2015年7月19日日曜日

夏来たりなば

お陰様をもって、野鳥貸家編(シリーズ)はちょこっと好調である。庭に野鳥用の巣箱をかけて、その観察記録モドキである。こんなものは、多くの若いお母さんが、自分の赤ん坊がかわいくて仕方なく、これを不特定多数の人と共有したくて、一所懸命に電子日誌や顔本(?^^;)に掲載するのと大差ない。楽しいのは自分だけ、と思うのだが。

それにしても、野鳥たちは春に営巣開始して抱卵、子育て、巣離れ、ちょっとだけ餌のとり方などを雛たちに教える。この間おそらく一ヶ月少々であろう。その後の約十一ヶ月は何をしているのだろうと、疑問に思った。

野鳥たちは、成鳥になってその寿命が尽きるまで上記の生活を繰り返す。生物だから、子孫を残す行動は当然だが、それに費やされる時間は、大雑把に鳥は人生(鳥生?)の十分の一ちょっと。人間は、四分の一ほど(平均寿命80歳とし、子育てに二十年とした)。人間の場合、成長期はともかく、子供が手を離れた、それ以降の時間って何なのだろう、とふと考えた。

人が幸、不幸を語って泣き笑いをするのは、宇宙の構造を知らないからだろうと思う。私は、人が生身の体をまとっている間は、この宇宙の構造はわからないようになっているのだと思う。だからこの世から幸も不幸も、泣きも笑いも決してなくならないだろう。

親鸞が語ったと言われる「善人尚往生とぐいわんや悪人をや」の意味するところ、私の解釈は一般とは別である。ただ、そう思うだけで、もちろん確固たる証はない。今よりも科学、哲学、そして宗教の研究が進歩し、それらの補完関係が進めば、凡夫たる私たちにも人生の意味とかがわかるようなるのではないか、と思いたいのである。幸不幸、泣き笑いは無くならなくても、これらを糧としてその質自体は向上するだろう、と思いたいのである。

食って、寝て、子供育てて終わるならサルでもできる。金儲けがうまくても、真摯に生きるのでなくては、人生がもったいない。幸福で楽しくても、進歩がなければ・・・。

空き家になった野鳥貸家を眺めてこんなことを考える。台風一過、午後から暑くなりそうだ。私は、暑さには強いようだ。だが、嫌いだ。金があれば南米チリと北米アラスカに家を買い、一年中冬を満喫していたい。

夏来たりなば冬遠からじ。しばしのがまんじゃ。早く薪ストーブに火を入れたい。


0 件のコメント:

コメントを投稿