2011年11月25日金曜日

おもしろいですか?

私はこのブログを文章練習のつもりで書いている。先輩諸氏のものとは違い、写真も少ない。その分、文章量は多い。内容は私の過去から現在に至るまでに経験したこと、それと日頃考えていることなどである。

人一倍安定志向の性格なのに、実際に歩んでいる人生はその反対で、日本人の平均的なそれからは少しだけ離れているらしい。不安ではあるが・・・仕方がない。

私は特定の宗教を持たない。しかしながら自身非常に宗教的な人間であると思っている。私の中には私自身の意志とは別の・・・言うなれば守護霊的な存在があると思っている。大脳生理学や精神医学、また心理学が発達して人がこれまで神秘としてきたものまで科学で解明される時代になった。それでも99のものが科学で解明されたからといって残るひとつも従来型の科学で解明されるとは私は思わない。

私を非安定生活へ導く存在は、私の為を思い、試練の道を歩ませんと必死なのだと思う。私という人間は誰もが望む安逸な生活によっては魂の進歩は望めないのであろう。私は思う。魂の進歩より安逸な生活がしたいと。その存在は言う。人によっては安逸な生活からでも魂の進歩を勝ち得る人がいる。でも、お前はだめだよ、と。

文章練習のためとは言え、人は自分が考えること、経験したこと以上のことは書けない。つまり、私が書く文章は私そのものなわけで、これを見ず知らずの人々にさらけ出すのは少々おもはゆい。しかし、せっかく人様と違った経験をしている、これをほおっておく手はないと思うのだ。

今このブログの読者を国別多い順に並べると、日本、アイルランド、UK、US、マレーシア、ドイツ、フランス、ロシア、ウクライナ、カナダ、オランダ、ベルギー、セルビア、ブラジル、その他。(南極に読者ができると自慢になるのだが・・・)である。私は自分のブログを人に薦めることはあまりしない。従って読者の多くはひできす、Snigel両氏のツイッターから来た人々である。他にも検索エンジンから直接来られる人もいるようだし、定期購読の方もぼちぼちおられるようだ。(まんざらのコバンザメブログでもないのだ。エッヘン)

私には個人用電子計算機を使いこなす技術も能力もない。従って前述両氏のように器用なデザイン変更の「キッタ、ハッタ、ナイタ、ホレタ」ができない。(これはグーグルの無料ブログだが、広告がないのは天才ひできすのおかげである)そして私はSnigel氏とは違って極端な遅筆である。これは文章を考える速度が遅いのと、ああだこうだと逡巡するからである。自分の文章流儀も決まっていないので、固かったり柔らかかったり、まちまちである。書き溜めも少しはあるが、書き直しや書き足しが多いので発酵を待っている。発表した後も手を加えることもある(この直前の「大人の火遊び」には写真まで追加した^^;)

文章中心のブログなんて時代に逆行しているような気がするのだが・・・。世界各国の皆さん、これっておもしろいですか?

2011年11月19日土曜日

暖炉のにおい 5

その頃、私はストックホルムにいた。そこには日本人の友人Aがおり、私はお金もないのに日本からしじゅうAのもとに遊びに来ていた。欧州型の生活に魅了され、次第に欧州移住計画を頭の隅に描き始めていた。

スゥエーデンに住むならスゥエーデン語が必要であるが、既に中年のまっただ中にいた私は、今更初歩からスゥエーデン語を始めるつもりはなかった。世界の共通言語は好むと好まざるとに拘わらず英語であった。生活に必要な程度の英語であれば日本の中学や高校で習う英語で十分である。もっとも、日本の学校で習う英語は勉強のための英語であり、試験のための英語だから実用にはやや難がある。しかし、これをしっかり勉強して基礎にすれば、あとは実践訓練だけで英語はモノになる。私の実感として日本人の話す英語は、非英語国民としては世界でも一級の正確さである。

ともあれ、欧州生活には英語である。私は英語を習得すべく、英国行きを決断した。

当時Aにはマレーシア系スゥエーデン人のKと言う友人がいた。Kは真面目な性格であり、勉強が好きで、長く大学に留まっていた(しまいには博士号までとった)。欧州で同じアジア人ということで親しみもあったのだろう、口さがないAも陰ではKの悪口を言いながらも彼と親交を保っていた。

Kは離婚したばかりであったが、すぐに次の彼女ができた。私とAは彼らと時々食事を共にしたりした。AとKはスェーデン語は流暢である。が、英国人の彼女はそうではなかった。私たちの共通言語は自然と英語になった。Kも子供時代はマレーシアにおいて英語で教育を受けており、英語は母国語といって良かった。Aはいいかげんではあったが、そこそこの英語を話した。スェーデン語が英語に近いため、彼らにとって英語は「ひとかけらの洋菓子」なのであった。

概して非英語圏の人々の話す英語はわかりやすい。差別的発言だが、英語圏でも教育程度の低い人の英語はわかりにくい。Kとその彼女は英語圏で高等教育を受けており、そのぶん彼らの英語は私にはわかりやすかった。

口の軽いAは私の計画を聞くやいなや、それをKに話した。Kは自然自分の彼女にそれを話した。彼女の名前はアン、「暖炉のにおい 3」に登場する。

アンの父親Sは英国人で、ダブリンにある名門大学(と言われている。真偽は知らない)トリニティカレッジで教鞭をとっていたという。当時既に退職しており、ダブリンの南西にある小さな村のはずれの農家を買い取り、子供たちと一緒にひっそりと暮らしていた。(2011年現在彼がいまだ存命か否か、私は知らない)

ある時、私はたまたまKとアンにあった。アンは、もし私が英語を勉強するならアイルランドがいい、英国に比べると物価が安く、自分の父と弟妹がダブリン近郊に住んでいるので(彼女の母親、つまりS教授の奥さんは既に他界していた)、いろいろ便宜を図ってくれるだろう、と提案してくれたのである。

私はアンから彼女のお父上であるS教授の電話番号と住所のメモをもらってアイルランドへの出発の途についた。

ダブリンで語学学校に入り、私のアイルランド生活が始まった。我が師Snigelがその日記(http://www.ikikou.com/new/)でアイルランドを「いい加減王国」と表現しているが、これは極めて控えめな表現である。この頃彼と知り合っていれば、私のアイルランド生活はもっと(良い意味で)安易になっていたであろう。彼は世情によく通じていたからである。おもしろいことに、後年彼と話しを合わせてみると、偶然にも彼も私と同様、この頃ダブリンに語学留学をしており、さらには若干時期はずれるものの、通った学校も同じなのであった。

※私は最初、トリニティカレッジに近い語学学校に入ったが、生徒をたんに金のなる木としか扱わない態度に嫌気がさして別の学校に移った。それが彼と同じ学校だった。ちなみに、ななつのあだ名を持つ男、ひできす(http://irishpot.net/blog/)はその頃は多分英国で怪しげな生活を送っていたはずである。彼のななつのあだ名とは、ひでかす(唯一Snigelのみが使うことを許された呼称)、ひで菌(唯一みっちーのみが・・・)、ひできんぐ(ひできすの自称、彼以外だれひとり使わない)、以下省略。

ともあれ、この短期留学が半ば近くなった頃、私は儀礼的にS教授に挨拶状を書いた。すると教授からすぐ返事が来た。曰く「ようこそアイルランドへ。私の代わりに次女をダブリンに使いに出すので会われたし」。

教授の長女アンは長身で端正な顔立ちの、ちょっと若い頃のいしだあゆみ似の落ち着いた美人である。その妹である。名門大学の教授の娘である。語学学校で南欧系のスットコドッコイ達に辟易していた私の心臓は早鐘のように鳴り出した(て、てーへんだぁ・・・)。

私たちはテンプルバーというダブリンの繁華街で待ち合わせをした。あれ?長く書きすぎた。では続きは次回ということで。

2011年11月16日水曜日

犬猫論争(さても人間の愛とは)

犬と猫は人の日常の生活の中で最も人気のある動物の双璧であろう。犬は猫よりも家畜としての歴史は古いであろうことは想像に難くない。なぜならば、犬は一緒に暮らす動物としては人にとって実用的だからである。

原始の昔、狼から別れ、人に寄り添って生きる道を選んだ動物が犬である。生物の進化を測る尺度を多様性に求めるならば、犬は人と暮らす道を選択して以来、人と肩を並べそうなほどに多様性を増した。人の手によって都合の良いように改良されたため、愛玩用から狩猟、介助、輸送(犬ぞり)、麻薬探知、ギャンブル(ドッグレース)、芸能(携帯電話の広告に出たり、映画に出たり・・・)、用心棒、果ては宇宙飛行士までやる(1950年台から60年台にソ連は数十回も犬をロケットに乗せた)。

猫も人によって改良されたに違いないが、犬ほどの実用性はない。せいぜいネズミを捕るくらいなものであった。この点で、猫が人に飼われるようになったのは人が農耕を始めて、収穫物を蔵に収めるようになってからに違いない。人の居住区のネズミ番がその役目であったろう。。(犬については人の狩猟の心強い相棒であったはずで、猫よりも古くから人と生活していたであろう)が、近年に至ってはその用もない。それでも猫の人気が衰えないのは猫も人の持つ本能の何かを刺激するからであり、また共に生活するペットとしては扱いやすいからだろう。手頃な大きさ、給餌の容易さ、穏やかな性質、トイレ処理の容易さなどがあげられるだろう。

いわゆるペットとしての人気は果たしてどちらが上なのかはわからない。ペットフード協会の統計によれば犬のほうに軍配が上がる。しかし、その差は大きなものではない。ペットとは愛玩用の動物であり、最近ではコンパニオンアニマルなどと呼ばれるようになってきたらしい。中には犬猫を生活のパートナー(相棒)として捉える人もいるだろう。

動物を実用目的以外で飼う理由はなんであろうか・・・。

ペットを飼うのは人類の持つ特性のひとつである。人間以外にペットを飼う動物はいない。私は人類の特徴をわかりやすく説明するときに、「愛の大きさ」を挙げる。唯一人類のみが同種はおろか他の生物まで愛する(私などは無生物にもかかわらず、ピカピカに光る金の塊をこよなく愛するのだが・・・)。人類がサルだった頃、ペットを飼っただろうか?答えは明白である。地球上のいかなる類人猿もペットは飼わない。人類は進化の後にペットを飼うようになったのだ。

何故人類は単なるサルから進化を遂げたか、ペットを飼ったから進化を遂げたのかはここでは問わない。人類は他者をも愛する。否、愛さずにはいられないのだと思う。社会構造が変革を遂げ、それにともなって人間関係も複雑化した。うっかり人を愛すればむしられる世の中になってしまった。しかし、人の心の中には大きな愛のエネルギーがある。これは放出せねばならぬものであるがゆえにペットに向けるのであろう。

ペットを人のように愛するのであれば、これをコンパニオンとかパートナーと呼ぶのもわかる気がする。しかし、犬猫はあくまで動物である。それなりの飼い方をしないと気の毒な気がする。飼う側がその動物の特性をよく理解してペットが人との生活に馴染めるような妥協点を正確に把握するべきである。

追記
私の畏友たるSnigelが犬猫の話題を彼の日記である「アイルランド真実紀行」に載せたので、私もこの記事を書いた。書いたが時期を逸した。何故か。彼が最近異常に早い速度で日記更新を続けているからである。http://www.ikikou.com/archives/1042 
(やいやい、人のことも考えて更新しろ。ひできすを見習いたまえ。年に3回しか更新しない。あれ、彼も更新してるわ・・・。http://irishpot.net/blog/2011/11/09/701ともあれひできすは何かいいことが重なった様子で最近「ヤニ下がっている」が・・・)