2014年5月2日金曜日

改名について

記憶が定かではないのだが、漱石を読み始めたのは確か小学6年生くらいの時だった。「猫」であった。爾来わけもわからずに坊ちゃん、草枕、三四郎、それから、こころ、虞美人草、その他大半を読んだつもりだ。多くは忘れた。

「彼岸過迄」に始まる漱石文学独特の主人公の身分、高等遊民にあこがれた。高学歴で、親譲りの財産があり、物事に敏感な性格である。仕事に就かず、毎日をぶらぶらと過ごす。

本人から直接聞いたわけではないが、アルバート・アインシュタインは

Life isn`t worth living,unless it is lived for someone else.
(他人のために生きてこそ、人生は価値がある)

と言っている。いい学校を出ても、お金が沢山あっても、人のために生きているのでなければ、高等遊民は未熟者であろう。が、未熟者でも私はこれに憧れがある。人一倍明晰な頭脳をもち、お金に不自由しない生活をしてみたい。いくら憧れても実現はしない。私の頭脳は明晰とは遠くかけ離れ、預金通帳の残高は限りなくゼロに近く、株券はいつも私が買った直後から低空飛行を開始し、いつ墜落炎上してもおかしくない状態となる。

人生とは面白いもので、念ずればそれが神様の意とそれほど違わなければ願は叶う。いつも10割とは言わないが、3つ努力すれば3つ叶い、10努力すれば10は叶うものである。叶わないのはそれは神様の意に反しているからである。

されば私も高等遊民となるべく努力を2つほどした。親は勤め人で生涯を終えたので、遺産などはない。これは私の努力では如何ともしがたいところである。頭脳は・・・基本的には決して悪くないと思う。が、幼少よりこれを養うの努力を怠った。結果、憧れの高等遊民はおろか中等にも届かず。今現在「下等遊民」である。そして思った。

「ああ、これ私のペンネームにちょうどいい。下等ではいくらなんでも露骨だ。そうだ加藤がいい」

と言うわけで、私は近々ペンネームを変えるつもりだ。

加藤遊民

(久しぶりに書いた記事がこれか、と思われる向きもおありかと思いますが、これが加藤遊民の実力です)