれに気づく気配はない。傲慢な言い方ではあるが、私はこのような人々を羨ましくも思い、また気の毒にも思うのである。

さて、外地で生活すればその時の自分に都合の良い尺度は身に付ける。それが10年という歳月の間に積もり積もった。それがすべて普遍的且つ公正なな基準であればいいのだが、欧州(と言ってもアイルランドであるが)の尺度がそうである保証などあるわけはない。が、私は帰国後かなりのものを欧州の尺度で計っていた。日本の社会は欧米の尺度をすべて良しとし、あこがれ、盲従する。しかしながら、本能的にこれに反発する風もある。私はこれを知っていたので、用心深く「知っている筈の日本」を再観察し、軟着陸を試みたつもりであった。

が、コケた。欧米は「個」を主張し、これを重んじる。そして「理」の世界である。日本は「他」を尊重し、「情」を重んじる。どちらが正しいかという問いは「リンゴとブドウのどちらが美味しいか?」と言う問いに等しい。正誤で答えられる問題ではない。永く日本を留守にすると祖国恋しさのあまり、過剰美化に走る。それまで住んでいた国が決して住み心地のいいところではなかったから尚更である。

ある時、所用で一時帰国していた時のことである。新宿から湘南新宿線に乗った。私は一日東京で過ごし、疲れていた。座りたかったが、立席の出る混み具合でそれは望むべくもなかった。座っている、そして次の駅で降りそうな人の目星をつけてそれとなく前に立った。あろうことか池袋で私の前に座っていた人が立って降りたのである。自動的にこの席は私のものになる、と思った。不文律である。ところが私の横に立っていた中年のおばさんが自分の手提げをポンと空いた席に放り、そこを確保してしまったのである。私は文句を言うことも忘れ唖然とした。

他人の幸福な姿を見ると自身も幸福になるが、このように他人の醜さをあからさまに見せつけられると思わず自分の心も醜くなる。理性を失いそうになった。自分の利益がかかると尚更である。おばさんは醜い顔をしていた。これは(私の思い描いていた)日本人ではないと思った。この人にも両親がおり、そして子供もいるだろう。どんな育てられ方をし、どんな育て方をしているのだろうと思った。こんな人に限って子沢山で、ねずみ算式にこのおばさんの複写を日本中にばら撒かれたら日本の退歩に繋がるは必定と見たものである。

どんなところにもこんなおばさんはおり、またどんなところにも天使のような人はいるものである。この双方の比で国民性とかが決まるのだろう。(アイルランド人がいい加減というのは間違いないが、すべてそうだというわけでもないように)ただ、私の場合、帰国してこのようなことに連続して遭遇してしまった。日本とは何という窮屈で醜い世界だろうと思った。一回や二回なら神経質な私でもそれほどは気にしなかったであろう。しかし、度重なったのである。そしていつの間にか欧州移住の頃にはあったはずの精神的な柔軟性を失っていた。いま思うに、これが「鬱症状」発症の引き金になったと思う。

私は「欝」を発し、これをきっかけとして様々なことを思い、感じ、考え、人や人生というものの考えを新たにした。抽象的な言い方ではあるが、人として少しだけ大きくなれたと思う。相変わらずの明日をも知れない貧乏暮らしではあっても、金に不自由しなかった頃よりいくらかはマシな人間になったと思うのだ。

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