2012年9月17日月曜日

いかに生きるか その3

人が他の動物より複雑なのは(と思われるのは)、その心に動物的側面と人間的側面を持つからである。心とは既に人間的側面なのかもしれないが、他の動物に心があるかどうかは簡単にはわからない。単に言葉の定義で決められるかもしれないし、それはあくまで人間中心のモノの見方だと言われればそれももっともである。

犬猫がまるで人の話や情を理解し、あたかも彼らにも心があるように見えることが多々ある。仮にそれを心と呼んだとしても一向に差支えはない。犬がクンクンと鼻を鳴らしているのを見て多くの人はそれは飼い主がいなくて寂しいからだと判断する。ただ別の見方もできることを忘れてはいけない。犬はクンクンと鼻を鳴らすことによって安全とエサが手に入ることを学習したかも知れないのだ。猫は野生を多少抑えることで人間から楽々エサをもらえることを何千年かけて学習したかも知れない。このように考えると犬猫には心などはないと言えるかもしれない。あったとしても人のそれと比べれば取るに足らない単純なものと言えそうである。人の心はそれだけ複雑で測りがたいものなのだろう。

一匹のサルを観察するとする。このサルは何をするだろうか。エサを食う。寝る。遊ぶ。他のサルと喧嘩をする。交尾をする。子育てをする。ざっとこんなものであろう。遊び以外は全部自己保存と子孫繁栄のための行為である。何のことはない、人と大差はないようだ。が、これらの行為に於いて人は限りなくサルに近い人と、限りなく神様(?)に近い人のいることに気づく。行為の制御においてである。

繰り返すがサルと人間の遺伝子の違いはわずかに数パーセントである。肉体的違いは殆ど無いに等しい。やはり人を人たらしめているものは、その心(精神、頭脳と言った物理的側面以外の部分)にあると言える。

自己保存と子孫繁栄を人生の目標として生きる人は、これは何も人間である必要はないわけで、サルでも良かったのだ。人の「生」の難しいところは動物の身体をまとい、これを養い且つ繁栄させるに必要な能力の制御にある。簡単に言えば「人は動物本能をコントロールして生きねばならない」ということである。今の世界の状況を鑑みるに、地球温暖化、地域紛争、核問題、食料問題などあげればきりがないが、これらは元々はすべて人の動物本能の無制御から来るものだと言えるのではないだろうか。動物本能の無制御とはすなわち「自己中心」状態である。一人ひとりの自己中心はわずかでも地上には2012年現在で既に70億人を突破している。一人が一日にたった一個の空き缶を路上や野山に捨てただけで、一日に70億缶がこの地球上にゴミとして放置されるわけである。

私は太った人が嫌いである。(病気で太っているのは仕方がない)太っている人は人のぶんまで食べるから太るのである。動物本能を制御できないのは人として上等とは言えない。地上に飢えで死ぬ人がいる限り、食べ過ぎてはいけない。特に宗教を語る人は、太ってはいけない。人のぶんまで食べたいなら宗教を語ってはいけない。かつて偉大な宗教者で「デブ」はいたためしがない(見てきたようなこと言う)。太っているということはそれだけでその人が「制御」ができていないことを示している。太っているその人は自己中心であることを体で表現しているのであり、綺麗事を言っても説得力はないであろう。

この「食欲制御」の例えは取るに足らないことに聞こえるかもしれないが、70億集まればこれがもとで戦争が起きる。世界の陸と言わず海と言わず単なる食料供給の場として開拓し、一見人には役に立たない動植物を駆逐して結果的には自らの首を絞めるのである。多くの人はこの今の行いが明日の自分の首を絞めることをわかっていながらたらふく食べるのである。

利己心とはそれが小さなものでも、70億集まれば世界を破滅に追いやることを忘れてはならない。電気のことも、車のことも、水のことも、すべて70億倍にして考えてもらいたい。他でも書いたが( 確定された予言 http://michioscud.blogspot.co.uk/2012/05/blog-post.html )、私たちはこの地球がガタガタになったからといって他の惑星に引っ越すわけにはいかない。ここでしか生きられない。


「いかに生きるか 」編がこれで終わったと思うあなたはみっちーという人間を理解していない^^;
これでは人間は半端なダメな存在としか言わずに終わってしまう。そんなわけはない。では、人間のすばらしさとは・・・・乞うご期待 !


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