2013年3月11日月曜日

Ruler とは

Rule は英語です。日本語だと規則とか規範、または物差しなどがこれにあたります。私は英語を少し話しますが、Ruler をうまく日本語に訳すことができません。Rule を作るひと、と言う意味で、意訳すると統治者・・・でしょうか。

過去に私の記事を読まれた方はご承知でしょうが、私は自分の文章の中に外来語を入れるのを嫌い、極力これを排除するよう努めています。既に日本語化してしまった外来語にも皮肉と冗談のつもりで陳腐な日本語訳をつけます。例えばテレビ→電気紙芝居、または電気受像機などです。

話しは飛びますが、ほとんどの日本人は外国に憧れがあります。これが文章や会話の中に外国語、特に英語を入れる理由です。憧れを通り越して崇拝にさえなっている観があります。徳川幕府成立の折り、将軍は国策として国を鎖(とざ)し、欧米による亜細亜植民地化まで眠り続けて、思想や文化のガラパゴス化が進みました。これらの多くはまったく素晴らしいものでしたが、たったひとつだけ、他国に遅れを取ったものがありました。外交力がそれです。国を閉ざしていたのですから、近隣との交渉はなく、従って外交力などはまったく必要がなかったと思われます。わずかに長崎の出島で中国とオランダだけを相手に貿易をしており、この二カ国を通してしか世界を見ることができなかったわけです。日本にとってこれが後世にまで残る災いの元になりました。

アメリカのペリー提督による砲艦外交(武力恫喝による外交)によって日本は初めて自国が武力において他の欧米諸国に大きく遅れを取ったことを知ります。徳川の世が始まって以来外交ほど他国に遅れを取ったものは他になかったのです。これはある種の驚きです。(武力行使とは外交の一置形態です)医術はわずかに遅れていたと言えるかもしれません。しかし、独自に発達したにもかかわらず芸術は世界でも一級(欧州で印象派が日本の浮世絵に大きく影響を受けたことは有名です。かの天才ゴッホは浮世絵の模写をしていたくらいです)、衣も食も住も、数学も音楽もほとんどのものが一級だったのです。

英国に始まった産業革命が欧州内部にとどまらず、短期の間に日本まで来ていたら、日本は欧米を凌いでいた可能性さえあったでしょう。実際日本は産業革命でできてしまった欧米との大きな格差を驚くべき短期間に埋めてしまい、結果として当時世界最強と言われた露西亜のバルチック艦隊を日本海において撃破するに至ります。

いったい日本人の性格と思われる柔軟性や向上心はうまく制御出来ればこの民族は世界の指導者にさえなれるものがあると私は信じますが、この裏返しが軽薄さと自信のなさです。

私は平和を求める日本人の思想は世界一だと思っていますが、多くの人はいまだ欧米が上だと思っているフシがあります。車もスバルやトヨタよりBMWが優れていると思っている人が多いと思います。これはどの条件で比較するかによるのですが・・・。

日本人はそろそろ白人崇拝をやめる時だと私は考えます。すべて欧米のものを良しとする気持ちがあるために、多くの日本人は日本言語のなかに英語を混ぜるのだと思います。もうひとつは英語を使えば上等高尚に思われるだろうという思惑があるからでしょう。日本国民の召使である国会議員たちが日本人相手に話しをするのになぜ英語を混ぜるのか。バジェットだの、マニフェストと頻発するのは自分の馬鹿さ加減を知らない証拠です。なぜなら日本語にある言葉をわざわざ英語で話すのは英語文化を日本文化より優れていると思っているからです。(本来異なる文化間に優劣があるかは疑問ですが)

言葉を盗られるとは文化を盗られることです。文化を盗られるとは国を盗られることです。母国語の中に不用意に外国語を入れるのは国を盗られることです。なぜなら日本語の文法は私たち日本人が変えられますが、英語の文法は私たちは変えられないからです。

つい先日、オリンピックではレスリングという種目がなくなる、と言って日本では大騒ぎをしました。あれは日本がレスリングで強く、その結果欧米の妬みをかった結果です。過去同じようなことが多く起こっています。それは日本人がRuleを決める側に立てず、いつもRuleに従う側にいるからです。Ruleに従う側にいるということは、そのRuleに不承不承従うしかないということです。これがいやならRuler(Ruleを作る人)になるべきなのです。

スバルやトヨタのすべてがBMWに負けているわけがないのです。比較のRuleを作る側に立てばスバルやトヨタが優れていることになるのです。日本人の平和思想が欧米のそれに劣っているわけはないのです。これを世界標準にするためには日本人がRulerにならないといけないのです。

核拡散防止条約という聞くだに滑稽な条約があります。自分たちは核兵器を持っていて、それに対抗されるのが嫌だから他の国は核兵器を持つな、というのは最初から論理が破綻しています。こんな国が今の世界のRulerなのです。理屈では北朝鮮は正しいのです。アメリカは間違っています。でも、アメリカがRulerなのです。

まず大切なのは自分が自分のRuler になることです。

2013年3月7日木曜日

ホシ~ホシ~病

現在数万円から十万円で買えるものの間に欲しいものがたくさんある。

居間の寝椅子(ソファ)・・・・・・・ 電気紙芝居を見たり、本を読むには座り心地の良い寝椅子が必要
絨  毯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 床が板張りなので、保温と傷防止に必要
西洋濡れ縁(ベランダ)・・・・・・・居間の外にはやはりこれが欲しい。朝夕のお茶の時間に必要
原付回転式鎖鋸(チェーンソー)・・・薪を作るのに必要
 
                   
                                          
来季用薪 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・今回は渡欧の時期が早いので、自分で来季用の薪を準備する
                    暇がない
クリストファの絵  ・・・・・・・・・・・・知人の画家の作品がなかなかいい
芝刈り機 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・芝などあまりない。実は雑草刈りに使う
銅製ヤカン ・・・・・・・・・・・・・・・・今使っているヤカンはお湯を注ぐ時に口を伝って大量にお湯が漏
                   れる。どうせ買い換えるなら機能のいいものを買いたい
ケリーケトル ・・・・・・・・・・・・・・・松ぼっくりでもお湯が沸かせるヤカン。不要不急は明らか

その他、簡易デジタル無線機、多機能携帯電話、写真機、静かな冷蔵庫、大損掃除機、家庭用映画館、和風骨董家具などだ。

この中の実用品で、優先順位が高いものは原動機付き回転鎖鋸と来季用薪であろう。しかしながら、次の冬もここに住んでいるか定かではないのでまだ買わない。大きな可能性として欧州再移住があるからだ。これがために今これらを買うわけにはいかない。実は先に上げたホシ~ホシ~一覧表には佐久御用邸にいようが、欧州にいようが役立つものが一点だけある。写真機である。今使っているものは数年前に一時帰国した折に買ったもので、性能的に陳腐化し始めており、新しいのがホシ~のだ。問題は「絶対ないと困るもの」ではないことだ。今のものでも画素数的には十分だし、荒いが動画も撮れる。

子供の頃、出不精の父が珍しく旭川だかの百貨店に連れて行ってくれた。私はおもちゃ売り場でゴムの蛇をねだってこれを拒否され、床に仰向けになって手足をバタつかせた。これが私の記憶に残るホシ~ホシ~病の最初の発作であり、父からもらった最初の拳骨であった。今私が当時の父の立場だったら同じ事をしたかもしれない。ちなみに私は生涯二回だけ父に殴られたが、二回目は小学校3年生くらいの時だった。もしかしたらこちらのほうが最初の発作だったかもしれない。母に何かをねだって叶えられず、手を上げた。たまたま父に見つかり柄杓(ひしゃく)でひどく殴られた。母は私に覆いかぶさるようにしてかばってくれたが、父の狙いは正確に私の頭を捉えた。アルマイトでできた柄杓は盃いっぱいの水も汲めないくらいにひしゃげた。私といえばコブが出来たくらいで、この時ほど自分の石頭をありがたく思ったことはない。

とにかくホシ~ホシ~と思ったらもういけない。寝ても覚めても、明けても暮れても欲しいのだ。悪いことに私は口がたつ。つまり、欲しい気持ちに理屈をつけてこれを正当化する。まるで尖閣を欲しがっている中国政府のようだ。

子供の頃は将来学者になろうと思っていた。中学校で成績は良かったので、特に勉強などしなくても有名進学校には入れたが、通学に便利な公立の高校に入った。ここで病気が再発した。単車(オートバイ)が欲しくて両親にねだった。友達の一部は既に免許をとって乗り回しており、私はこれが心底羨ましかった。私は次男で、子供の頃からスキーとか着るものは兄からのお下がりが多く、非常に不満におもっており、これを両親にぶつけた。彼らは一顧だにせず私の願いを拒否した。私は勉強拒否の労働争議(ストライキ)に突入した。その効果はみるみる上がり、私の成績はみるみる下がった(^^;)。やがて授業にさえついて行けなくなった。その結果大学は中央の一流は望むべくもなく、入れる所に入るほか無くなった。

いま思えば、あの時あの病気さえ出なかったら、と思うのである。どれだけ自らを貶め、どれだけ親を悲しませたことか。爾来病気が治ったとも思えず、時折起こる醜い物欲の発作に苦しみながら今日に至っている。未熟者め・・・。


2013年3月5日火曜日

野鳥食堂 沈黙の春

ここ数日野鳥食堂にお客の姿が見えなかった。かつて無いことであった。前夜薪をとるために居間のガラス戸を開けると雪が降っていた。この地域は浅間山系、八ヶ岳山系、平野部に分かれており、天気予報の「佐久地域」ではハズレも多い。雪の予報など全くなかった筈で、ふと軽井沢方面の状況が気になる。上信越道は浅間山の南麓をなぞるように走っており、冬期間だけ私はそこの除雪に関わっているからである。

今朝は見事に晴れわたり風もない。この状態が何を私たちにもたらすか・・・。木々の小さな枝先にまで雪が綺麗に積もり、早朝の灰色で構成される単一色彩(モノトーン)から朝焼けの橙色が混ざり始め、このあたりから世界は色を取り戻す。風があると木々の雪は飛ばされてこの風情はない。新雪の降った朝の散歩の楽しみは輝かしいばかりの景色だけではない。ここは里からそれほど遠く離れた場所ではないが、野生動物が随分いる。私が実際に目撃した動物は鳥類を除くと、ニホンジカ、ニホンカモシカ、キツネ、タヌキ、ノウサギ、リス、テン、ネズミなどで、足跡となると、これがわからない。クマはすぐにわかった。大きいのである。ウサギもシカもわかる。リスも大丈夫(と思う)。キツネやタヌキはわからない。

夜中に雪が降ると次の朝が待ち遠しい。人や車が通る前に散歩をして新雪に残った動物たちの足跡を見て歩くのだ。今朝は思いもかけないほどの「大猟」であった。合わせて5~6種類もの動物の足跡があったのだ。このうち私に見分けがついたものはリスとノウサギだけである。あとは皆目わからない。ひとつだけ妙なモノがあったが、これはネズミの種類、おそらくはヒメネズミと思うがあてずっぽうである。

このような時の散歩はまったく運動にならない。とにかくたくさんの足跡があるので、これらに見とれて、これはなんだろうとか、どっちの方角に行ったのだろう、あれ、ここで足跡が途絶えてる、子供の頃読んだシートン動物記には小動物は捕食者の追跡から逃れるために様々な術を使うとあったっけ・・・どうなったんだろう、どれ下手くそな写真でも撮るか、などとやるからである。

散歩から帰ると北側の斜面からキジの鳴き声が聞こえた。今季初である。鳥のことについてはまったく知識がないが、繁殖期が始まったのだろうか。

庭にはまだ雪がかなり残っているが、何日か好天に恵まれたせいで、ところどころに土が見え始めていたが・・・。昨秋庭木の手入れから出た小枝の山が雪の中からその姿を現した。ああ、そうだった。庭で焚火を楽しむつもりでわざととっておいたのだったが、雪が来てしまい、そのままになったのだった。

お客の来ない野鳥食堂は寂しい。ヤマガラ、ゴジュウカラ、シジュウカラ、コガラはその名の示す通り、みなスズメの親戚で、仲良く群れをつくって縄張りを順に巡って餌を漁っているらしい。その順番や時間が決まっているとも思えないが、以前は朝夕は必ず来ていた。来なくなった理由を頭で探ってみても皆目わからない。何故か、ふと思いついたのが「沈黙の春」である。英題は「Silent Spring」で著者は米国人Rachel Carson である。この本は今から約50年ほど前に農薬などの化学物質の自然界に与える影響を世に知らしめて有名になった。

春といえば日足が長くなり、日光そのものも冬の弱々しさを脱して力強くなり、植物の芽の薄い緑が霞のように野山を覆い、鳥達はその囀(さえず)りをいよいよ喧(かまびす)しくする季節である。植物の緑が茂っても、鳥達の囀りが聞こえない春とはどんなだろうと思う。わが野鳥食堂のお客たちも、とうとうこの地上もっとも狡猾で野蛮な動物の犠牲者と成り果てたかと、不安に思う。

が、杞憂であった。しばらくしてお客は来た。押し寄せたと言っても過言ではない。鳴き声も明瞭で力強い。ヤマガラは時々壊れたハモニカのような声を出すが、ほかのシジュウカラやコガラの声の美しさよ。私がそばにいるのもかまわずに食堂に次から次に入ってはひまわりの種を咥えて出てゆく。どうやら仲間内でも餌をとる序列があるらしく、時々追っかけたり追っかけられたりしている。

かくして沈黙の春は満員御礼の春となった。

※下手くそな写真はヒメネズミと思われる足跡。中央の黒いものは私のお腹、ではなく比較のための手袋である。

2013年3月2日土曜日

死を考える 3(春の憂鬱)

十年前の昨日、父が他界した。今日は早朝に家を出て両親の眠る埼玉の上尾に向かった。私はほとんど高速道路は使わない。近距離なら大した時間の節約にはならないし、長距離なら退屈だからである。料金もべらぼうに高い。一般道は道の駅もあって、これが結構楽しい。日本はコンビニなどもあり、どこに行っても清潔な手洗いがただで使えて安心便利なことこの上ない。

久しぶりの関東は暖かったが大風が吹いており、遠景が霞んでいた。黄砂とPM2.5などが来ているのだろう。日本もろくな隣国に恵まれず、かと言って引っ越すこともできない。因果なことである。すなわち日本にも問題がある。日本の常識(尺度)が隣国にも通じるという思い込みがあるからだ。私たちは動物界にも生きている。このことは弱肉強食の論理にも晒されていることを意味している。高邁な精神や志だけを糧に生きるわけにはいかない。力なき正義は無力である。これは国際常識であり、人類の宿命であり、課題なのであるが、日本はこの均衡が実に悪い。この大きな弱点を近隣の仁なき国家群は突く。

霊園の事務所では線香だけを買った。墓石の前に着くとやはり花が添えてあった。妹が昨日来ていたはずで、花はお隣のお墓のものとまったく同じものであった。

そこに我が父母がいるとは思っていないが、無言で墓石に対面し、挨拶をする。辺りには誰ひとりいない。枯れた芝生と墓に添えられた鮮やかな原色の花束の対比に違和感があった。父が生きていれば八十八の米寿であった。胃がんを得、病院に行った時は手遅れで、一応手術はしたものの、一年後に身罷(みまか)った。早く診てもらっていればと幾度思ったか知れぬ。

私の父は学業半ばで戦争に駆り出され、散々苦労したらしい。私の妹が生まれてすぐに肺結核を患い、当時の赴任先である北海道の山中を出て東京の日赤で手術を受けた。母はまったくの田舎育ちであり、ただ転勤する父について歩き、ついにはひとり北海道の山の中で子供3人を育てねばならなくなり、さぞ大変だったことだろう。彼女も6年前にこの世での用事を終えてあちらに帰って行った。

帰路は多少混んでいた。急がず程々の速度で巡航を続ける。ここは私のいる場所ではないと思う。早く長野に帰りたいと思う。両親の病気や死で、欧州からの一時帰国を余儀なくされたことが多々あって、随分実家に泊まったが、ダブリン空港に戻ったときは心からほっとしたものだった。おかしなものである。

片道三時間である。早く長野について熱いほうじ茶でも飲みたいと思った。春の始まった関東平野を北上しながら、ふと私は長野の家に着いたからといって本当にほっと出来るのだろうか、そんなことを思った。そこは私が心から満たされ、安心し、幸せを感じられる場所なのかと疑問に思った。

人の寿命は医者にも本人にも決められない。善行を積んだからといって長生きが出来るわけではない。食べ物や運動に気をつけたからといって長生きが出来るわけではない。そもそも長生きそれ自体に価値は無いだろう。やはり人生は「質」である。この「質」を問うのが私の今生の宿題らしい。
早く解いてあの世に帰りたい。(マダマダ無理ダロウナァ・・・)

2013年3月1日金曜日

野鳥食堂 追伸の追伸

コガラもなつき始めた。シジュウカラは一度だけヤマガラにつられて私の手にとまったことがあるが、以降はまったく警戒を緩めない。コガラはヤマガラよりひと回り小さい、白と灰色の体色に黒い頭で、名前通り小柄である。鳴き声も可愛い。ヤマガラを真似たのか、私の姿を室内に認めるとガラス戸の外で空中停止して餌の催促をする。

野鳥などまったく興味がなかったが、目を凝らして観察すると他にも沢山の種類の野鳥が来ている。寝起きのコガラだと思っていたらそれはヒガラだったりする。(コガラにそっくりだが頭頂部の羽毛が寝起きの子供の髪のように起っている。これがなんとも可愛い。是非野鳥図鑑で見て下さい)エナガやツリガラもいる。ネットで調べたのだ。なぜかみな「カラ一族」である。便利な世の中ではある。