2012年12月26日水曜日

本当の・・・・

喫茶店などというものは、それこそ昭和の響きににも似た、いわば前世紀の遺物となりつつある代物である。そこでコーヒーを飲む。ネルの赤と黒の市松模様のシャツにジーンズをザクっと着こなした初老の店主らしき人が、勿体をつけてカウンターの客の前でコーヒーを入れる。この御仁の、他の客との会話を聞くともなしに聞いていると、「コーヒーを点てる」としきりに言う。点(た)てる、と言う言い方は抹茶を淹れる時以外使わないのもで、コヒーにはおかしい、と言うのが私の意見である。が、ここの店主は自分のやっていることの特別で高尚であることを、他人に訴えたいらしい。これだけなら私はこの店とその店主に思うことは何もなかったであろう。

ところがこの店主、時々「本物のコーヒーとは」と言う。これが偽学者ミッチー教授の逆鱗に触れた。聞き捨てならん。そこへなおらば成敗してくれるところである。本物のコーヒーだ?お前さん、お馬鹿タレ。本物の何々、とか本当の何々、などということはめったに使ってはならない言葉なんだぞ。なんであんたが「本物のコーヒー」を知っているんだ?見たのか?飲んだのか?いつ?どこで?誰が淹れた?で、それがなんで「本物のコーヒー」とわかった?

残念ながらこれに類することは巷に星の数ほど散らかりまくっている。そしてプラネタリウムの天井に投影された光を実物の星とでも思うように本物のコーヒーが実在すると思っている。本当の幸せ、本物の男、真実の愛云々。

世の中の人で、真剣に「本当の・・・」と言う人は多い。が、いくら真剣に言ってもそれはあやしいのである。真剣であることと、本当であることはまったく別物である。

私たちは神様が目前に現れたら、それが神様とわかるだろうか?答えは否である。あらかじめ神様を知っていないと目の前にそれが現れた時に神様と認識できないのではないだろうか?

これが人の真の生き様だ、などと指し示すことはできない。が、何も疑わずに流されて生きることは、私にはできない。

2012年12月24日月曜日

iPS細胞に寄せて

今年(2012年)の流行語大賞は「ワイルドだろ」だそうな。一年の三分の一以上日本を留守にしていたので、これの意味が皆目わからない。そもそも流行というものにはとんと興味はない。電気受像機は好きでよく見るが、俳優さんたちは最近競って襟巻きをしている。これが流行らしい。私も外に出る時はバンダナやスカーフをアスコットタイ代わりに首に巻く。これは実用からである。頭のバンダナや回教徒が被る帽子を着けるのも実用からが主で、決してハゲ隠しではない。(私は毛髪が薄くなって以来毎日頭を剃っている。おまけに言うことが理屈っぽくて抹香臭いので、前世は坊主だったに違いないと思う)とにかく毛が無いと冬は寒いし夏は暑い。容易に怪我をする。帽子やバンダナは私にとっては全くの実用である。

私とて枯れたわけではないので、おしゃれはする。するが、それは実用の延長線上にあらねばならぬ、と言うのが私の考えである。だから女性のおしゃれは大嫌いである。ある旅番組で、ご当地の名物料理を食べる景色があった。器やフォークを操るその指の爪が空色に塗られていた。私はその料理に同情した。爪は実生活に差し支えないように長さを整えるべきで、色を塗って料理をまずくするとは言語道断である。

女性はまつげをおもちゃにする。一所懸命にまつげを黒く塗り、あまつさえ他から持ってきて自分のそれに付け足したりする。

面白うてやがて悲しき付けまつげ。

滑稽を通り越して悲しくさえある。某国営放送の朝の番組の女性司会者がいい年をして付けまつげをしている。これだもの女子高校生が勉強を放ってところ構わず鏡とにらめっこするわけである。

私はどうせ女性に持てないのでもう一つ。ハイヒールというやつである。馬鹿も極まれり、というのがこれである。いっそのこと竹馬にでも乗ればいいではないかと思うのである。見かけ一番実用は二番。文明堂もびっくりである。危ないし、健康に悪いことは医者に聞かなくてもわかりそうなものだが・・・。女子高校生は丈の短いスカートをはく。彼女ら知ってか知らずか、目的はひとつ。男の視線をひきつけたいのである。で、見れば怒るし、見なければもっと短くするだろうし。自然なこととは言え、サカリがつく年頃というものは大変だなと思う。

私は装飾品というものが嫌いである。指輪は例外はあるが純粋に装飾品としてのものは嫌いである。耳飾りも嫌いである。その類を身に着けてチャラチャラ歩いている人を見ても敬遠することはあっても惹きつけられることはない。そもそも装飾品をつけたからといってその人が綺麗になるということはあり得ない。人が綺麗になるのはやはりその人の「生き方」や「想い」によるものであろう。

人が流行を追いたがったり、装飾品を付けたがる訳を私は知っているつもりである。前者は「群れ」に従属して安心安定を得たいからであり、後者は群れの中でより多くの異性を惹きつけたいからに違いあるまい。種の繁栄と言う観点から見れば大変重要なことではあるが、人間という特殊な動物としてはどうか・・・。

人は精子と卵子が合体して動物としての新たな生命が活動を始める。母のお腹の中で、ひとつだった細胞が倍々と数を増やし、無脊椎動物から魚類になり、魚類から両生類や爬虫類となり、やがて哺乳類から霊長類の進化の過程をたどって、最後に人間の赤ちゃんとしてこの世に生まれ出る。栄養や酸素が体中に行き渡り、循環がうまく作用して大過なく動物としての身体は成長する。しかし、果たして心はどうであろうか。人としての心を養うのは容易ではない。心とは目に見えないものであるが、これもいつどのようにかは私には知る由もないが、ある時物理的身体に宿り、原初のこころから始まって徐々に進歩を重ね、次第に人の心になってゆくに違いない。

良くも悪くも人にも生物多様性の原理は働き、様々な人ができてくる。ひとつの見方としての話しではあるが、人はその心や魂の発達段階で自らの成長を止めてしまう場合があるようだ。裏で何が起きているのかは知らない。十分人になりきる前に成長が止まると、その人は体は人間、でも心は動物として生きるよりほかなく、これは不幸なことこの上ない。体は人間とは言っても、人間に一番近いチンパンジーとでもDNA的にはほんのわずかな違いしか無い。これで心が人の領域に達していなければ、動物としての二大本能である種の保存と、自己保存の本能にしたがって行きてゆくしか無い。「サカリ」を理性で操縦できない女性たちはしきりにスカート丈を短くしたり、目にニセまつげをつけたりするのである。男性はしきりに力こぶを見せたがるわけである。

少し大げさな表現を使って書いたが、基本はほぼ正しいと思う。そこでどうするか・・・。

私の持論は人の心もまた山中教授のiPS細胞と同じことが言えるのではないかと、と言うことである。いま鼻毛を司る細胞だったとしても心筋や脳幹細胞に生まれ変われる可能性を秘めており、それを成すか成さぬかは状況次第である。老齢に達してさえも人は赤ん坊だった頃の心の可能性を持っている。今は少しだけその柔軟性を失っているだけなのだ。でも、それは間違いなく取り戻せる。

今晩はクリスマス・イブ。ディケンズのクリスマス・キャロルのエベネーザ・スクルージだって元から暖かい心を持っていたのである。近道をしても、遠回りをしても最終的には人としての心を発現させることが大切だと思う。

2012年12月18日火曜日

いかに生きるか その4

欝を発症したのは3年前の今頃であった。それが果たして医学上の「鬱病」だったのか、はたまた「欝状態」だったのかはわからない。「健康な状態」と「病的な状態」と「病気の状態」はそれぞれ違うはずだ。各状態の境界は必ずしもはっきりしない。私は病院で診察の結果、担当医に鬱症状が出ています、と言われた。

当時は欧州から日本に生活の基盤を移すことに期待と不安の両方があった。欧州にいれば安定した仕事と収入はほぼ保証されていたが、私にとっては彼の国は住み心地のいいところではなかったのである。かと言って当時の日本が私にとってなお住みよいかどうかはわからなかった。苦節はあったものの10年近くも欧州で生活していたのである。

人の持つ尺度というものは絶えず揺らぐ。揺らがない人に進歩はない。苦労して獲得した尺度であっても人はそれを常に疑わなければならない。疑った結果、それが大丈夫と思っても機会を得て再度疑う。これの繰り返しが大事だと思う。信じていることのすべてが正しいなどと言う人はいないわけで、進歩向上の道を無限に歩むことを期するのであれば、確信できそうなことならなお疑う。疑って、さらに疑って、それでも疑う。そして取り敢えずはその尺度を「仮合格」とする。滑稽なことにこの合否の判定尺度が結構いい加減である。尺度を判定する尺度などあるのだろうか・・・。

例えばいま流行りの原発問題である。賛成にしろ反対にしろこれに関する情報や知識をマスコミ等から得て判断し、その是非を断言する。多くの人は、自分がどのような問題を、どのような尺度で測っているかを知らないと思う。自分の中の正誤是非が決まれば自説に有利な知識情報、そして自説強化のための理屈を並べる。そしてこれに気づく気配はない。傲慢な言い方ではあるが、私はこのような人々を羨ましくも思い、また気の毒にも思うのである。

さて、外地で生活すればその時の自分に都合の良い尺度は身に付ける。それが10年という歳月の間に積もり積もった。それがすべて普遍的且つ公正なな基準であればいいのだが、欧州(と言ってもアイルランドであるが)の尺度がそうである保証などあるわけはない。が、私は帰国後かなりのものを欧州の尺度で計っていた。日本の社会は欧米の尺度をすべて良しとし、あこがれ、盲従する。しかしながら、本能的にこれに反発する風もある。私はこれを知っていたので、用心深く「知っている筈の日本」を再観察し、軟着陸を試みたつもりであった。

が、コケた。欧米は「個」を主張し、これを重んじる。そして「理」の世界である。日本は「他」を尊重し、「情」を重んじる。どちらが正しいかという問いは「リンゴとブドウのどちらが美味しいか?」と言う問いに等しい。正誤で答えられる問題ではない。永く日本を留守にすると祖国恋しさのあまり、過剰美化に走る。それまで住んでいた国が決して住み心地のいいところではなかったから尚更である。

ある時、所用で一時帰国していた時のことである。新宿から湘南新宿線に乗った。私は一日東京で過ごし、疲れていた。座りたかったが、立席の出る混み具合でそれは望むべくもなかった。座っている、そして次の駅で降りそうな人の目星をつけてそれとなく前に立った。あろうことか池袋で私の前に座っていた人が立って降りたのである。自動的にこの席は私のものになる、と思った。不文律である。ところが私の横に立っていた中年のおばさんが自分の手提げをポンと空いた席に放り、そこを確保してしまったのである。私は文句を言うことも忘れ唖然とした。

他人の幸福な姿を見ると自身も幸福になるが、このように他人の醜さをあからさまに見せつけられると思わず自分の心も醜くなる。理性を失いそうになった。自分の利益がかかると尚更である。おばさんは醜い顔をしていた。これは(私の思い描いていた)日本人ではないと思った。この人にも両親がおり、そして子供もいるだろう。どんな育てられ方をし、どんな育て方をしているのだろうと思った。こんな人に限って子沢山で、ねずみ算式にこのおばさんの複写を日本中にばら撒かれたら日本の退歩に繋がるは必定と見たものである。

どんなところにもこんなおばさんはおり、またどんなところにも天使のような人はいるものである。この双方の比で国民性とかが決まるのだろう。(アイルランド人がいい加減というのは間違いないが、すべてそうだというわけでもないように)ただ、私の場合、帰国してこのようなことに連続して遭遇してしまった。日本とは何という窮屈で醜い世界だろうと思った。一回や二回なら神経質な私でもそれほどは気にしなかったであろう。しかし、度重なったのである。そしていつの間にか欧州移住の頃にはあったはずの精神的な柔軟性を失っていた。いま思うに、これが「鬱症状」発症の引き金になったと思う。

私は「欝」を発し、これをきっかけとして様々なことを思い、感じ、考え、人や人生というものの考えを新たにした。抽象的な言い方ではあるが、人として少しだけ大きくなれたと思う。相変わらずの明日をも知れない貧乏暮らしではあっても、金に不自由しなかった頃よりいくらかはマシな人間になったと思うのだ。

2012年11月25日日曜日

野鳥食堂 追伸

昨日ヤマガラの餌付けを試みて意外に簡単に成功した。さて本日は考えようによってはすごいことが起きたので皆さんに報告申し上げる。

朝食前に野鳥食堂に餌を持っていった。東隣のSさんがしばらく留守で、いつもの餌がないせいか、お客たちは間もなく我が野鳥食堂にやってきた。家に入り、朝食を済ませて電気受像機(テレビ)を見ていたら居間の硝子戸の前で瞬間だがヤマガラが空中停止して去っていった。どうやら室内にいる私を外から認めたらしいのである。硝子戸を開けて手のひらにひまわりの種を乗せて差し出すとすぐにヤマガラがやってきて私の指先に留まり、ひまわりの種を咥えて方向転換、そして去っていった。

驚いたことに車庫で草むしりの段取りをしていたら、車庫の中まで入ってきて近くにとまり、私を見始めた。こうなるといよいよ可愛いさがつのる。急いでひまわりの種を手のひらに乗せて差し出す。向こうの警戒心はかなり薄らぎ、すぐに私の指先にとまるようになった。しまいには私が作業しているところまで来て羽音と囀(さえず)りで餌をねだるようになった。

庭の南側で草をむしっていたら、西隣のSさんご夫妻が散歩で通りかかり、立ち話をした。それによるとかのヤマガラは今朝からお隣にも行って餌を催促しているらしい。何のことはない、私を認識して餌をねだっているのではない。誰でもいい、人は餌をくれるものだ、との学習を彼らはしたのだ。見方によれば、彼らは人間をうまく躾けて餌を差し出すように教育したとも言えるではないか・・・。

※動画は野鳥食堂の常連ヤマガラくん。

 
 


2012年11月24日土曜日

野鳥食堂

気がつけば9月以来一度たりとも新しい記事を書いていない。欧州から帰国したのが10月5日。雑事に追われて、などと言うことはない。自分を追い込まないようにしていた。この間、恒例の庭の雑草抜きをした。西隣のSさんが私の留守に繁りゆく雑草を見かねて刈払い機で一度ならず綺麗にしてくれたらしい。それでも夏草の勢いはすざましいものであった。ただ刈るだけでは根が残り来春には早々に彼らの天国となるは必定である。これがまだ終わっていない。目のかたきにしているタケニグザはうっかり抜くと地下茎が残りやすいのでシャベルで掘り起こしながら抜いている。どうも昨冬ストーブの灰を撒いたところはこれが生えていない。だからタケニグサが密生して生えたところは徹底して木灰を撒いた。

他に車庫の補強をやった。昨年日本を留守にしている間車庫を増築した。母屋の屋根を延長した意匠計画(デザイン)で、勝手口から直接車庫に出られるようにしたのだが、如何せん依頼した業者が毛のない素人みたいな人たちで、いっちょ前は口先だけという有様だった。昨冬の雪には耐えたが、よく見るとわずかながら骨組みにたわみが出ている。本物の大工さんに頼む金は無い。しかたがないので自分で材木を買ってきて補強したのである。ついでに「ゲストハウス」を建てた。もちろん本物ではない。野鳥用の餌場としてこれを作り、元から生えていたリョウブの木々の間に挟んで固定したのだ。

ぼちぼち「お客」は来る。パンくず、刻んだ柿、挽いた玄米などを置いたが、いまいち入りが悪い。東隣のやはりSさんのお宅ではベランダに絶えずひまわりの種が置いてある。野鳥はこれに群がっている。私も奮発してひまわりの種を買って来、「ゲストハウス」に置いた。ものの1時間もしないうちに野鳥が来るようになった。おもなお客はヤマガラ、シジュウカラ、ゴジュウカラである。

野鳥などはまったくわからない。この辺ではキジが頻繁に出没する。アカゲラやコゲラはキツツキで、文字通り木を突っつく派手な音でそれと知れる。鳴き声だけではあるがトラツグミ〈鵺・・・ヌエ)、ウグイスも春先から来るがその姿を見たことはない。フクロウなどは声も姿も見た(冬の日常 2 http://michioscud.blogspot.jp/2012/01/blog-post_16.html参照)。その他諸々いるにはいるが私はこれに疎い。昨年アイルランド在住の友人「ひできす」が来て胸に黒いネクタイをしているのがシジュウカラで、白黒茶の三色柄がヤマガラだと教えてくれた。ゴジュウカラは電子頭脳情報網で調べた。

ヤマガラは人懐っこいらしい。私が「ゲストハウス」に近づいても平気で餌を漁っている。スコットランドでコマドリを手に載せたようにやってみようと思った。手のひらにひまわりの種を置き、動かさずに待つと程なくヤマガラが近くまで来て私を観察している。小首を傾げたり留まる枝を変えたりしながらそれでも私から視線を外さない。なおも手を動かさずにいると指先にとまってひまわりの種を持っていった。繰り返すごとに警戒心がなくなっていくのがわかる。スズメと同じくらいの大きさで、口ばしは黒く細い。目にまるで邪心がない。(もっとも、動物で邪心があるのはたった一種類しか思い浮かばないが・・・)

寒くなったので家に入り、来客用の寝室のカーテンを閉めようとしたら何と窓の外にヤマガラが来て一瞬の空中停止(ホバリング)を見せて去っていった。窓ガラスの内側にいる私の姿を認識したようで驚いた。窓を少し開けて手のひらにひまわりの種をおいて差し出したら間を置かずにヤマガラがやって来て私の指先にとまり、これを啄んだ。何と愛おしい命であることか。明日が待ち遠しい。

写真は車庫の端材でつくったゲストハウス「野鳥食堂」です。画面右側の木の枝の上にいるのがシジュウカラで、その下にいるのがヤマガラです。右下、木の向こうに「母屋」写ってます^^;



2012年9月20日木曜日

コマドリの恩返し

昨年の初秋のことである。庭の四阿(あずまや)で、小鳥にやるつもりでパンくずやりんごを噛み砕いたものを窓枠に置いた。期せずして一羽のコマドリがやって来、私からわずか1洋尺(1m)ほどのところでそれを啄(ついば)み始めた。雀と同じくらいの大きさだが、やや華奢に思える。喉から胸にかけてきれいな鉄さび色をしている。スコットランドでのことなので、日本のコマドリとは少し違うかも知れない。そもそも私は日本のコマドリを観察する機会に恵まれていないから、日欧の種の違いを語る資格などないのだが、そんなことはどうでもいい。違うのは体色だけではないらしい。

翌日、同じ時間にまた件の四阿を訪れ、試しに細かくしたパンくずを指先に乗せてコマドリを待った。どこかで私を見張ってでもいたかのように、程なくそれは現れた。じっと辛抱強く手を動かさずにいると、近づいて来て指先のパンくずを啄んだ。野鳥が人の手からエサをとるなど、私の人生経験ではかつて無かったことである。矛盾ではあるけれども、期待しながらも期待していなかった、と言えば解っていただけるだろうか?次に私はエサを広げた手のひらの真ん中に置き、それを待った。やはり程なくコマドリはやってきた。逡巡しているようではある。しきりに首をかしげ、私の顔とエサを交互に見ている。が、首を伸ばすだけではエサに届かないことを知り、チョンと手のひらに乗り、パンくずを啄んだ。

コマドリはすぐに飛んでいってしまったが、私は大げさに言えば夢を見ているような気持ちだった。私は自分を今まで何の取り柄もない、鈍感な人間だと思っていたが、動物と話すことが出来るようだ。ついに私は他の人が持っていない、自分だけの能力を見つけたと思った。

手のひらに残るコマドリの、細くて冷たい足の感触を思い出しながら、私は部屋に帰った。急いで電子頭脳網でコマドリを検索し、その結果に少なからずがっかりした。欧州コマドリは警戒心がうすい、とある。人懐っこいと言うのは感情移入した表現であり、警戒心がうすいと言うのは客観的な表現である。どっちにしても一羽のコマドリが私の手のひらに乗って来たのは事実であり、私がその小さな生命を愛おしく思ったのも事実である。

あれからほぼ一年経った一昨日(2012年9月16日)、私は約束があって住まいであるこの建物の玄関で人を待っていた。ここは第二次大戦中に英国軍の病院として建てられたもので、その後西洋旅館に改装され、さらに今の財団に買い取られた。玄関といっても二面が硝子で囲われており、広くて明るい。これがあとで起こる事件の原因だと思われるのだが。

( 横線で消した部分はあとで修正するかも知れません。英国軍の病院として使われていたことは事実のようですが、建物自体がそれよりかなり古いらしいのです。私は知人からの話をもとにこの建物のことを書いたのですが、ここをよく知る読者の方からもっと古いと指摘を受けました。どっちが正しいか、面倒だからこのままにするか・・・)

私は玄関の内側から外を眺めていた。ここ2~3週間ですっかり秋になった。朝晩の空気はめっきり冷たくなり、そして湿り気を帯びてきた。欧州の秋冬は日本のそれとは大きく異なり、寒くてもジメジメしがちである。あと10日もすれば私はこの地を離れ、アイルランドで1週間ほど過ごしたあと日本に帰る予定である。ここに来たのが5月の終わり、それからの過ぎ来し方に想いを馳せていた。

ゴン、と音がした。その前に私は、野鳥のつがいが玄関の外でしきりに飛び戯れているのを見ており、それが故に音の何であるかをすぐに察した。ここの玄関は中も白く塗られており、頗る明るい。古めかしい窓縁などがなければ人間でもうっかり硝子に頭をぶつけそうである。Aと言うドイツ人女性が何も知らずに玄関の硝子の扉を開けて出ていった。続いて私も外の様子を見るために彼女に続いて外に出た。私は何かを感じ、足元を見ると小さな鳥がうずくまっている。動く気配がない。私がそばにしゃがんでも相変わらずじっとしたままである。私はそっと小鳥に左手をかぶせ、右手で掬うように持ち上げて目の高さに持ってき、それを観察した。二、三回冷たい脚をもぞもぞさせたがおとなしくしている。小さな目は開いているものの真っ黒で、表情がないように見えた。私が感情移入してみるからあろうか、脳震盪で朦朧としているようなのだ。それがコマドリであることは足元を見た時にわかっていた。胸の周りがきれいな鉄さびいろで、頭や胴体が灰色がかった鶯色である。

気の毒にもすぐ近くに別のコマドリがいて、気が触れたように飛び回っている。先ほどまで幸せの絶頂にいた相方であろう。思いもよらない展開に玄関脇の植え込みの間を心配げに行き来している。
私は口を開ければ理屈を言うので、他からは理屈っぽい人間と思われているかもしれないが、どうしてもののあわれとか、情というものを人一倍ちゃんと理解するのである。心のなかで元気な相方には出来るだけのことはしてあげるからと言い、目を回して私の手の中にいる方には怖がらないでもいいよ、安心しておいでと、つぶやくのである。

玄関を入ってすぐ左側にある扉を開けると広々とした休憩室である。窓際の長椅子に米国人のJ が座って新聞を読んでいる。自分自身を「切れる人間」と思っており、周囲の評判の芳しくない人物である。誰にでも断定的にモノをいい、譲らない。無視して横切ろうとすると、こういう時に限ってどうした、聞いてくる。あまり関わりたくない人間のひとりであるが、こちらは両手が塞がっている。手を緩めればコマドリが暴れだすかもしれない。仕方なく事情を話して小さなダンボール箱、新聞(毛布代わり)、それとジャムの瓶にお湯を入れたものの準備を依頼する。新聞とジャムの瓶は要らないと言われ、さっそくこのあんぽんたんにモノを頼んだことを後悔する。いくらあんぽんたんでもコマドリの体温を保たなければならないことは察しがついたと見え、彼は暖房用放熱器のそばに箱を置いた。私はコマドリをその箱に入れ軽く蓋をした。あんぽんたんは蓋が簡単に開かないように上に重し代わりの小さな本を乗せた。

私は後のことをあんぽんたんに頼み、再び玄関へ行った。受付の方から数人の男女が来た。その中の小柄な女性が私に寄ってきて自分を覚えているかと聞く。私が以前務めていた部署に体験的に働きに来ていた英国人女性だった。顔は覚えているものの、名前までは思い出せない。ここには様々な人々が様々な国々からやって来て研修を受ける。毎週のように人が入れ替わる。降参して名前を尋ねると、エリザベスだと言う。確かに覚えがある。お互い抱擁なんぞをして旧交を温める。そしてたった今起きた事件の事を話すと彼女は顔色を変え、そのコマドリはどこにいるかと聞く。エリザベスは神通力を送って小鳥の回復を助けると言う。彼女を休憩室に連れてゆき、ダンボール箱を示す。コマドリを驚かせたくないので、箱に触れないで施術(?)をして欲しい旨を依頼する。

エリザベスはダンボール箱に向かって床に膝を付き、両手をかざした。時々手の位置を変える。そこには小さな人だかりができつつあった。周囲は半ば呆気に囚われたのと好奇心で静まり返っている。それは数分で終わった。人々は解散し、散っていった。エリザベスも出かけ、私は約束した迎えが来ず、さらに20分ほどを玄関で過ごした。

一度コマドリの様子を見ようと休憩室に入ってゆくと、米国人あんぽんたんは、それを少し前に外に放ったと言う。とても元気に空に舞っていったと言う。私は素直にこのあんぽんたんとエリザベスの協力に感謝し、そしてコマドリの元気になったことを喜んだ。

次の日の明け方のことである。眠りが浅くなった頃、微かに高貴な香水のような香りが私の鼻孔をくすぐり、今まで聞いたこともないようなきれいな鳥の声を聞いた。そして人の気配に寝返りをうって驚いた。私の隣にはいつの間にか絶世の美女が添い寝をしていた。寝ぼけた頭で思った。「これは昨日窮地を救ってあげたコマドリに違いない」と。わたしはニッコリと微笑んで「You didn`t have to...(そんなことしなくてもいいのに)」と言った。終わり

(最後の5行は筆者の妄想でした。断るまでもないか・・・)




2012年9月17日月曜日

いかに生きるか その3

人が他の動物より複雑なのは(と思われるのは)、その心に動物的側面と人間的側面を持つからである。心とは既に人間的側面なのかもしれないが、他の動物に心があるかどうかは簡単にはわからない。単に言葉の定義で決められるかもしれないし、それはあくまで人間中心のモノの見方だと言われればそれももっともである。

犬猫がまるで人の話や情を理解し、あたかも彼らにも心があるように見えることが多々ある。仮にそれを心と呼んだとしても一向に差支えはない。犬がクンクンと鼻を鳴らしているのを見て多くの人はそれは飼い主がいなくて寂しいからだと判断する。ただ別の見方もできることを忘れてはいけない。犬はクンクンと鼻を鳴らすことによって安全とエサが手に入ることを学習したかも知れないのだ。猫は野生を多少抑えることで人間から楽々エサをもらえることを何千年かけて学習したかも知れない。このように考えると犬猫には心などはないと言えるかもしれない。あったとしても人のそれと比べれば取るに足らない単純なものと言えそうである。人の心はそれだけ複雑で測りがたいものなのだろう。

一匹のサルを観察するとする。このサルは何をするだろうか。エサを食う。寝る。遊ぶ。他のサルと喧嘩をする。交尾をする。子育てをする。ざっとこんなものであろう。遊び以外は全部自己保存と子孫繁栄のための行為である。何のことはない、人と大差はないようだ。が、これらの行為に於いて人は限りなくサルに近い人と、限りなく神様(?)に近い人のいることに気づく。行為の制御においてである。

繰り返すがサルと人間の遺伝子の違いはわずかに数パーセントである。肉体的違いは殆ど無いに等しい。やはり人を人たらしめているものは、その心(精神、頭脳と言った物理的側面以外の部分)にあると言える。

自己保存と子孫繁栄を人生の目標として生きる人は、これは何も人間である必要はないわけで、サルでも良かったのだ。人の「生」の難しいところは動物の身体をまとい、これを養い且つ繁栄させるに必要な能力の制御にある。簡単に言えば「人は動物本能をコントロールして生きねばならない」ということである。今の世界の状況を鑑みるに、地球温暖化、地域紛争、核問題、食料問題などあげればきりがないが、これらは元々はすべて人の動物本能の無制御から来るものだと言えるのではないだろうか。動物本能の無制御とはすなわち「自己中心」状態である。一人ひとりの自己中心はわずかでも地上には2012年現在で既に70億人を突破している。一人が一日にたった一個の空き缶を路上や野山に捨てただけで、一日に70億缶がこの地球上にゴミとして放置されるわけである。

私は太った人が嫌いである。(病気で太っているのは仕方がない)太っている人は人のぶんまで食べるから太るのである。動物本能を制御できないのは人として上等とは言えない。地上に飢えで死ぬ人がいる限り、食べ過ぎてはいけない。特に宗教を語る人は、太ってはいけない。人のぶんまで食べたいなら宗教を語ってはいけない。かつて偉大な宗教者で「デブ」はいたためしがない(見てきたようなこと言う)。太っているということはそれだけでその人が「制御」ができていないことを示している。太っているその人は自己中心であることを体で表現しているのであり、綺麗事を言っても説得力はないであろう。

この「食欲制御」の例えは取るに足らないことに聞こえるかもしれないが、70億集まればこれがもとで戦争が起きる。世界の陸と言わず海と言わず単なる食料供給の場として開拓し、一見人には役に立たない動植物を駆逐して結果的には自らの首を絞めるのである。多くの人はこの今の行いが明日の自分の首を絞めることをわかっていながらたらふく食べるのである。

利己心とはそれが小さなものでも、70億集まれば世界を破滅に追いやることを忘れてはならない。電気のことも、車のことも、水のことも、すべて70億倍にして考えてもらいたい。他でも書いたが( 確定された予言 http://michioscud.blogspot.co.uk/2012/05/blog-post.html )、私たちはこの地球がガタガタになったからといって他の惑星に引っ越すわけにはいかない。ここでしか生きられない。


「いかに生きるか 」編がこれで終わったと思うあなたはみっちーという人間を理解していない^^;
これでは人間は半端なダメな存在としか言わずに終わってしまう。そんなわけはない。では、人間のすばらしさとは・・・・乞うご期待 !


2012年9月12日水曜日

君はだれですか?

君はだれですか?そして私は・・・・誰でしょう?

新聞を読む。近頃領土問題が紙面を賑わしている。どこそこは歴史的にも国際法上もまったく疑う余地なく我が国の領土である、ともっともな説が掲載されている。相手国の新聞にも自国の領土であることを、これこれが根拠だと主張していることだろう。そしてほとんどの場合、国民はおらが新聞記事を鵜呑みにするであろう。

滑稽なのはお隣のK国やC国である。言論の自由がないのはわかりきっているのに、人々は新聞記事を鵜呑みのしてそれをそのまま自説にしてデモに出かける。政府にとってこれほど御しやすい国民はないであろう。政府はデモを見て民意を汲んだように見せかけ、相手国に強気に出る。

我が日本は・・・これも怪しい。言論報道の自由があると国民が思っているから、逆に危ない。すべてのマスコミは「ひも付き」である。誰でも、どこの国のものでも金さえ出せばこの「ひも」になれる。前述2カ国は言論報道統制がアカラサマだからこれに乗せらる者はあんぽんたんだけであるが、日本のような国のマスコミは危ない。あんぽんたんより賢い人々をも騙す。深く、永く、確実に騙す。

朝刊を読んだK国のあんぽんたんが街に出てたまたま日本人と出会う。けしからんと日本人に文句を言うであろう。その日本人がたまたまあんぽんたん以上の人であってもこの文句を聞いて苦々しく思うだろう。彼(彼女)もまた朝日本の新聞を読んで、それを素直に自説として大切に脳みそに保存してあるからである。

K国の人間も、C国の人間も、そして日本人もみな自説が正しいからこれを主張するのではない。いまだ人は動物的本能をもち、それを制御出来ない。その行いや説の善悪でことを判断するのではなく、自分を守る、自分の家族を守る、この本能に従うのである。その延長で自国のマスコミを支持しこれを自説とする。マスコミ(つまり政府やマスコミに付いているヒモ)は人が未だ持つ動物本能をを巧みに利用して国民を操る。

領土問題も宗教も同じである。原発問題も同じである。多くは同じ構造なのだ。先に好き嫌いや善悪があり、これに後から理屈をつける。あるいは人には先に脳みそに入ってきたものを尺度にして次に来たものを測るという習性がある。例えば原発問題。たまたま新聞で原発問題の記事を読み、それが反対論だったとすれば、読者は白紙の脳みそに反原発のごもっともな説を刷り込まれる。翌日原発賛成派の人にあって話しをすると意見が別れる。自分の意見を強固にするためにその人は反原発関連の記事や本を集めて読み始めるだろう。あとは自己保存の本能が働く。つまりコトの善悪、真贋関係なく自説を守ろうとする。

収集した情報を自分の尺度で吟味し、取捨選択をするのならまだいいが、そのまま身に付けてしまうのは問題であろう。これはあんぽんたんのすることである。あんぽんたんは新聞を鵜読みにし、人の話しを鵜聞きにし、電気紙芝居を鵜見にする(しまいには鵜が怒るわ)。これで自分はどこにある、何者だ、と言う疑問が沸かないのはもう危ない。

君と言うひとは新聞記事の切り貼りですか?学校の教科書の寄せ集めですか?親の複写ですか?
2チャンネルですか?


無理してでも暇をつくって自身の今持っている尺度がどこから来ているかを調べるのは必要なことである。個人用電子頭脳(PC)はいつの間にかウイルスに汚染されている。同じことが人の頭にも心にも起きている。この記事の題名「君は誰ですか?」の疑問に答えられる人はそう多くはいない。

私?・・・あんぽんたんデス。デモ上等ナあんぽんたんデアリマス。自覚アリマスカラ ^^;

2012年8月26日日曜日

いかに生きるか その2

人としていかに生きるかであるが、これを語る前に「人とは何か」を語らずして前に進むことはできない。

「人とは身体的には二足歩行をよくし、体毛極めて少なし。精神においては好奇心旺盛で、高度な言語操作能力を有し、これが故にその思考甚だ複雑なり」とでも表現するのだろうか。

話しが多少逸れる。ある人が、生まれてからずっと青い部屋で暮らして外に出ることがなかったら、その人は自分が青い部屋に住んでいることを知ることが出来るだろうか。その人は、赤い部屋に移り住んだ時に初めて「ああ、自分は今までずっと青い部屋に住んでいた」ことに気がつくのではないだろうか。世の中にコシヒカリしか無かったら、コシヒカリの美味しさはわからなかっただろうということである。同じように、世の中に動物が人間しかいなかったら「人間のとは何か」との問いに対する答えはなかっただろうし、この問い自体の存在が怪しくなる。

人とは何かを語るには人に近い、しかし人とは違う動物と比較して初めてそれが可能となる。

※人とカメムシを比較して人の特徴を語るには少し無理がある。人間は臭いおならをする。でも、カメムシも臭いおならをする。→ ボツ。臭いおならをするのは人間だけではない。スカンクだってする。嘘か真かイタチもするらしい。したがって臭いおならをする動物が人間である、と言う論は成り立たない。やはり人を語るにはサル、しかも人に最も近いサル、すなわちチンパンジーやゴリラなどの霊長類との比較が一番人の特徴を際立たせる。

では、霊長類に無くて人にあるものはなんだろう。あるいは双方にあるが、その差が甚だしいものとはなんだろう。先のニ行、「人とは身体的には二足歩行をよくし、体毛極めて少なし。精神においては好奇心旺盛で、高度な言語操作能力を有し、これが故にその思考甚だ複雑なり」がそれである。実は生物学的には人と霊長類の遺伝子の差異は数パーセントと言われる。二足歩行などはカラスでもする。

やはり人を一番特徴づけるものは言語能力、好奇心、愛ではないだろうか。ボノボ(ピグミーチンパンジー)などは教えれば人間のかなり複雑な言葉をも修得するらしい。声帯が人とは異なるために言葉のやり取りはキーボードを使うとのことであるが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%8E%E3%83%9C
これと言えども牛馬よりは口達者かも知れないが、人と比べればその差は歴然としている。言語能力はやはり人の大きな特徴である。人は言語を習得して以来、他の動物との差が大きくなったのは自然である。人の単純狩猟生活から複雑な農耕社会を築き上げるに至るには言語による意志や情報の疎通伝達あるいは記録が必要であったことは容易に想像がつく。


好奇心。木から落ちてきたりんごならサルはさっさと食べてしまうに違いないが、人ははたと考えこんでしまう。サルにも好奇心はあるだろうが、人のそれとは雲泥の差である。人は腹を満たす、子孫を増やす、これ以外のことにも大いに興味をもつ存在なのである。ケプラー22bと言う星は半径は地球の約2.4倍で、生命にとって必要不可欠な液体の水が存在する可能性があるらしい。しかし、この星は地球から約600光年(光の速度で飛んでも600年かかる距離)の彼方にある。10年経っても1000年経っても何の役にもたたない話しである。ボノボと言えどもこんなことには興味を示さない(と思う)。

愛。こんな抽象概念が人の特徴とは・・・・。しかしながら現実に人の愛は他の動物を圧倒しているといっていいだろう。動物に愛があると仮定しても、その範囲は自分の家族より外にはでない。せいぜい自分の属する集団までである。それは自己保存と自分の属する種の保存の域を出ない。人は人を愛し、犬猫を飼い、草木を愛す。たとえその愛し方に問題があったとしても、何の見返りもなく他の生物、無生物を愛するのは動物界広しと言えども人のみである。これはボノボを引き合いに出すまでもない。

芸術。歌い、踊り、演じ、作り、書き、描き、吹きまくり、そして掻き鳴らす。これらも人を人たらしめる大きな特徴であろう。

ここまで人とは何かについて書いてきたが、人としての一番の基本になるのが「人とは人から生まれてきた」ことではないかということに気がついた。これだけで人としての条件は満たされなければならない。大きかろうが小さかろうが、黒かろうが白かろうが、健常者であろうが身障者であろうが、生まれたばかりであろうが死ぬ直前であろうがそのようなことは関係ない。

いかに生きるか その3に続く

2012年7月28日土曜日

いかに生きるか その1

ちょっと前に友人から大陸の方では(欧州大陸のことです)、夏らしい天気になったという便りがあった。それなのにここスコットランドでは冬ほどではないにしろ朝晩の暖房は欠かせない。外出もいつ寒くなるかわからないし、雨も頻繁に降るので長袖や雨具は必需品である。こんな気候でも赤や黄色、そして紫や白の花々が咲き乱れ、りんごの実は確実に大きくなってゆく。

友人から芝刈り機が壊れたので見て欲しいと頼まれ、片道40分ほどをかけてのんびりと歩いていった。広大な牧草地と森があり、その中に農家が点在する。道路脇には新しい家がポツポツと建っている。珍しく晴れて、お互いを引き立てるように青い空とそれを背景に白い雲がところどころに浮かんでいる。

門柱があってすぐその内側にマッチ箱ほどの家がある。きれいに建て替えられてはいるが、これはこの辺りの大地主の門番小屋だったものだろう。奥に続く道は木々がトンネルのように覆いかぶさり、さらにゆるく曲がっていて表から母屋は見渡せないようになっている。機会あってそのひとつに滞在したことがある。大地主の館であったであろう古い建物にはいくつ寝室があるかわからないほどで、屋根裏は物置になっており、日本の骨董屋が見たらそわそわと手もみをしそうな古い家具や道具類が埃をかぶったまま眠りについていた。食堂には堂々としたテーブルや椅子が置いてあり、庭を見渡せる窓には今でさえ高価であろう曲面硝子がはまっていて、よく見ると表面が歪んでいたりわずかな気泡があったりで相当古いものであることが想像されるのだった。外には使用人達が寝起きしていたと思われる粗末なレンガ造りの建物があり、これはそのまま納屋に続いていた。

道は続く。歩道は途中でなくなって、やむを得ず車道を歩くのだが、こちらでは集落をすぎると車はスピード無制限が普通であり、危ないことこの上なし。車同士がすれ違うときなど私がいるせいで右を走っている車は左の車が行き過ぎるのを待たねばならない。気の毒なので道から外れて草むらの中に立ち、車をやり過ごすと行儀がいい、大半はしっかり手を上げてありがとうの合図を送ってくれる。

この様にみんなちょっとだけ譲り合って生きれば世の中は過ごしやすくなりだろうに、と思う。現実は逆で、多くの人が少しでも自分の都合の良いように物事を持って行きたがる。その「少し」が人口分だけ重なって地球を住みづらくする。他の生き物にも迷惑をかける。結局は自分にそれがふりかかってくる。

「いかに生きるか」を学ぶことは学校で算数や国語を勉強することよりもっと大事なことなのに・・・。

「いかに生きるか」の前には省略されている言葉がある。すなわち生き物として、動物として、人間として、日本人として、男(女)として、大人として、みっちーとして「いかに生きるか」などである。これらひとつひとつを論じるのは大事なことなのだが、中でも「人間としていかに生きるべきか」は基本であり大層な問題のはずだ。ただ本能(欲)にしたがって生きるのであればそれは別にサルでも構わないはずだ。しかし、サルはサルらしく、人間は人間らしく生きるのがスジというもので、そのためには「人間とは」を明らかにしなければならない。

世の中には「欲」にしたがって生きる人が多い。私たちは「欲」無くしてはこの体を永らえることは叶わない。しかしながら、制御のない「欲」にしたがって生きるのであれば前述のとおりサルでも構わないはずである。サルは「欲」に従って生きても他の動植物に迷惑をかけることはない。人間は「欲」を制御しながらでなければ生きてはいけないのである。人間が関わって絶滅に追いやられた種は多い。人間はその無制御な「欲」によって自らをも絶滅の危機に追いやりつつある。



この記事は書きかけのまま放置されていたもので、まだ完成していませんが苦し紛れに発表いたしますです、ハイ。写真はスコットランドの田園風景

2012年7月5日木曜日

語りえぬもの、とは。(読まないほうがいいです。自信アリます ^^; )

ある偉い哲学者が、「語りえぬものについては沈黙をしなければならない」と言ったそうな。数千年にも及ぶ人類の哲学の積み重ねを、ある意味すべてぶっ壊してしまいそうな言葉なのである。

かつて私は、その哲学者が唯一残した著作を齧ろうと試みたが、伊賀のせんべいを上回る難物で、数行で放棄せざるを得なかった。その難(かた)さに対抗するには、私の頭はあまりにも軟弱で、まったく歯がたたなかった。なべて哲学たるもの実用的であらねばならぬ、というのが私の持論である。彼の残した思索のどこが実用的なのかは未だわからない。が、読書百遍意自ずから通ず、である。ちと面白い。

若かりし頃、つまり数年前のことだが(・・・・?)、宗教を研究した。わかったことは宗教は跳躍ができ、哲学はそれが出来ないということだ。宗教は「こういう神様がいるんだ」から始まる。何故かは問われない。適当に辻褄を合わせて、また跳躍をするのだ。跳躍とはすなわち言語の不完全さという隙を突き、わからない事柄を曖昧にすることである。哲学に於いては「曖昧」は哄笑の対象となる。だから跳躍がしづらい。思い切った展開はできにくいのである。英語に「ゆっくりでも確実に」と言う言い回しがある。哲学がこれであるとすれば、宗教は「不確実ではあるが早い」と言える。哲学は神様という像を彫刻する最良のノミなのだが、宗教に入っている人は何故かこれを使わない。

本当の神様とか、本当のなになになどと言う話になってくるとかなり怪しくなる。真理を知っている、と言う人が現れたら是非その人の話を聞いてみたい。もし神様が目の前に現れて、それを本物かどうかを判断するのに、予め本物の神様を知っていなければならない筈である。でも、「予め」にせよ、本物の神様をどうやって我々は知り得るのだろうか?

世の中には「本当の神様」でなくとも「本当のなになに」が極めて多い。「本物のカレーってのはなぁ」
、「真実の愛というものは」、「本当の教育とは」などとやるのである。

人類が言葉を使用するようになって久しい。しかし、未だそれを「操れている」のかどうかは甚だ疑わしい。あたかも核融合や核分裂の法則を発見し、操る技術を確立する前にその使用を開始したかのようで、危なっかしいことこの上ない。

人は言葉で物を考える、と思っている人が多いようだが、それは違う。考えた内容を誰かに伝えるために言葉に変換して相手に渡し、相手は受け取った言葉を経験に照らし合わせて考えに変換し、それを理解するのだろう。当然の結果として、発信する側と受信する側との間には齟齬(そご)が生じる。

言葉は他者との通信手段、あるいは情報思考の整理記録手段である。が、人は純粋にひとりで暮らすならば言葉はいらなかったかもしれない。この発明によって人類は他者の持っている情報を簡単に自分のものとすることができるようになった。同じ時間を使ってひとりであることを経験し、それを知識として蓄えた場合と、他人からも言語を介して情報を得て知識を蓄えた場合、前者と後者の違いは桁違いとなる。これによって人類は他の動物との差別化を加速させた。

私は言語哲学はおろか、ただの哲学のいろはさえ勉強したことがない。考え方やその内容はすべてでたらめかも知れない。それでも口と声帯があるので話す、のである。もしかしたら発信側と受信側の齟齬の前に、自分の中で脳みそと口の間に齟齬があるかも知れない。齟齬は小さければ「必要なもの」で、大きければ「問題の元」となる。車の舵輪(ステアリングホイール、ハンドルのこと)と同じなのだ。語りえないこととはもしかしたら言葉の齟齬(舵輪の遊び)が大きいいことを言うのだろうか。

言葉には文法という決まりごとがあり、これに則って話せば内容の如何に拘わらず文法的には正しいことになる。これに人は騙されるのではないだろうか。頭で考えてこれを言葉にして整理する、これが私たちが日常で無意識のうちにしていることである。危ないのは文法上正しく発せられた言葉を自動的に内容をも正しいとしてしまう態度である。

りんごと柿ではどちらが美味しいか?

この言葉に文法上の過ちはない。うっかりすると成り立ちそうに聞こえるこの文章は、実は成り立たない。わざと単純な例をあげたが、私たちの日常の言語生活には常にこの危険が隣にある。これが独り言のうちはまだいいが、相手のいる「対話」になるとコトはさらに面倒になる。使用する単語のひとつひとつの定義が人によって少しづつ異なるからである。

もしかして、従来の哲学者たちが前述の哲学者に否定されたのは、上記の理由によるものなのだろうか。「善」、「美」、「真」など諸々の事柄については、本当は語りえないものなのではないだろうか・・・。いや、違うと思う。私などに彼の哲学がわかるはずはない。そんな単純な話しではないだろう。しかし、一寸の虫にも五分の魂である。私が、かの言葉を私の理解力以上に理解するのは無理であるが、どう理解するかは私の自由であるはずだ。

考える事、語ることを恐れてはならない。しかし、私たちは言葉については極力慎重であらねばならない。それが独り言であろうと、対話であろうと同じ事である。人は自動的に自分に都合のいいようにものを考え、そしてこれを言葉に変える。これが危ない。

「語りえぬもの」と言われる事柄についても果敢にたち向かってゆくことは必要だと思う。語りえぬものであるかどうかを測る尺度も正しいかどうかはわからないのだから。

人生はかけがいのないものだろう。人はその肉体面より精神面において大きく他の動物と違う。
※人類と類人猿の遺伝子は98%同じだと言われる。(ついでながら天才とそうでない人の遺伝子的差は殆ど無いそうな)
人としてより良き生を送るために私たちは理性的であることが求められる。さもなくば私たちは「純粋に語りえないもの」についても語れるものと思って語っているかも知れない。語り得るものか、否かを判断するのは理性の働きである。騙すまいぞ、騙されまいぞ。

うーむ、さっぱりわからん。(これは後ほど書き直します。自分で読み返してみてもよくわからない。頭の中では出来上がっている体系が言葉にするとうまく出てこない。これも人間が言葉でものを考えているのではないことのひとつの証左である。なんだか今までで一番長い文章になってしまった)

2012年7月4日水曜日

多事多論

本来なら「多事争論」が正しいのだろうが、世の中には色々な人がいて色々なことを言う。殆どの場合は自分の都合の良い価値観を身に着けてそれに補強増強してものを言う。最初に間違った土台を据えてしまったらその上に建つものはどんなに立派に見えても危ない。しかし、一回建ててしまったら最後、それに目がいってしまって土台を見なおそうとはしない。まして土台から作り直そうとする人は稀である。

色々な論があってこれを戦わせるのはいいが、同じ土俵で戦っているのかどうかさえ気付かずにお互い口角泡を飛ばして頑張る。これではまるで日本の国会の討論である。

私たちには土俵を見直す勇気が必要だ。国家間の争い、宗教間の争い、文化間の争い、政治家同士の争い等々。先日オランダ人のEと東南アジアにおける日本の位置などについて話した。難しい話しをしたわけではない。世間ばなしだったのだが、太平洋戦争の事が尾を引いて日本は人気がないだろうと言われた。彼女はまだ二十代中頃で、背の高い金髪碧眼の美人である。性格もいい。

オランダはインドネシアを350年ほど「お世話していた」らしい。現地の人がお金に魂を奪われて不幸にならないように、現地の富はすべてオランダ人のものにしていたらしいのである。親切な事である。当時欧米ではこの親切が流行で、英国もスペインもフランスもアメリカも盛んにこの親切をアジア、アフリカ、南米各国に対して行なっていた。アジアでこの親切を受けなかった国はタイと日本だけだったらしい。

Eは東南アジアを旅行してきたことがあり、かつて彼女の国が親切にしてあげていた国を訪れたら、日本の評判が悪かったと言う。現地に記念碑などがあり、日本にひどい目にあったと書かれてあるらしい。現に日本の若い旅行者などもそれを認めているらしい。

日本の戦後教育は間違いなく戦勝国による洗脳教育であったはずで、これは極東軍事裁判を見ればこれから推察することは難しいことではない。これが三世代目に至って「日本は悪いことをした」ことが定着した。洗脳された人に聞いてみるがいい。洗脳教育を受けた人は「私は絶対に洗脳教育を受けていない」と言うであろう。

日本は悪いことをした。これは事実であろう。防衛のためとはいえ他国を侵略した。しかしながら他国を侵略したからといってこれまで謝った国があっただろうか?英国は史上もっとも多くの国を侵略した国である。フランス、スペイン、アメリカ、ドイツ、ポルトガル等々、散々搾取をした挙句、これを手放さざるを得なくなった。そして出てゆく時に、搾取した相手に謝った国が一国でもあっただろうか。日本の場合は搾取どころかほとんどが持ち出しであった。挙句欧米に手ひどく物理的かつ心理的な私刑を受けたのである。それに気が付かず、甘んじてこれを受けている。

アイルランドはジャガイモ飢饉で気骨のある人はほとんど海外に出てしまった。相対的に国内には・・・・。日本は太平洋戦争で気骨のある人間は全部とまでは言わないがほとんどが死んでしまった。結果が今の日本である。
Eもお国では政府の洗脳を受けたらしい。インドネシア統治時代オランダは善政を敷き、日本統治になってからは酷かったと教わったらしいのだ。太平洋戦争終了後もかなりの数の日本兵がインドネシアに残留してオランダとの独立戦争で戦い、彼らをアジアから追い出したのだから恨みは続いているのだろう。今大戦を機としてベトナム、シナ(china)、朝鮮、フィリピン、マレーシア、インドネシア、ビルマ、その他全部の国が独立を果たした。(チベットは再び遅れてきた覇権国家シナに侵略されたが)
※シナ・・・英語ではChina(チャイナ)、スエーデン語だとKina(キーナ、発音自信なし)など。日本も国際標準にすべし。東中国海とは言わんでしょ?インド中国半島とは言わないでしょ?東シナ海、インドシナ半島でしょうが。かつてあの国の属国であった国々ならいいでしょうが、日本はシナの属国であったことは一度もないです。だったらあの国を中国と呼ぶのはおかしいでしょ?だいたい今時自国を大ナントカ帝国等と言ってるのは英国(大英帝国と言ってる)と韓国(大韓民国と言ってる)と中国(世界の中心だと言っている)くらいなものです。
日本が失ったものはあまりにも大きかった。それでもこれを契機としてアジア各国が独立したのは日本のおかげである。でなければどこの国が自力で独立できたであろうか?

Eとは、結局自分たちはどこで時の為政者たちに洗脳を受けているかわからないね、ということで話しがついた。私も結局は本を読んだり、電子頭脳網での知識でものを言っているにすぎないわけで、これでは竹島は韓国の領土だと言っている人たちと変わりはないかもしれない。恐ろしいことである。

(なんでスットコランドでこんなこと書いてるんだろう・・・Snigel がダブリンで車を盗まれたというのに。禿げ増しの電話でもかけようか・・・いや叱られるからよそう)

2012年5月31日木曜日

警告

警告などというのは穏やかではありません。実は人目を引きたかっただけのことです。これは単なるお知らせです。こうやって私は人々の信用を失ってゆくのです。でも、電気紙芝居の広告はいつもこんなですよ。あなたにはビタミン何々が足りません。これが不足すると大変なことになりますよ。当社の△◎✖がお勧めです。今ならひと家族に限って980円です。こんなもんです。世の中を斜から眺めるとおかしくてヘソでメシを炊き、三回まわってニャンと言いそうになります。


さて、私がこのブログを書いているのには3つ理由があります。ひとつには文章練習、ふたつには自分の意見の不特定多数の人々に対する発信(これにはまったくと言っていいほど反応がないので読者の皆様が何を感じ、何を思っているかはわかりません。そのうち刺客が送られてくるかも知れません)、あとは自己満足のためです。

くだらない冗談を言ったり、わざと難しい表現を使ってみたり、様々に工夫をしているわけです。言いたいことがあってもうまく文章をまとめられない場合は発表していません。記事を部分的に書き直したり、追加もしています。どうか時々は古い記事を読みなおしてみてください。

私はブログの統計を見るのが好きです。読者の皆様が、どこでこれをお読みになっているか、どの記事がどのくらい読まれているかが大まかではありますが分かります。内容がなくても面白い記事が人気だったり、私の言いたいことを一所懸命に書いたものが不人気だったり、一喜一憂しております。

私自身は人様に自分の年を分けて差し上げたいくらいの年齢に達しておりますが、一方では精神的にまだ未熟で、従って文章の内容も表現も稚拙だと思います。さりながら意外に多くの固定読者の方々が出来つつあり、これには自身が驚いております。もうじきAKB48を追い越すことでしょう。(Snigel 師匠にはアクが強いだの、毒が強いとか、いつも褒められてばかりです。自慢の点も多いのですが、反省点も少しはあります)

世界中の様々な場所で活躍されている日本人の読者の皆様、ありがとうございます。この場で私からの「警告」と日頃のご来場(???)の御礼を申し上げます。

スコットランドの片田舎にて     ひま人2号 みっちー

2012年5月24日木曜日

みっちーの旅

23日早朝3時半に迎えの車が来た。さすがに辺りはまだ真っ暗で、その発動機音は近所をはばかるほどのものだった。それより少し前、家の戸締りを確認すべく外に出た時は、フクロウの声がしていた。鵺(ヌエ・・・トラツグミのことらしい)などは人から忌み嫌われるが、その声もよく聞かれ私は好きである。シカやキツネも夜に鳴く。耳をすませば楽しい佐久の夜なのである。

朝10時50分発の英国航空の飛行機に乗るのに3時半に家を出るのはいささか早すぎるというものだが、道中何が起こってもこれなら絶対に間に合う。ちなみに昨年は北欧航空で、出発時間は同じような時間帯であったが、家を出る時間はこれより一時間も遅かったと思う。運転手や予想される交通状況で変わるのだろう。地方在住の割には成田や羽田への便はいい。東京や成田に前泊すると余分な経費がかかる。

結局成田には7時40分頃着き、搭乗手続きには早すぎ、関係ない別の搭乗受付口(カウンター)でちょっくら旅行用鞄の重さを計ってもらう。なんとたったの15キロ。約半年の間とは言え、どうしても日本から持ってゆかなければならないモノなど実はそれほどない。一番重い荷物は膝置き型電子計算機だが、これは機内持ち込みにするし。他には本である。だいぶ前に古本屋で集めておいた漱石やらドフトエフスキーなどを手荷物に入れてあったが、預け入れ荷物が思いの外軽かったので、損をしたような気持ちになり、混雑する空港の片隅で、かなり重くなっていた手荷物から本を取り出し、預け入れ荷物に移した。ふと前方に目をやるとご同輩がいる。一所懸命に詰替をやっている。

トム・ハンクス主演、スピルバーグ監督の映画「 The Terminal 」のように空港では毎日人々の泣き笑いが起きている。私にはいつ、どこでだったかは忘れたが、目に焼き付いて離れない空港での画がある。若いいかにも田舎から出てきた感じの白人女性が、人々が行き交い、且つ列を作る空港の帳場のそばで泣きながら旅行かばんを閉じようとしている。その周辺は靴や衣類などの荷物が、そして包み紙からはみ出した食べかけのサンドイッチなどが散乱しており、それが様々に彼女の過ぎ来し方を想像させた。できるものなら大丈夫だよ、心配ないよ、いま我慢すればまたいいことがあるよと言ってあげたかった。

出来ればヒースロー乗り換えは避けたかったが、航空券の安さに負けた。ターミナル5に到着し、空港内を走る無人電車で他のターミナル行きバス乗り場に着く。ここからはバスで移動。迷路のような工事現場を走って12分、ようやくターミナル1に到着。いつか見た風景。それがいつだったかは思い出せない。乗り継ぎの飛行機を待っていると既視感(デジャブー)ではなく、中年の女性に空港に関する聞き取り調査を依頼された。間違いなく前回もここで同じものを受けた記憶がある。あれは本当にただの聞取り調査なのだろうかと疑う。国中に監視カメラがある国なのである。

ダブリン行きのゲートは82。ここまで来ればアイルランドと言う名の田舎の香りがしてくる。空港職員も乗客もそんな感じなのだ。飛行機に乗り込み、席に着くやうたた寝をはじめる。時差ボケで眠い。疲労感はないがただひたすら眠い。気がつけば眼下に陸地が見えている。荷物を受け取って出ると約束どおりSnigel(http://www.ikikou.com/ アイルランド真実紀行作者)閣下が迎えに来てくれている。半年ぶりの再会なので、取り立てて旧交を温める気もしないが、この御仁、極めて面倒見がよく、かつ情に厚い。いままで散々世話になってきたが、これからも世話になろうと固く心に誓う。(お返しは天国で^^;)

夕方7時近く彼らの家に着くと、部屋でひできす(http://irishpot.net/blog/アイルランドの「つぼ」作者)大明神が相変わらず電子計算機の画面を見つめている。近々社内で試験があるらしい。いい匂いがする。ここで私は自分が空腹であることに気がつく。時差ボケはトイレの頃合いや食欲などを著しく狂わせる。ひできす大魔神はラザニアを作ってくれていた。総入れ歯ひできすの相棒まっきーがいない。地方に行っているという。とは言うものの、私は彼女とは面識はないのだが。家の中の様子がある意味激変している。ひできすの部屋は一回きれいになってそれからまたもとに戻りつつある過程のようだ。居間がすっかり片付いている。台所と続いている食堂(とは言え畳3畳ほどの広さ)も片付いている。げに頼もしきは女性の力である。しかし、彼女がいつ発ったのかは聞きそびれたが、ここは天然自然にいつもの姿に戻りつつあるようだ。( 英語ではBack to normal とでもいうのだろうが・・・)

食事の後、私とひできすが世間話をしていると、Snigelが立って台所仕事を始めた。ここにいる間は片付けは私の仕事なのだが(料理が嫌いなので)Snigelオバサンは料理を始めた。なんとカレーである。聞けば彼らが仕事で留守をしている間の私のご飯だという。私は彼らと会って以来、人類皆ひできすやSnigelのようであれば世に災いはなくなるものをと思ってきたのである。

追記
その翌日ひできすはお受験でかなり神経質になっていたが、久しぶりに私が訪れたので気を使ってか、少しだけ話し相手になってくれた。(訪問のタイミング実に悪し)その間、Snigelと言えば何とプリンを焼いてくれた。プッチンプリンはそれはそれで美味しいが、プリンは元来焼き菓子である。Snigelおばさんのはまっきー女史に教わった本格的なpuddingであった。同時にチーズケーキも焼いた。これは彼には不満だったらしいが十分美味しかった。わ~い、5人でドイツに行って念願のお菓子屋さんをやろう。(いつから念願だったかはとんと記憶にないが・・・5人とは菓子職人Snigel、社長はClaudia(Snigelのパートナー)、丁稚(でっち)ひできす、売り子まっきー、レジ係りみっちー。最強絶妙の人事ではある)

2012年5月21日月曜日

金環日食ダーッ !

昨日よりスイスから友人のPと彼の相方Hさん(日本人)が来ていた。予め日食観測用のメガネを買っておいた。980円であった。が、これははっきり言わせてもらえば製造元か販売店かが暴利貪った結果だろう。

Hは東京では手に入らないし、ネットで買えば200円のものに1500円の送料がかかるので、私に3つ買っておいて欲しいとのことであったが、3つ買えば3000円近い金が消える。しかも天気はどうなるかわからない。もしかしたら曇天か雨で空振りに終わるかもしれない。吝嗇(りんしょく)な私は一つだけ買った。

今朝七時頃、南の硝子戸を開けて東の空を見上げると雲はあるものの太陽が出ており、テレビの中継を観ると高知でも名古屋でも既に欠け始めている。早速専用のメガネで覗くと、ここの太陽も確かに欠け始めている。理屈ではわかるものの、やはり感動するのである。

PとHの寝室の扉を静かに叩くと、眠そうなHの返答があった。裏庭に出て三人で代わる代わるメガネを使って日食を見る。Pは携帯の写真機でこれを捉えんとするが、うまく行かない。Hもメガネを写真機と合わせて試みるがうまく行かない。Hの写真機は結構性能のいいものである。結果から言うと私の普通のデジカメとメガネでとった写真が一番うまく撮れた。

彼らはこの後、戸隠に蕎麦を食べに行った。私といえば一緒に行きたいのはやまやまであったが、なにしろ明後日の渡欧の準備がある。しかし、いい一日であった。

※「 金環日食ダーッ !」と書いたのはPがアントニオ猪木の大ファンで、日本語が話せないもののしょっちゅう「ダーッ?」「ダーッ!」と会話を交わすからである。

2012年5月10日木曜日

桜と語る

少し寝坊をしたが外套を着て珈琲を片手に裏庭に出る。今朝5時45分頃の外気温は5度ほどであった。霧が出ている。夜中に雨が降ったようである。

地面は濡れており、芝の所々小さな蜘蛛の巣が無数の水滴に纏われてある。昨日抜いてそのまま放置した雑草の根がまだ新鮮で、隙あらば蘇らんとしているかのようだ(想話左遷^^)。

珈琲マグを薪割り台に置いてそのまま南側の道路に出る。時間こそ不正確だが、道順は哲学者カントの正確さと変わりない。東に向かうので、自然昇り始めた太陽との対面となる。まるでムンクの「叫び」のような光景である。もっともあちらは夕日だろうが・・・。

このような場所でも桜は結構ある。我が家の斜向かいのS宅には植えられた見事な枝垂れ桜がある。葉桜となり始めてはいるが、まだ十分に美しい。西隣のS宅では八重が植えられており、これは昨日今日咲き始めたところである。偶然にも東隣もSで始まるお宅であるが、我が領地との境にはサクランボの幼木があり、植えて5年目にようやく花が咲いたとご夫妻が喜んでおられた。(なぜか私もうれしくなったが・・・)

実は私の興味の対象は植えられた桜ではなく、実生(みしょう・・・自然に生えたもの)のそれである。木々の葉が生い茂っている間はわからないが、今の季節は桜であれば花が咲く。咲いて初めて、ああ、これは桜だったのか、とわかるものが多い。桜の樹皮のすべてがあの茶筒のような艶のある暗い茶色に白の斑点があればいいのだが、そうはいかない。樹形もまったく様々である。すっと伸びて途中から四方に枝分かれするものあり、地面からすぐに枝分かれしてお互い他人のようにしてはえているもの、細いもの、太いもの様々である。であれば咲く時期も多くは春には違いないが、今はとっくに葉を広げて花の影など既にないものも、いま丁度盛りを迎えたものもある。ここは高地で、海抜で言えば1000mほど。里の(と言っても海抜700mほどはある)桜がとうに散っているのに、ここではまだ盛りのものがある。

その桜はいつもの散歩の道順の折り返し地点に近いところにある。ある別荘の敷地の中にあるが、その大きさから見てあきらかに実生である。花の色は薄いが数と花びらの形がいい。霧に濡れて少し萎み加減だ。が、そんなことはどうでもいい。ふと思い浮かんだのがこの桜の生涯であった。当てずっぽうながら樹齢は五十年から七十年の間とみた。地上1メートルほどのところで二本に分かれ、それぞれは上でさらにたくさん枝分かれしている。しばし立ち止まって見ていた。人間の歴史で言えば大東亜戦争の前後に芽を出した。その頃、ここいらは訪れる人とてない、まったくの山の中であったと推測される。20年ほど前、つまり日本経済がバブルの絶頂期にあった頃ここの別荘地としての開発が始まり、道路が造られた筈だ。区画整理があったが、道路からはわずかに外れ、人間の魔手から逃れてこの桜は生き残った。

心のなかで、お前はエライと褒める。返答はない。見事であるぞと言うが返答はない。またな、と言って歩き出す。この桜の道路を挟んだ向かいに藪になっている土地がある。売りに出ていて荒れ放題である。その中に一本桜の中学生がいた。丈といえば3メートルくらいだろうか。実際はもう少し高いのだろうが、地上2メールあたりから幹が折れて道路側に倒れている。雑草に覆われ、蔓(つる)に絡まれてそれが桜だとわかるのは今の季節しかない。ポツポツと花が咲いている。幹を見ると、焦げ茶に小さな白の斑点があり、私にとっては典型的な桜の樹皮なのであった。

その桜の根元にはボケが派手な朱色の花を咲かせており、他にも様々な幼木や草が活気をみなぎらせつつあった。気がつけば折れていると思った先の幹にも蕾がいくつもついている。辛うじて導管は継っているのだろうか。いづれにしてもこのまま放置すれば時を待たずして迫りくる雑草に覆い尽くされてしまうに違いない。気の毒と思って、近々早朝散歩の際は鎌を持参し、せめてこの蔓を退治してくれようと思った。近くによってみるとその蔓はアケビであり、薄紫色の小さく可憐な花を咲かせていた。

さて、傷ついた桜の中学生を守るためにアケビを切るのはどんなものだろうと思った。こんなことに思案を巡らせるのは愚の骨頂と言われれば一言もないが、私は迷うのである。それは秋になればアケビが食えるかも知れない、と言ったものではない。桜もアケビも生きている。桜の花はきれいだからというわけにもいかない。よく見ればアケビの花も可憐できれいだ。どっちがきれいなどとは言えない。好き嫌いを言えば桜のほうが好きだ。しかし、それだけでは片付かない。

紅顔の美少年も時の流れとともに、わびさびを愛(め)で、世の無常を語る、そんなお年頃になってしまったらしい。

2012年5月4日金曜日

ボケ来(きた)る

夜が明けるのが随分と早くなった。最近は次の次の冬に備えての薪づくりに忙しい。加えて庭の雑草たちとの戦いもこちらが押され気味で、それでも今やっておかなければ今月の下旬にはまた渡欧の予定があり、帰りは10月の中頃である。怠ければ家があっという間に雑草に埋もれてしまう。昨年は帰ったのがやはり10月の中頃で、家についてタクシーを降りた途端に家の様相が一変しているのに愕然としたものである。

昨年だって家を出る前には頑張って芝を貼ったり、じゃがいも畑をつくったり、カボチャの苗をひとつだけ植えたり、雑草を引っこ抜いたりしていったのであるが、約半年に渡る留守中にじゃがいもも芝もカボチャも他の雑草と区別がつかなくなっていた。驚いたことに植えた覚えのないトマトやスイカまで生っていた。食べられる程のものではないにしろ、それらはまごうかたなきトマトとスイカでなのであった。
あれはまるで植物の精霊たちが私の留守をいいことに真夏の饗宴をしたかのような光景であった。

我が家では規則によって除草剤は使わない。草刈機も使わない(お金がない・・・これが本音^^; )。雑草はすべて手で引っこ抜くか、鋤簾(半円状の鍬のようなもの)で表面の土とともに削りとる。土地の面積が314坪少々(1000㎡と少し)あるので、大変な手間である。

タラなどは天ぷらが美味しいだの山菜の王様だのと言うが、私にとっては迷惑この上ない。トゲが幹全体に生えており、葉を広げた後はお世辞にも綺麗とはいえない。おまけに芽が出るとそれを狙ってドロボーが来る始末である(昨年の記事を御覧ください→
「ドロボーさん、ごめんなさい」http://michioscud.blogspot.jp/2011/05/blog-post_08.html)。
で、渡欧の前に彼らを根本から全部切ってしまった。ところがである。帰ったらあ~ら不思議、切る前より本数も、その丈も長く、逞しく復活していた。彼らにしたら切られたことによって「大変だ~、緊急事態だぁ、存亡の危機だぁ」というわけだったろうが。

タケニグサにも驚かされた。この雑草、つい数日前に電子頭脳情報網で調べたらアルカロイドを持つ毒草だそうな。いかにも品の悪い、オドロオドロしい葉と茎を持つ。これがしぶとい。地表に生えている部分なんぞいくらやっつけたところで、地下に伸ばした根っこを掘り起こして百たたき日干しの刑にしなければ根絶できるものではない。ここ数日は領内巡回の折にはシャベルを持参して歩く。ちょっとでも地表にでたらそこを深めに掘る。すると土に埋もれてわたしを謀(たばか)らんとしていた次の芽の数々が陽のもとに曝される。根は橙色で、土中の新芽はミョウガの親戚のような色形である(ちなみに私はミョウガも大嫌いである)。こんなものが人によっては観葉植物にしているという。私にとってはバケモノである。

時は春である。当地では桜も今が満開。斜向かいのS さん宅の枝垂れ桜は樹高は高くなく、それでいていい姿をしており、丹精の結果か見事な濃い桜色である。梅は盛りを過ぎたもののまだ頑張っている。例年に無く鶯が其処此処で爽やかな声を聴かせてくれる。ユキヤナギが白い小さな花をたくさんつけて、これもなかなか豪華だ。レンギョウももう少し色の濃いヤマブキも今が盛り。水仙は今週で終わりだろうが芝桜はまだまだこれから。

早朝散歩で気がついた。ボケが今を盛りにその濃い朱色を誇っている。茎の高さはせいぜい2~30洋尺(cm)。びっくりするほどきれいな花である。そして秋には果実がなる。小さな青りんごのような果実であるが、その薫りがいい。これが我が家では雑草なのである。退治しても後から後から生えてくる。根が丈夫でこれを土中にのばしてそこから新しい芽を出す。逞しいことよ。小心で根性なしの私はいつかこの根っこを煎じて飲んでみようかなと心ひそかに思うのである。

繁茂しても引っこ抜かない雑草がある。野性のスミレが二種類ほどある。領内いたるところにあるが、故意には抜かない。丈が高くなるわけでなし、葉もたんぽぽのように他の雑草を遠ざけんと張り広げる様子もないからだ。しゃがんで顔を近づけて観ると話しかけたくなるほど可憐で愛らしい。

そもそも雑草とは言っても他の植物と混在しているから見苦しいのであって、仮にどれか一種類をまとめて丹精すればそれは綺麗だと思う。たんぽぽだって鉢植えにして肥料をやればきっと見事だと思う。

昨秋庭の厄介者のひとつ、アケビを鉢に植えて共に冬を越そうと試みた。途中で彼は降りた。自ら葉を落としてしまったのだ。やはり野におけアケビ蔓。

そのアケビの鉢に柿を食うたびに種を埋めた。全部の芽が出て現在八本ある。もう霜が降りることもないだろうから地面に下ろしてあげようと思っている。この実食いたさにあと少なくとも八年は生きねばと思った。(本日のお題からしてもしや私に・・・が来た、と小躍りしたキミ、残念でした)

※写真はボケの花

2012年5月3日木曜日

確定された予言

地球の大きさはその誕生以来変わっていない。しかし、産業革命を機に人間の数は爆発的に増えた。この糊口をしのぐために陸上ではとてつもなく広い土地が必要になり、海では発動機を駆使して地の果て、深海の底までを魚をとるために網を打つこととなった。

人間がいなければ無かったはずの、無数の「不自然なもの」が大量に生み出され、廃棄され、やがてその質と量が地球の浄化作用の限度を越えた。

地上のあらゆる生き物の母なる地球が人類が垂れ流す毒に蝕まれてて重篤な病になった。

子供の頃読んだ本で、人類が他の惑星に移住できるようになるにはあと一万年かかるとあった。幸い地球のすぐ外側の軌道を回っている火星は、その大きさや質が地球にかなり近いらしい。距離もわずか(?)80000000キロメートル、光なら片道ほんの数分(時期によって地球との距離が変わるので平均値)、人類のいま持っているロケットなら片道わずか(?)六ヶ月でいける。しかし、火星全体に酸素と水を行き渡らせるには最新の技術を駆使しても一万年かかる。

天才と言われる宇宙物理学者ホーキング博士は計算で宇宙に人類と同等、もしくはそれ以上の知能を持つ生物が存在する星の数を計算した(そんなことができるのか@@)。何万個とあるらしい。では、なぜ人類との遭遇はないのか?ある講演会での質問に答えて彼はこう言ったそうな。

「文明というものはある段階に達すると自滅する」

人類だけがその例外となり得る、との保証はまったくといっていいほど楽観的すぎる。核の問題(技術、それとそれを取り扱う人の質の問題)、資源の問題、汚染の問題、人口の問題。これらの問題の根底にあるものは私達個々の心にある欲である。欲そのものは問題ではない。その制御が問題なのだ。

資本主義の欠点は明確であるにも拘わらず、人類はより良い主義や制度を考えだそうとしない。いや、人間の我欲が資本主義に活力を与え続ける。一人ひとりの我欲は小さくても、それが70億も集まれば地球はもたない。地上には数えきれない程の数の「生物種」が存在するが、その中で唯一人類だけがこの生態系全体を破壊する。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。

一度生まれてきたものは皆いつかは死ぬ。「種」についても毎年かなりの数のものが絶滅し、あるいは絶滅の危機に瀕している。人類だけがその例外となりえるだろうか。平家物語を待つまでもなく、亡(ほろ)ぶぞ、亡ぶぞとの警告を聞きながら、ほーら亡んだ、と言うことになりそうである。誰のせいでもない、私達ひとり一人の心に巣食う利己心が人類を滅ぼすのだ。滅亡に至る原因も、それを避ける方法もわかっていながら私たちは他の種を巻き添えにしながら亡びへの道を歩んでいるのだ。

人類という種の業の深さよ・・・・

2012年4月16日月曜日

春がきた

数日前より24時間火を絶やすことはない、と言うことが無くなった。夜中、ストーブに追加の薪をくべることも無くなった。それでも朝が暖かいということではない。今朝も庭にわずかだが霜が降りていた。農家にはこれが大敵らしい。じゃがいもなどは芽が出た時に霜が降りると大変なことになるらしい。

敷地の南の道路との境に将来立派な生垣となるようにユキヤナギを植えた。間口が27mほどあるので園芸店などで苗を買っていたのでは私の財布がもたない。そこで、今は使われていない近所のゴミ置き場の横にある立派なユキヤナギの株から散歩の都度、その穂先を失敬してきて地面に挿したのである。

個人のお宅の庭から無断で何かを持ち出すのは気が引ける、いやそれは泥棒である。しかし、公の場の、繁殖力の旺盛なユキヤナギの先っぽ30洋尺(cm)ばかりをいただいても罪にはなるまい。それでも多少の罪悪感はあり、雨の日などの散歩に傘を開いたその内側の骨に数本手折ったユキヤナギを隠して持ち帰るのである。(もっとも出かけるのが早朝なので、行き交う人とて皆無なのだが)雨の日は土が濡れていて挿し木にも都合がよく、枝の根本のところを鋭角に切って土に挿すだけである。

かなりの確率で根付く。ここ数日の間に1~2mmの芽が大きく膨らみ始めた。挿したのが昨年の秋で、佐久の寒い冬を越して今この薄い黄緑の芽吹きを見ると、なにか愛おしいような気もしてくる。鳥たちの囀(さえず)りも一層喧(かまびす)しくなり、小さかった蕗のとうがいつの間にか大きくたくましく花を咲かせている。これは後々増えて庭を荒らすので今のうちに根っこごとやっつけねばなるまい。昨日、地元の S おばあさんにこれの料理の仕方を教わったが、食べるには花が開きすぎているようだ。

間もなくタラも芽を出し始めるだろう。昨年は手頃な大きさになったところで、さて今朝は摘んで朝食のお浸しか天ぷらにでも、と思ったら山菜ドロボーに先を越された。それで、渡欧の前にほぼ残らず根本からそのトゲトゲの木を切ってしまったのだった。が、タラは「ヨタ」である。数カ月して我が家に戻ったら、以前にも増してたくましいタラが、他の背の高い雑草とともに庭に林立していた。この生命力の強さには私は驚嘆した。我モマタカクアルベシト。

家を建てる時に、大木は赤松を残してみな伐採した。それでも将来の庭づくりに邪魔にならない潅木はいくらか残した。特に両隣との境界にはまだ結構な数の木々が残っている。植物には疎く、自分の庭にあるものの名前さえ知らない。牧野博士にお叱りを受けそうだが、私にとってこれらはみな「雑木」か「雑草」なのであった。

ワレモコウとリョウブはお隣の S さんに教わった。念のため電子頭脳式情報網(インターネット)で調べたら、リョウブの若葉は食用になるらしい。昔、飢饉の時などはご飯に混ぜて食べた、とある。赤い房状の実をたくさんつけるガマズミは反対隣の S さんが教えてくれた。ダンコウバイは T さんの奥さんが植物に詳しく、その葉の形から名前を調べて知らせて下さった。今はその盛りを幾分過ぎて、それでもほのかな薫りをあたりに漂わせている。その花言葉は
「わたしを見つけて」
だそうな。花言葉など、どこかの誰かが勝手につくったものに違いないが、この言葉なかなかいいではないか。

以前にスノードロップのことを書いただろうか?これを初めて見たのはもう20年以上前である。ストックホルム郊外の知人宅でであった。この可憐な植物は遅い北欧の雪解けと競うように庭の片隅でひっそりと咲いていた。花は開く前の、真っ白な蕾が首を折り曲げて下を向いている様がいい。アイルランドではウイックローの山中に住む老教授の庭のヤブの中にもあったものである。

一昨年の秋に思いついて街の園芸店に問い合わせたところ、スノードロップの球根はすでに売り切れていた。昨年は渡欧中にアムステルダムの花市場に行き、これを買い求めた。帰国後に我が御用邸の前庭と裏庭に植えた。十個ほどあった球根を念のために二箇所に分けて植えたのだ。前庭のがひとつだけ芽を出した。他は全滅らしい。(裏庭に植えたのは場所を忘れた^^;)

スノードロップは和名を待雪草(マツユキソウ)というらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%97

さらに調べて驚いた。この花言葉が面白いのである。上記Wikipediaによると、

「希望、慰め、逆境のなかの希望、恋の最初のまなざし」 人への贈り物にすると「あなたの死を望みます」という意味に変わるので注意が必要である。

とあった。うっかり人に球根を差上げられないではないか。

※写真はダンコウバイです。

2012年4月7日土曜日

心配事

寒い冬を気持よく過ごさせてくれる薪の在庫がなくなりかけている。薪ストーブというものは購入時の本体が高いし、買って後は維持管理がかなり面倒である。2日に一回ほど灰を掻きださねばならないし、煙突掃除も必要だ。薪や灰から出る、文字通りの塵芥(ちりあくた)は部屋を汚す。焚きつけることや火の調節は大げさに言えば熟練を要する。寝る前にストーブに薪を目一杯詰め込んで、全面のガラスが煤けないように、そして火が燃えすぎず長持ちするように空気口を調節しても、我が家の小さなストーブでは6~7時間が限界である。一旦火を消してしまうと再度焚き付けねばならない。それが大変だから結局夜中に起きて薪をくべる。幸い私は病気柄か、眠りが浅く、寝起きもいいので、これがそれほど苦にはならない。(これを欝の効用と言う^^;)

結果から言うと掛ける手間ひまは膨大であるが、私にはそれから受ける恩恵の方が大きいのである。

今困っているのが次の季節の薪である。今まで使っていたのはこの家を建てる時に伐採した雑木だったのだが、これが・・・尽きた。

ホームセンターで売られているものはベラボーに高い。薪としては最高級のナラやクヌギは長さ4~50センチでこれを針金のわっかで束にしてある。直径は40洋尺(cm)くらい。こんなものが500円もする。我が家では一日で3束は必要になる。500円×3束×30日=4,5000円/月。絶句!

知人に薪を安価に手に入れる方法を問い合わせてみたが、いい案がない。私はここではよそ者なので、「山」を持っている人など知らない。車で買い物に出かけた時に、道路脇に雑木の玉切ったのが置いてるのを見ることがある。こんな時は知らずとよだれが出てくるのである。

こんな時は電子頭脳式通信網(ネットのこと)が便利。調べると、近所で森林組合は言うに及ばず、個人でも薪を商うところがある。ついでに埼玉県某所で伐採や薪の販売、また薪を作るための講習や器具(チェーンソーやまさかりなど)を扱っている人がおり、この人のブログがかなり面白いことを発見。

このブログの筆者であるKさんは、私と同種の病気を患っておられ(まったく同じではない。彼は双極性障害、つまり躁鬱病であるらしい)、その病状はかなり重そうである。これが故の一家離散、転職、引越しの悲哀を経験されたらしい。これにもめげず、薪屋さんを始められた。数年に及ぶそのブログに私ははまって二、三日で読了した。もと出版社に勤めておられた由で文章がうまい。それだけに彼が平常な状態でない時の辛さがひしひしとこちらに伝わってくる。私は欝だけとは言え、その苦しさを知っているので、彼の病状が思いやられるのである。

Kさんの住んでおられるところは実は私の両親の墓参途中にあって、大体どのあたりかはわかっている。一度お会いしたいものだと考えた。薪も欲しいのだが、それより彼の人柄に惹かれたのである。
彼のブログに伐採や薪づくりの講習会をするので参加者募集とあった。それに応募したのだが、返事がない。そしてブログは3月19日以来更新がない。以前にも具合が悪くて更新が出来なかったことが度々あったらしい。(それでも更新頻度は私の比ではない)それがかれこれ20日近く途絶えている。

ブログの読者であるというだけで、彼とは一面識もない。しかし、ブログから彼の人柄や過去、そしていまどれだけ頑張り、どれだけ幸せで、またどれだけ苦しんでいるかが解る。

今朝私は彼のブログにリンクを貼っている人にメールを出し、彼の消息を問おうとした。しかしやめた。やはり不自然だし、相手の方にも失礼であろう。それにしても心配だ。

2012年4月1日日曜日

何をか言わんや

原発を止めるとか止めないとか、夏場の電力はどうなるとか、東電の値上げは許せんとか・・・。知識人も非知識人も百家争鳴、結構なことである。

地球の大きさは決まっている。食糧、燃料、そして鉱物資源も限られている。人口は爆発的に増えている。でも、自分だけはいい生活をしたい。我々人類が弱肉強食の世界に戻るのは時間の問題である。先見の明は中国にあった。彼の国は、武力や経済力にものいわせて近隣の領土拡張に走り、南米やアフリカでは穀物畑の確保にやっきである。

中国は近い将来の資源不足を見越し、生き残りをかけて行動を開始している。日本は67年前に食べた羹(あつもの・・・熱い吸い物)に懲りていまだに膾(なます)を吹いている。

戦争というものは正しいから勝つわけではなく、間違っているから負けるわけでもない。単に武力と知力があれば勝ち、それらが無ければ負けるのである。

第二次大戦末期、アメリカが行った日本の大都市に対する無差別爆撃や原爆投下は完全に当時の国際法に違反している。戦時中日本軍は占領地で現地人の虐殺をしたという。ウソかまことか、人口20万人の都市で30万人虐殺という器用なこともしたと言われている。では、まったく抵抗のできない空から爆弾を落として無辜の人々を一瞬にして何十万人と殺すのは虐殺ではないのだろうか。

あの大戦については未だ正しい裁きはついていない。戦勝国が一方的に行った私的制裁が東京裁判である。

※東京裁判で被告人のひとりが、日本は連合国側に賠償を払う。が、連合国もその倍の賠償を日本に払うべきだと主張した日本の退役陸軍中将がいた。あの当時にである。彼は罪には問われなかった。連合国側が彼を無罪にすべく奔走した結果だと言われている。

話しがかなり逸れた。地球の物理的規模が決まっているのに、もっといい暮らしをしたいと望むことが無理なのだ。人の物心両面における幸福の追求には何が必要かを考えれば、我々の生活の標準が見えてくるのではないだろうか。それが見えれば「地球の適正な人口」が簡単に割り出せると思うのだが。

昨年の秋、ブータンの国王夫妻が来日された。あの時のことを私たちは既に忘れかけている。「国民総幸福量(GNH)」。日本はこれだけモノが豊富で、医療制度もおそらく世界一、そして犯罪も少ない、なのにブータン人ほどみな幸せを感じているだろうか?

日本は小さな国だと思っている人が多い。面積的にはたとえばヨーロッパの国々と比べるとフランス、スペイン、スウェーデンが日本より大きいだけで、ドイツや英国などは日本より小さい。もっとも、人口でいけば日本はヨーロッパのどの国より多い。全EU人口は約5億、それでもGDPは日本の約3倍しかない。なのに大半のヨーロッパの国々の「豊さ」は日本よりも上である。もちろん簡単に比較できる問題ではない。しかし、単なる旅行ではなくて、実際に現地で働き、暮らしてみるとヨーロッパの最貧国の人々でさえ、平均的日本人よりゆったりおおらかに暮らしているように感じる。

日本経済が中国に抜かれて世界第三位になったそうだが、二位じゃなといけないんでしょうか?(^^;)
ブータン国王夫妻が来日された時に、日本の多くの人が幸福について考えたではないか。彼の国の国土面積や経済はおそらく世界のビリから何番目というほどのはずである。

幸福生活の雛形を作ればいい。少しばかりこれからはみ出るくらいはいいだろう。でも、金を追いかけすぎたり、他人のものを欲しがったりするのは悪魔に魅入られているのである。

断っておくが私は共産主義を奉ずるものではない。

2012年3月31日土曜日

冬の日常 5

朝、目が覚めたら頭が痛かった。それでも散歩に出た。体を動かせば治るだろうと思った。雪は大分なくなり、屋根から落ちたものが日陰にわずかに残すのみとなった。路上にも殆ど無い。気温は8℃ほどで、6時頃の気温としては今季最高であろう。

ダブリンで暮らしていた頃、一時ではあるが郊外に住んだことがあり、知人からもらったオンボロのスーパーカブで都心に通勤していた。いくらアイルランドの気候が温暖でも冬のバイク通勤は寒い。そこでオーバーパンツを買った。風雨を通さず、暖かく、なかなかの優れ物で随分重宝した。これを日本に持ち帰って今は冬の散歩用にはいている。一度だけここの冬で-20℃近くまでいったことがあるが、それでもこのパンツがあればまったく寒さは感じなかった。

今日はそのパンツもなし、上はTシャツの上にフリースだけ。そう言えばこのフリースは随分前に親の病気見舞いで帰国した時に買ったもので、メーカー品にもかかわらず、安くてとても着心地が良かった。今は庭仕事で焚き火をすることが多く、火の粉をたくさん浴びて穴だらけになってしまった。代わりの新しいフリースを買った。値段が安いのは前のと同じだが、着心地がまったく悪い。結局古いのをいまだに着ている。(人前では着られないかも知れないが、なに貧乏人がボロを着て何が悪い。文句あるならいいのを買っておくれ^^;)

散歩から帰っても頭痛は治らず。食欲もなし。だらだらとテレビを見た。思いついてお風呂に入った。ぬるめのお湯で長く入った。普段はカラスの行水であるが今日は5分くらい我慢して湯に浸かっていた。浸かっている間は頭痛も治ったように思われたが、体が冷えてくるとまた痛み出す。仕方が無いので軽く朝食を取ってアスピリンを飲みベッドに入った。うつらうつらすると雨のトタンを叩く音がかすかに聞こえてくる。億劫ながら寝室の窓から外を見ると結構な降りである。これで庭の片隅に残った雪も全部溶けるだろうと再び目をつむる。

昨晩十分寝たから寝られるとは思っていなかった。それでも時間を忘れていくらか寝た。意識が戻りつつある中で思った。「アレ、雨ガヤンダ」。ザーザーという音が聞こえない。時計をみると2時間は寝たらしい。起きてカーテンを開けて驚いた。外は一面の銀世界になっていた。頭痛も収まっていた。


                                       

2012年3月19日月曜日

あいつは民主主義者だ !

今から数十年後の20××年の話しである。

2018年に民主主義日本は滅びた。百数十年前にはるばる西洋から輸入した民主主義という政治形態(資本主義という経済の形態とほぼ表裏一体)が小田原評定の常態化を助長して、隣国の軍事的脅威に対抗出来なかったのだ。政治家は自分の政策のみが正しいと個々の主張して譲らず、かと言って万が一の責任は取りたくない。勇ましいのは選挙の時のみで、会議では優柔不断に徹していた。防衛のためのミサイルの数を345にするか346にするかを決めるのに3年を費やし、その間に世界でも有数の極貧乞食国家から核兵器による恫喝を受けて食糧援助をせざるを得なくなった。さらに、同じ隣国で、10倍もの人口を持つ共産帝国主義国家にも横車を押されて南の領土を武力で取られてしまった。そしてその国は、沖縄県は彼の国の固有の領土だといって「返還」要求を始めた。

盟友国家であったはずのアメリカは「アメリカは自ら助くるもののみを助く」と言って、自助努力をしない日本を見限った。沖縄から軍隊を引き上げた。

かねてより沖縄に送り込まれていた共産帝国主義のスパイは日本人に迫害を受けている、助けて欲しい、と筋書き通りに本国に要請した。本国はこれを受けて「コレハ大変アルヨ、ワガ人民ガ迫害ヲ受ケテイルアルネ。助ケニ行カネバネバ」と軍事作戦を展開し始めた。

平和憲法が、憲法9条があれば日本は平和を守れると夢想していた人たちは恥ずかしさのあまり、顔の整形手術を受けて暮らさねばならなくなった。

いまさら日本国民はその平和ボケの政治形態に疑問をいだき、その欠点の研究を開始した。研究の形態も民主主義なのでその結果を得るのに3年かかった。結果は民主主義は政策決定に時間ががかかり、かと言ってその方向が必ずしも正しくはない、ということだけであった。しかし、沖縄はとうに隣国のものとなっており、そこに暮らす日本人はチベット人のように迫害を受けていた。


やがて押しが強く、明晰な頭脳をもった若い政治家が現れ、独自の理論を展開して周囲を席巻していった。既存の政党は自党の延命を、そして政治家は自らの失業を恐れてこの政治家に迎合した。やがてこの政治家は独裁政治体制を完成させて次から次と起こる国家の危機に対応し、難局を乗り切った。彼の発言には誰も異を唱えなくなった。彼の取った決断は正しく、何より早かった。日本に脅威を与えていた国家群もこの決断速度に追随できず、軍事でも外交でも経済でも次々と敗退していった。沖縄はそこを奪回するために再び戦場となって多くの人が死傷した。

学校では民主主義は決断に時間のかかる悪い政治形態だと教えるようになった。巷では人々が集まって何かを決めようとすると
「あいつらは民主主義者だ!」
と言って白い目で見られるようになった。おわり

独裁主義の何が悪い。かつて独裁主義で繁栄した国はあまたあるではないか。民主主義ならみんなで間違った方向に歩んでもそれで悔いはないのだろうか・・・。

日本は人類史上初めての民主主義のために滅びた国家となろうとしている。かつて小田原は秀吉に攻められて評定(会議)を開き、時間ばかりかかって結論を出せないまま敗れた。この故事に習うことをせず、滅びるぞ、滅びるぞ、ほーら滅びた、と言う具合になりそうである。

実は、必要なのは民主主義を排除することではない。今いかにその弊害をなくす、あるいは少なくするかを考える大切な時期に来ていると思う。政治家が悪いという。官僚が悪いという。では、民衆だけはまともなのか。

私を「右翼」だと思う人がいるかも知れない。思われてもいいが、それは違う。げんに私は今の天皇制(※)には反対する者である。右も左も興味なし。私は歩き続ける人である^^

(※)今の天皇制は反対だが、昭和天皇、今上天皇はじめ一個の人間として尊敬する人々は皇室の中にもいる。これは別問題である。

2012年3月13日火曜日

業務連絡 ^^; (暖炉のにおい、第一巻公開忘れお詫び)

大好評(世界中で6人の読者)「暖炉のにおい」シリーズですが、若干加筆訂正をしたあと、<公開>をポチッとするのを忘れてました。一番最初の「暖炉のにおい」です。途中からお読みになったかたは中途半端な感じがしたことでしょう。お詫びします。
http://michioscud.blogspot.com/2011/07/blog-post_13.html ←これをクリックすると加筆訂正後の文章に飛べます。

拙文はヨーロッパやアメリカ、ロシア、東南アジアなどでもお読みいただいております。おそらくは各国で頑張っておられる日本人の方々と推察します。みなさんのご健闘並びにご活躍をお祈りするとともに、この場をお借りして講読の御礼を申し上げます。
(なんか田舎の町長の挨拶になってしまった・・・)

2012年2月20日月曜日

暖炉のにおい 6

季節は秋であった。

もともとアイルランドの気候は温暖と言われている。その分、季節の境目がはっきりしない。夏といっても日本のそれのように、ジリジリと日差しが照りつけてうだるように暑くなる、などということはない。簡単に言えば0℃から20℃くらいの間で気温は移り変わる。その変わる速度が極めて緩慢である。だらだらと変わる。考えてみれば東京などは仮に0℃から35℃の間を約半年で変わるのだから、アイルランドの気候が温暖と言われるのは納得が行く。そんなわけで、秋といっても、夏なのか秋なのか冬なのかははっきりしない。ただ、暦の上では秋であったのだ。

いま地図でダブリンの緯度を見た。日本近辺で言えばおおよそ樺太の北端辺りである。(ちなみに東京はアフリカ大陸の北端と同じ緯度である)秋は冬至に向かって急速に昼の時間が短くなる。午後も三時ころになると日差しは既に心細くなる。そんな時に私が教授の令嬢ケイトと待ち合わせをしたのはテンプルバーの菜食主義食堂であった。猥雑に居酒屋や宿屋、そして土産物屋が並ぶ一角にその安食堂はあった。

時間ギリギリに入ってテーブルにつくと、待っていたかのように小柄な女性が小さな子供を連れて私の席によってきた。人品は・・・卑しい。着古した外套を着て、手には指先が出る手袋をしている。鼻と耳にピアスをしている。そばかす顔である。毛糸の帽子から出ている髪は金髪であったが、ここ数週間はブラシが入った様子がないように思われた。

「あ、あんた、み、みちお?」

早口で吃音である。微笑んだのだろうが、その外観を見て相当がっかりしていた私には彼女が「ニヤッ」と笑ったように見えた。瞬時にあらゆる想像が私の頭を駆け巡る。この風体、顔の表情、話し方・・・そして手をつないで隣にいる7~8歳の少女。心持ち鷲鼻で、金髪の巻き毛を短くしている。この子の着ているものも全体的にかなりくたびれている。物怖じをする様子は見えない。

「そう、ぼくはみちお、じゃ、キミはケイトだね?」
「アタイがケイト、こっちはエミリー」

型通りの挨拶をし、ここはぼくが馳走するから好きなモノを注文して下さい、と言うと目の前の淑女たちは遠慮する風もなくニンマリとして献立表を見始めた。エミリーは早速アップルパイと言い、ケイトと私はニラの雑炊を注文した。私は食堂で献立を選ぶのが嫌いである。面倒である。この癖は欧米では甚だ宜しくない。が、私は不都合のない限り私のやり方を通す。ひできすやSnigelなどと外食をする際、私のやり方を知っている彼らは「真似すんなよ」と先に釘をさして意地悪を言う。私が九割くらいは前に注文した人と同じ料理を頼むからだ。なに、彼らだって子どもじみたことを言っているのである。食い物のことをああだこうだ言うのは女子供だけでたくさんである(問題発言か・・・^^;)。

エミリーの注文が先に来た。彼女はカウンターからガラスのコップを持って来、いきなり茶さじでアップルパイの上に載っているホイップクリームをそれに移し始めた。ホイップクリームは嫌いなのだそうだ。私は呆気に取られてこのさまを眺めていた。日本ではこんなことはしない。少なくとも同じ状況であれば多少それが嫌いでも我慢して食べるところである。当時私は海外の暮らしはまだ短く、日本の尺度で全てを測っていたのである。

※ 尺度論をいつか展開するつもりである。これは人にとってかなり重要な柱ともなるべきものである。尺度はどこから来たか、それは一本か二本か、地域性の高いものであるか、或いは万国共通なものか、一時的なものか、或いは普遍的なものか。また、その使用については自覚的に使っているか、無自覚に使っているか、その他諸々である。

エミリーは私の視線など気にせず作業を続ける。極端に言えばテーブルの上に頭と二本の手を出して作業に没頭している。私の頭には先ほどから下世話な想像が往来している。ケイトの容姿、立ち居振る舞いからすると、エミリーはケイトの父無し子に違いないと断定するに至った。放蕩が過ぎて教授に見放され、ダブリンで暮らしているのだろう。さもなくば名門大学の教授の令嬢たるものがそんな格好をして幼い子を連れているわけがない。

自分で言うのもおかしいが、当時の私は貧弱な古い一本の尺度を日本から持ってきて使用していた。ケイトはどう見ても昔流行ったヒッピーそのものであり、そのヒッピーが連れているのは自動的に「父無し子」なのであった。傲慢を承知で言えば、私の目からは彼女らは距離を置くべき人たちのように思えたのである。

2012年2月12日日曜日

冬の日常 4

佐久の冷え込みはきつい。今のところ、今冬の我が家の最低気温はせいぜい-10℃である。それほど寒いわけではない。が、数日の例外を除いては毎日日中でさえ零下の気温なので、何週間も前に降った雪が融けずにそのまま残っている。手抜きをして造った薪小屋はさすがに心細く、つっかい棒を増やした。なに、潰れたとて損害にはならないが、こんな山の中でも定住者はおり、中には毎日のように散歩か偵察かをしに来る人々がいる。まさか泥棒の下見でもないだろうが、わざわざ車で遠回りをして往来する人々もいる。いくらボロ小屋といえども、潰れればやはりみっともないし厄介である。仕方ないので雪下ろしをした。下からレイキで届く範囲の雪を降ろしたが、真ん中あたりに多少残ってしまい、それがために屋根の中ほどだけが下がってしまっている。一計を案じた。屋根の下に長さ2.5mほどの頑丈な角材を渡して真ん中を車のジャッキで持ち上げた。雪の量でその部分は上下し、動くのでいつこの構造が崩壊するかはわからない。前回ほどの雪が降らなければ大丈夫だろうと思う。

そんなことをしていたら、浦和の友人Kを訪ねてドイツからTが来た。Tは私とも旧知なので、ふたりともわが領地を訪問したいとて、滞在ビザを申請してきた。彼女らは二日間の滞在予定であるが、私は冬季は除雪の仕事があり、常駐日と言って雪が降らなくても4日に一回は除雪詰所に待機していなければならない。降れば降ったで呼び出されて除雪に行かねばならない。うまく常駐日を代わってもらって彼女らを迎える準備をしていたら、ヨーロッパ大寒波の影響でTは(オランダの)スキポール空港で雪に閉じ込められ、結局一日遅れで日本に到着した。ユーラシア大陸を挟んで、ともに雪のために右往左往したわけである。

KとTに会うのはヨーロッパ以来7ヶ月ぶりである。佐久インターを降りたところにお土産屋兼食堂があるので、そこで待ち合わせた。名物の釜飯を食い、お土産見物をした。Tは時差ボケをするような遠国への旅は初めてだそうで、まして東洋の国などは珍しくてしょうがない。土産品の前にある試食品を食べてみせると、まねて片っ端から食べ始めた。オイオイと思っても止めようもなく、また止める口実もない事に気がついた。ままよ・・・。

※ Tは翌日イオンに行った折りも、目ざとくパンの試食品を見つけて、売り場で悪びれることもなく2回の「試食」をした。この試食用のパンはサイズが大きく、いたく彼女のお気に召したようだった。彼女は典型的な白人顔で金髪長身、よく目立つ。私は他人のふりをしていたが・・・。

当初私はTをもてなすことを口実として、めったに食べない(食べられない?!)すき焼きをKに提案したのだが、立ち寄ったスーパーでTが厳格な菜食主義者であることが判明、これを断念した。欧米では私達日本人が思っている以上に菜食主義者が多い。しかし、菜食主義といっても、卵やチーズは食べる、或いはたまに魚は食べると言ったふうで、ベーガン(Vegan)と呼ばれる厳格な菜食主義者は珍しい。よりによってTがこれとは神様も無粋なことをなさる。

結局肉の代わりにガンモドキを入れ、生卵はなし。何とも名前のつけようのない「すき焼き」とは相成った。しかしながら、料理はかなり美味く、Tに「コレハナントイウ料理デアルカ」との問に、Kと私はお互いに目で命名権を譲りあったのである。

翌朝寒気をついて朝食後の散歩に出た。空全体に低い雲が垂れこめており、彼女らに浅間山やら八ヶ岳の雪化粧した姿を見せることは叶わなかった。私たちはとりとめもない話しをしながら歩き続け、冷たく新鮮な空気を讃えてこれを深呼吸した。

思いがけない長い散歩の後、家に帰ってお茶の時間とする。歩幅を広くとって速く歩くならいいが、のんびりと歩いたので体が冷えた。薪ストーブのそばに椅子を寄せてお茶を飲む。

昼飯は信州名物そばの予定である。ガイジンが好もうと好むまいと蕎麦は信州の名物である。佐久平駅のソバに行列のできるそば屋さんがある。11時半開店で、少し遅れたが運良く席はすぐとれた。座敷である。私がザルを頼むと二人も続いた。と言ってもTは何もわからない。薬味の説明をし、早速「ズルズル」と蕎麦をすする。Tにはあらかじめ日本では麺は音を立てて食べるものであることを説明する。

次は日本酒の酒蔵見学である。前日予約を入れておいた。が、まだ少し早い。家電量販店で時間つぶし。Tはドイツから持って来たPCの電池が切れかかっており、変圧器と海外用プラグの必要に迫られていた。日本で売っている多くのものは、日本の家電を海外で使えるようにするためのものであり、海外の家電を日本で使えるようにするものは少ない。私は電気音痴である。仮にプラグの形状が合ったとしても、100vを200vにできるのだろうか。私が厠(かわや)に行っている間にKは店員さんに聞いていたが、現物がないと答えられないと言う。もっともである。退散。

酒蔵はこの辺では大手で、甘酒から日本酒、焼酎まで作っているらしい。製造工程を見学し最後には何種類もの酒、焼酎を試飲させてくれた。いくら下戸でも私も飲みたかった(運転手だった・・・・)。

翌日は時差ボケが出たTの起きるのが遅く、のんびりとした朝となった。それでも近くの温泉に行った。私はカラスの行水なので、さっさと上がって長椅子で居眠りをした。温泉についてKがTにどのように説明したかは知らない。しかしながら、日本の温泉は海外にも知られた文化であり、Tにはいい経験になったことと思う。

あとひと月は寒いだろうな、と思いつつ薪の残りを心配する。来季は大丈夫にしても再来季の分を今年中に準備しないといけない。チェーンソーも修理しないといけない。今夜もオリオン座の左に冬の大三角形がはっきり見えている。外気温-7℃。

2012年1月24日火曜日

冬の日常 3

雪国の山中に暮らすことについて思い出すのはソーロー(Henry David Thoreau)の「森の生活(原題Walden:or, the Life in the Wood)」という本である。随分前に読んだ本で、ほとんど何も覚えていないが、著者がアメリカのどこだかの森の中に丸太小屋を建てて2年以上を一人で暮らした話しであった。150年位前の話しである。ペリーが浦賀に来て野蛮な砲艦外交を始めた頃、ソーローは山中にひとり暮らして自らの思想を練っていた。

本当は私もソーローと同じように北海道の山中に広大な土地を買い、そこに家を建てて住みたかった。が、自らの分を考え、妥協したのが今の生活である。否、妥協というにはあまりにも軟弱な選択ではあった。しかし、これくらいが自分の限界であることは知っていたつもりである。

人の生まれて世にある間は、自分を問い、人生を問うことが一大事業である。私には何もない。この年になっても確固たる独自の思想もないし、動物のように生きる体力も知恵もない。ソーローのように社会と隔絶しては生きていけないのは明らかである。

ともあれ、自らの動物身体は養わねばならず、今日もひとり飯を炊き、薪を運ぶのである。

先日(2012年1月19日から数日の間)、日本の多くの地域で大雪が降った。当然長野にも降った。私は冬期間は高速道路の除雪の仕事をしており、家にいなかった。珍しく重機での除雪を命じられて、その大きな玩具に夢中になっていた。しかし、心配事があった。私は昨秋、母屋に接してガレージを建てたのだが、依頼業者が、強度計算などは知らない、素人にうぶ毛がはえた程度の人たちであった。私は臍を噛んだがもう遅い。屋根の強度に大雪は極めて剣呑だったのである。

結果から言うと何も起こらなかった。家のガレージは無事だった。除雪詰所からの帰り道、私は車を運転しながら、頭の中で雪の重みで潰れた我が家のガレージを想像していた。悪いことが起こりそうな時には悪い想像をする。これは私の魔除けのおまじなであると同時に、それが実際におきた時の衝撃をやわらげるための予行演習みたいなものなのである。家を出る時に見たそのままの形で、ガレージはあった。私が大きな玩具で仕事とも遊びともつかないことをしていた軽井沢の辺りは積雪が30cmは優にあった。その時の状況で、軽井沢の天気と私の家が属する八ヶ岳山系の天気が同じとは限らない。近くはあっても双方別の山系に属するからである。さてこれが、吉と出るか凶と出るかであった。

帰路国道は既にきれいに除雪されており、路面は乾いていた。しかし、主要道をはずれて、我が御用邸に近づくにつれて雪は深くなり、除雪の跡は見られるものの、道路には雪が残って圧雪状態になっていた。降雪直後とはきれいなものである。世界が生まれ変わったように見える。木々は雪を纏ってあたかも彼らだけで華やかな宴を開いているようにも見える。

ガレージはあった。何と、屋根の雪が滑って全部下に落ちていた。ほっとするが、この辺りも軽井沢とほぼ同じ積雪量だった。30cmはある。道路からガレージまでは10m程の緩い登りである。私のダイハツランドローバーは入れるだろうか。道路と我が領地の境界には除雪でできた40cmほどの堤ができている。生来怠け者の私は除雪なしで勢いをつけて前線突破を試みる。が、どうにもならない。あきらめて必要な分だけ除雪をする。

3日の留守で、家の中は冷え切っていた。すぐに薪ストーブに火を入れる。ガンガン燃やしてもその熱はいたずらに煙突から逃げてゆくだけなので、温度計を見ながら適度に空気穴の調整をする。家中が元の暖かさに戻るには半日はかかる。明るいうちに薪小屋から薪を持って来て居間のガラス戸のすぐ外に置いておく。夜は結構冷え込みがきついので、薪を取りに外に出るのは控えたい。

薪小屋は庭のほぼ中央にある。家を建てる時に出た雑木を玉切ってマサカリで割った。それを積み重ねていたら母屋近くに移動するのが面倒になり、そのまま簡易の屋根を掛けた。非常に見目麗しくない薪小屋である。有り合わせの材料でひと冬持てばいいと建てたのである。それが積雪で危なくなっている。屋根の中ほどの合板がしなって、今にも倒壊しそうである。仕方が無いので、一番しなったところに薪を重ねてつっかえ棒の代わりにした。

この文章は失敗である。ソーローなんぞ持ちださなければ良かった。彼の時代から150年も経っているのに、私の生活と私のつくった薪小屋はどうだ。比較にならないではないか・・・・。

※ご幼少の頃から筆者は重機が大好きであった。

2012年1月16日月曜日

冬の日常 2

今朝フクロウを見た。それは散歩途中の電信柱にとまっていた。

ここは里からは車で十数分ほど山を登ったところにある。小さな尾根の頂上をならして別荘地にしたところである。里に下りるには南に行く道と北に行く道の両方が使えて便利である。さらに東京に行くにも中部横断道の入り口までは十数分である。一般道なら軽井沢経由の国道18号、もしくは国道254号、そして清里を経由して行く中央道もさほど不便ではない。高速バスなどは東京行きが一日に二十五、六往復あるし、新幹線なら一時間と少しで東京駅である。

我が居城を構えるにあっては、那須や郡山もその候補地であったが、休日の交通混雑や災害がおきた時のことを考えて佐久にしたのである。浅間山はA級の活火山であり、そのことを内外の友人たちに話すと大丈夫かと、一応の心配はしてくれるが、なにその噴煙のほとんどは東京方面にゆくのである。僻み(ひがみ)根性の旺盛な私としては、浅間山が本格的に噴火すれば軽井沢は危ないと思う。そもそも軽井沢は季節によって街中や幹線道路の混み具合は相当なものである。名はあっても実のある場所ではないのである。

父が鉱山技師であったため、私は父の赴任先の北海道の山の中で生まれた。13才の時に秋田に移り、青年期前半を雪国で過ごした。そのせいであろう、我が日本の居城は雪国であらねばならぬと決めていた。長く過ごした東京の夏にも辟易していたが東京からあまり離れるのはいやだった。それが故に佐久は妥協点としてはかなりいい条件だったのである。

佐久は雪が適度に降る。綺麗だな、と思える程度に降る。車はやはり四輪駆動車が必要だが、それは里からの帰り道は曲がりくねった雪の坂道を登らねばならないからである。除雪に往生することはない。それどころか雪の降った朝などは周囲の景色のみならず、そこここある動物の足跡が楽しみなのだ。

ここの普段の生活で見かける動物と言えば、タヌキ、キツネ、ネコ、コイ(佐久の名物^^)、イノシシ、シカ、カモシカ、カマイタチ(カマは苦し紛れです)、ハクビシン、テンなど。ウサギなども多いがマッコウクジラは見たことがない。このうちシカとタヌキは目撃頻度が極めて高い。

雪が降ると動物の足跡がはっきりと残る。私の家の庭は現在造園の真最中で、ようやく地形をならし終えたところである。今のところほぼ平らなので雪が降ると動物たちのお散歩経路になる。今年はウサギが多い。お隣のSさんは留守中に庭のスティックブロッコリーを根元から食われたと言って苦笑いをしておられた。

二年前の冬のことである。庭にどんなお客さんが来るのかを知りたくて一計を案じた。すなわち簡単な罠を仕掛けたのである。罠といってもその動物を害したり捕らえたりするためのものではない。長さ30cmほどの細めの木片に割れ目を入れてそこにイワシを挟み庭先に置く。イワシは簡単にはとれないようにきつめに挟む。この木片の端にテグスを結わえ、ガラス戸をわずかに開けて居間に引き入れる。室内のテグスの端には鈴を着ける。来客は夜半過ぎだろうとテレビを見ていたら、チリンと鈴が鳴ってテグスが引っ張られた。。意外にも早々のお出ましだった。お客様はテン様であった。



その後何回仕掛けてもその度にお客は現れた。上の写真は一昨年の5月に撮影したもので、ガラス戸越しにフラッシュを焚いて撮影したので、室内のパイプ椅子が写り込んでいる。

昨冬のある日、私の一番短い散歩順路を散策していて見たのがフクロウだった。後ろでバサッと音がしたので振り返ると20mほど先の林の木の枝にフクロウがネズミらしきものをくわえてとまっており、こちらを振り向いた。「みたな・・・」と言わんばかりに飛び去っていった。ホー、ホーという声は度々聞いていたが、まさか実物が姿を現すとは思わなかった。

今朝見たフクロウは、昨年のものと同じである可能性が高い。大きかった。羽を広げればおそらく1m超はあったかも知れない。最初トンビかとも思ったが、頭が大きくまるい。それは私の進行方向にいたので、私が近づくとまもなく森の中に飛び去った。また会おうね、と心のなかでつぶやいた。

2012年1月14日土曜日

冬の日常

我が家は浅間山の噴火口と蓼科山の頂上を結んだ線上の真ん中よりやや蓼科山側にある。どちらかと言うと蓼科山のある八ヶ岳山系である。標高は約1000m。里と言えば佐久の街であるが、そこでも標高は700mは下るまい。天気は軽井沢の浅間山系と佐久の里と八ヶ岳系に分けていいかも知れない。我が家は八ヶ岳系であり、この近辺で雨雪が降っていても、里ではまったく降っていないことがある。その逆は少ないようだ。

ここに我が居城のひとつをかまえる時、長野市の知人が言った。佐久は雪は少ないが冷えが厳しいと。雪についてはどうも真田さんのいた上田あたりが境で、それより南側、つまり小諸や佐久などはあまり降らない。台所の窓の外の格子に寒暖計をつけた。流しに立つたびにこの寒暖計で外の気温を見るのが癖になった。昨冬の私が見た限りの最低気温はマイナス19℃であった。ところが雪の量ときたらたかだか15cmくらいである。寒いから消えずにこれが根雪となる。風向きや日当たりで、ところによっては地面や路面がむき出しになっている。その程度である。

先日、スイスから友人Pが来日した。彼の相方が日本人女性Hで、俗に言う遠距離何とかである。私は双方を知っているので、吉祥寺のHの家に招かれた。車で行っても駐める場所がない。新幹線は上野や東京まで連れて行かれる。そこで初めて高速バスを使った。我が家から佐久総合病院までは十数分の距離で、ここからも池袋や新宿、立川行のバスがあるが、運行本数が多いのは佐久インターを出たところのバス停である。車もタダで駐められる。新幹線に比べると格安で時間も大きくは変わらない。JRバスも選択肢に入れれば一時間に2~3本の運行本数であろう。

その日の早朝、6時35分佐久インター南のバス停から乗り、池袋には定刻の9時20分に着いた。三人でスカイツリーに驚き、浅草寺でおみくじを引き(私は凶だった^^♪)、お台場などを見て回り、旧交を温めた。翌朝Pに納豆を食べさせた。意外ににすんなりと食べられてしまってがっかりした。P曰く、フランスにはもっと臭いチーズがあり、それと比べれば納豆などは何ほどのことは無しと。次は塩辛を食わそうと作戦を練る。
※ Pはスイス在住のフランス人

翌朝、みんなで深大寺に向かった。お正月の喧騒も終わりに近く、寺にとっての※かきいれ時は終わりに近く、それほどの混みようは無かった。佐久から来た私は東京の寒さを甘く見ており、薄着でふるえながらのお参りであったが、遅まきながら日本の正月をチョーヒサシブリに味わった気分であった。
※境内の其処此処に賽銭箱があり、おみくじ売場を合わせれば十ヶ所以上になるであろう。

私には東京に出た折には訪ねたい人がもう一人、と言うよりもう一家族おり、Hに車で送ってもらって彼らとは桜上水で別れた。

桜上水の知人Tさんもそこに3年前に家を建て、それは私とほぼ同時期である。度々家族連れで拙宅を訪れて下さっていたが、私の方は根っからの出不精で、長く失礼をしていた。相変わらずの歓待を受け、夕方に辞去したのだが、京王線が人身事故で不通になっていた。佐久に帰る新宿からの最終のバスには間に合わないこととなり、Tさんのご好意に甘えてこちらにも一泊ということになった。

東京二日目はよく晴れており、池袋から待つこともなくバスに乗り、私は再び車上の人となった。関東平野のはるか北に群馬や長野の雪を被った山並みが見える。たった2日であるが、懐かしい気がした。おかしなものである。

私の家は良く冷えていた。ここまで冷えると家全体が温まるまでに半日以上はゆうにかかる。外套を着たままで薪ストーブに火を入れる。庭は日中の暖かさが幸いしてかなり雪がなくなっている。昨年の春に植えた芝がところどころ見えはじめている。

久しぶりの外出のせいもあって疲れを感じ、その晩はかなり早く寝た。寝室も冷え切っていたので、久しぶりに湯たんぽを入れた。夜半トイレに起きたついでにストーブにくべる薪をとるために居間のガラス戸を開けて驚いた。外の薪に5cmほどの雪が積もっていた。暗闇の中で庭がまた新雪に覆われていた。朝早く散歩に出ようと思った。ウサギやタヌキ、テンなどの足跡を見ながら誰もいない早朝の散歩を思いながら私は再び暖かい布団に戻った。