2011年12月23日金曜日

日本人は滅亡した

政権公約をマニュフェストと言うらしい。政権公約とは選挙の時に、その党が政権担当をすることになったら、このようなことを実行します、と言う公の約束事である。欧米の選挙のマネである。新聞などはマニュフェストと書いてその後に括弧書きで政権公約と書いてある。はなっから政権公約と書けば事足りるではないか。バカバカしい話しだ。国会では率先して外来語を使って議論などをしている。バジェット、インフラ、サマータイム、ガバナンスなど。テレビの世界ではDV(家庭内暴力)、MC(司会)などさらに英語の頭文字をとって短くしている。だいたいなぜ日本の国営放送がNHKなのだ?旧国鉄がJR,家庭ではパパ、ママである。本州にある大きな山脈を日本アルプスという。歌手が歌を歌っている。その最中にまったく何の必然性もないのに歌詞が英語に変わる。聞く方もこれに異を唱えるふうは見えない。

日本の職業蹴球や野球のチームは松本山雅を除いてみなカタカナが入ってる。(ばかじゃないの、あんたら・・・)
郊外にある集合型商業施設では店舗の名前は多くがカタカナかアルファベットである(漢字を使っているのは呉服屋と中華料理屋くらいなものである)。寿司屋なんてめったに入らない((入れない^^;)が鮭をサーモンと言う。外来語だけでなく日本語さえ外国語に置き換えたいらしい。必然性はない。ただ客受けを狙っているのだろう。

日本は第二次世界大戦に負け、貧しい暮らしから這い上がるとき、その目標は欧米であったに違いない。彼らの言葉を使えば自分たちも彼ら並みになれると信じた。自分を教養のある人と見てもらいたい、と言う願望もあるだろう。

会話や文章の中に外国語を多用して自国を非難する日本人がいる。それで自分が白人になったつもりの人がいる。白人の言葉を使ったからと言って鏡を見てみれば白でもない、黒でもない、その顔は黄色人種なのだが。それが何か不満なのだろうか。

自分の名前を外国のそれにして喜んでいる人達がいる。芸能人に多い。一般人も海外に出るとこれをやる人が多い。日本人以外には日本人の名前は覚えにくい。当然である。ではそれが故に日本にいるアメリカ人が日本人のために太郎だの花子だのに名前を変えてくれるだろうか?

※ちなみに「みっちー」は私の幼少の頃からの呼称である。みちおだから愛称(?)としてみっちーが定着した。カタカナで書かないのは私のこだわりである。

自宅の表札をアルファベットで書く人も多い。おかしな事だとは思わないらしい。外国人の訪問者などは一生涯来ないにもかかわらず。

むきになって貶(けな)すことでもないが、敗戦後日本人は世界に互して行ける民族ではなくなった。欧米に決まりごとを作る役割を頼り切るようになったからだ。率先して規則を作る側にはなれなくなってしまった。日本人は汲々として規則に従う側に回っている。この心根が問題である。

アメリカを見よ。毎年銃による死者が一万数千人にのぼる。公的保険がないので病気になっても医者にかかれない人がたくさんいる。

英国を見よ。世界中に争いの種をまき、水までくれて我関せずの涼しい顔をしている。日本の国会は英国をお手本にしているそうな。噴飯物である。そんなにいい制度を採用しているならさぞ首都であるロンドンの治安はいいことだろうな。民族も歴史も違うのである。日本は日本の民主主義があってしかるべきだ。我々には何も参議院という有給高級老人倶楽部で金持ちを遊ばせる義理はない。

福祉は北欧が定評がある。日本の福祉の貧しさを語るとき、(実際日本の福祉は悪くないのだが)政治家やテレビでは北欧を引き合いに出す。お偉い議員さんたちは視察旅行と称して北欧を見てまわる。北欧の福祉を日本に持って来て日本人は幸せになれるだろうか。

それでも欧米に憧れる。自身の哲学がないのである。人の世に関する問題はその根底に「人とは」、「幸福とは」、そして「人生とは」などの基本的な哲学がないといい答えは見いだせない。もっとも大切なことは「自分とは」であろう。自分を構成する要素の一つに「日本人」ということが厳然としてある。

日本人は今、かつてない速さで独自の言葉を失いつつある。言葉と文化は密接なつながりがある。言葉を失うということは文化を失うということだ。それは古くから保ち続けてきた日本人の精神的柔軟性がいま外来語の襲来によって軽薄性に取って代わられつつあるからである。テレビを見ると日本が軽薄時代の全盛期であることがわかる。面白ければ、そして視聴率が取れればこれを良しとする。

かつて大宅壮一という人がマスコミの堕落を指して「一億総白痴化」といった。54年も前のことである。人は自分でものを考えることができなくなってる。意見を言ったとしても、それはマスコミからの借り物で、下手をするとさっきテレビで見たことを自分の意見のようにして語る。語った本人も気づいていない。自分の頭がやられていることに。

日本人はすでに滅亡したかも知れない。恐ろしいことである。

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